2-2 爆発(2)

(耳が……聞こえない)

 耳が厚い膜に覆われている不思議な感覚。水の中に沈められたような気持ちの悪さが、すばるの聴覚を奪った。髪はチリチリと焼けるほど熱く、頭は割れんばかりに痛い。頭を上げると、すばるの体を支えた市川がすばるに何かを必死に呼びかけている。声がこもって聞こえているせいで、内容がよく分からなかった。炎に目を奪われてチカチカする視界のせいで、唇の動きを読むすら出来ない。

 自分で立つこともままならず、市川にしがみついたすばるは、飛び出しそうになる心臓を掻きむしるように抑えた。

「……っ……さ……」

 市川の名前を呼びたかったすばるの声は、まともに出すこともできない。次第に目の前で起こった出来事が、足元から這い上がる恐怖とともに現実味を帯びてくる。市川を掴むすばるの手は、こわばるほど震えていた。

「……れッ」

 僅かに回復した聴覚が、途切れた言葉を拾う。瞬間、腰のベルトを強い力で掴まれた。すばるの体がまた浮き上がる。

「走れッ!! すばるッ!!」

 遠野の強く鋭い声が、すばるの背中から突き刺さった。同時に、強い熱風が頬を掠める。危機がすぐそこまできていた。

 あの記憶が目の前の業火のせいで、再びぶり返す。途端に、胃の中のものが逆流した。喉を焼き切るような熱さが気道を圧迫する。瞬間、足も手もすくんでおもりがついたように動かなくなった。

(また、失くしてしまった……また)

 希望すら、未来すら。目の前から燃えて消えてしまう。

 希望を抱き、未来を思い描くとことなど、してはいけないのだろうか? そう思うと、自分自身の心身が、崩壊したパズルの如くガタガタと音を立ててくずれていくようだった。

「あ……あぁ……」

「すばるッ! しっかりしろッ!!」

 過去のトラウマと自分が犯した罪が、すばるの混乱した頭を支配する。それは、風圧で息が詰まった時よりも、迫り上がる吐き気よりもずっと。息をすることを困難にさせたていた。

 遠野と市川に抱きかかえられ、ガードミラーを曲がる。そして、その先に停めてあった車に、投げ込まれるように乗せられた。

「田中、出せッ!!」

 すばるの家にいた時とはまるで違う、緊迫した遠野の声が頭の上で響く。その緊迫が、すばるの心臓を余計に痛くした。

「……痛い……痛いッ」

 自分の体と心が乖離かいりする。すばるは、市川にしがみついて、必死で心臓の痛みに耐えていた。硬直するほど力が入った手が震えて、滑らかな布地のジャケットが手中でしわくちゃになる。

「大丈夫。私たちがいるから」

 遠野の緊迫した声とは対照的に、市川の穏やかな声音がすばるの頬を震わせた。

 緊張感と逼迫感。そして、心の底から欲する安心感が、すばるの身体の中で渦を巻く。

 爆発が、爆風が。もう安心だと思いつつも、未だすばるの記憶も身体も支配する。すばるは目をギュッと瞑り、一人自分自身の底知れぬ不安と戦っていた。

(……助けて! 助けて……!! いい子にするからッ! もうオレから何も奪わないで!)




「気がついたか? すばる」

 ぼやける視界をならすように。ゆっくりと目を開けたすばるは、自分の名前を呼ぶ方へ視線をうつした。徐々に鮮明になる視界の先には、心配気に笑う遠野の顔がある。すばるの顔を覗き込んだ。革製の黒い長椅子に寝かされていたすばるは、はみ出した足を床につけて、ゆっくりと体を起こす。遠野がその肩にそっと手を添えた。

「ここ……どこ」

「警察本部の中」

「……え?」

 遠野の言ったことがすぐには理解出来なかったすばるは、咄嗟に記憶を反芻はんすうする。遠野の深い色をした目をジッと見つめていると、その目に飲み込まれるよう、もやがかかった頭の中が次第に形をなしていく。徐々に、頭の中の映像が色味を帯びていった。

 --爆風、強い光、耳が死ぬくらい大きな音。そして、身を焦がすような……熱。

 爆発--!!

 家族が乗った焦げた車と、目の当たりにした爆発が頭の中で交錯する。

 すばるの額から冷や汗が、どっと吹き出した。途端に喉を焼き切るような熱さが、再び体の中を逆流し、すばるは思わず口元を手で抑える。

「ッ!!」

「大丈夫か!? すばる、もう少し横になってろ」

 込み上げる吐き気を必死に堪えて、すばるは遠野の声に首を横に振った。

 これほど弱いとは、すばる自身思いもよらなかった。一人で大丈夫だと、誰にも頼らず生きていけると、そう思っていたのに。すばるの背中をさする遠野の手は、求めていた安心感を肯定するほど、やたらと暖かく優しい。

(あの時の市川さんと、同じ手をしている)

 込み上げる吐き気を無理矢理おさめ、すばるは、ふーっと深くため息をついた。

「……大丈夫」

「すばる……」

「もう大丈夫だよ、遠野さん」

「痩せ我慢するな」

「え?」

「顔色、ひでぇぞ」

「……」

 顔色が酷いことくらい、すばる自身、鏡を見なくても分かる。しかし改めて遠野に指摘されると、その言葉が思いの外すばるの胸に深く刻まれた。己の弱さを露呈ろていするような感覚。すばるは手をギュッと握りしめた。

「頼れる時に頼っとけ」

「……大丈夫、だってば」

「目の前であんなことが起こったんだ、仕方ねぇよ」

「大丈夫だよ」

「俺だって、まだ膝がガタガタしてんだぞ? 正直、大丈夫じゃねぇよ」

 遠野は苦笑いすると、すばるの肩を叩きながら言った。わかっている、頭では理解している。

 おじさん特有の距離無し感も。膝がガタガタなんて、老いと恐怖をかけた自虐的ギャグだってことくらい、すばるもわかっている。しかし、今は。そのくだらなくも暖かな遠野の気遣いが、痛いほど心臓にしみた。

「もう少し寝とけ。寒いなら、もう一つ毛布を持ってきてやろうか?」

「大丈夫……寒くない」

「遠慮すんなよ、すばる」

「……ねぇ、遠野さん」

「なんだ?」

「オレが寝るまで……手ェ繋いでてくれない?」

 中三にもなって、と。我ながら幼稚なことを言ってしまった。急に自覚したすばるは、恥ずかしくなって頭をすっぽりと毛布の中に埋める。

「いいよ、すばる。ゆっくり休めよ」

 毛布から少しはみ出たすばるの指。そこから、遠野がすばるの手のひらを探るのが分かった。大きく厚い、そして温かな手が。すばるの冷たくなった手を包み込む。

(優しい、手。守ってきた手だ)

 安堵なんていつぐらいに感じただろうか? その心地よさに神経を集中させていたすばるは、急激に襲ってきた眠気にあっという間にのまれる。そして、すばるは、遠野の手に指を絡めて目を閉じた。




爆発物処理班機動隊と鑑識からの報告です」

 鉄扉が静かに開き。落ち着いた口調の市川の声が、狭い室内にこだまする。遠野は市川に視線を送ることなく、缶コーヒーをグッと飲み干した。

 F県警察本部にある、取調室。

 施錠も盤石で、監視カメラがある室内は、かくまうには絶好の場所と言える。

 被疑者取調べ適正化のため、取調監督に関する規則が施行されてから、可視化の極みとも言える取調室。まさかこんな事に役立つとは遠野自身思いも寄らなかった。

 すばるが、再び深く意識を沈めてからしばらく。遠野は一人、大きなマジックミラーの前ですばるを注視していた。ドアを一枚隔てた部屋で缶コーヒーを口に含む。眠りに落ちても、遠野の手を握りしめたすばるの手は力が抜けず硬かった。しばらく手を握り、そっとその手を抜いた遠野は、音を立てずにすばるから離れる。

(無理もない……まだ子どもじゃないか、すばるは)

 安心したように深く眠るすばるを注視しながら、市川の言葉を待つように、遠野は腕組みをして壁に背をもたれる。

「車に仕掛けられたのは、故意に作成された爆発物だそうです」

「そうか……」

 市川の淡々とした報告に、遠野はため息を吐くと同時に返事をした。遠野のかたわらには、すすがつき焦げた跡のあるジャケット。爆心に一番近かった遠野が、受けた衝撃の記憶を深く鮮明に残す。

「詳細はまだ分析中ですが、配線と遺留物から時限式と人感式、両方で作動する仕組みとなっているようだと報告がありました」

「なるほどな。世の中進んだなぁと、思っちゃいるけど。爆発物まで進化したらたまんねぇな」

 市川は、遠野のジャケットを手にした。

「しかし、遠野補佐。よく分かりましたね」

「ん?」

「車に爆弾が仕掛けられてるって」

 市川は、遠野を覗き込む。少し不満気に、瞳を揺らして遠野を見つめる市川に、遠野は苦笑いした。

「なんだ、怒ってるのか?」

「早く言っていただけたら、爆発処理班を要請したのに……。どうして、無茶ばかりされるのか」

 あの時遠野は、事前に市川から連絡を受けていた。すばるの親戚が自宅の駐車場に車を停めたことを。しかし、それは日常のこと。連絡を受けたその時は、遠野自身、何も感じてはいなかったのも事実だ。

「直前に気づいたんだよ、本当に」

「……」

「それに人感式だったんだろ? 爆発処理班が近づいたら、それこそ……だ」

「しかし……!」

 口調を強めた市川が、次の言葉を飲み込んだ。常に穏やかで冷静な市川にしては、めずらしい。遠野は、市川が言うはずであった事柄を察して、極力、口角を上げて言った。

「すばるの命を危険に晒したのは、悪かった」

「……」

「相手の出方が分からない以上、後手後手になるのは致し方ない。結果論にしかなんねぇが。それでも、最善の行動だったと俺は思うよ」

 揺るぎない遠野の言葉に、市川は「分かってます」と、小さく答えた。やるせない、そんな表情をした市川は、遠野から目を背けると苦し気に呟く。

「すばるの帰る場所を……守れませんでした」

 警察官でありながら、犯罪被害者である市川は、すばるの少し先の未来を懸念けねんしていた。再び、市川にこんな表情をさせてしまった。遠野は胸の奥を締め付けられるような、感覚にさいなまれる。

「また、作ればいい」

「……そんな、簡単には」

「俺がいる。それに市川も、みんないる。犯罪被害者を犯罪被害者のままにしておくわけにはいかない。必ず、その先の未来に目を向けられるように。俺たちが、すばるを支えるんだ」

 遠野は、俯く市川の肩に手を置いた。自分が言った言葉は、決して綺麗事にはしない。そう自覚し実行するためにも、己に課した強い責務である。遠野は、そう自らを鼓舞した。

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