1-3 ブラッド・ダイヤモンド

 相変わらず、人の気配すらない執務室。深く息を吐いた遠野は、自分のデスクに車のエンジンキーを放り投げ、すぐさま踵を返した。そして、抜管した蛍光灯がぼんやりと灯る薄暗い廊下を足早に進む。

 サイバー犯罪対策課の執務室を通り過ぎ、遠野はその奥にあるドアへと一直線に向かった。古巣に顔を出したのは山々だったが。今は顔を出すよりも優先すべきことが、あのドアの向こう側で待ち構えている。

 遠野は短くノックをすると、ドアノブに手をかけた。

「お呼びたてして申し訳ありません。遠野補佐」

 狭く圧迫感のある会議室に設置された長机。ブラインドが下ろされた窓側には、濃灰色のうかいしょくのスーツを着た市川が立っている。市川は遠野に向かって、深く頭を下げた。弱い照明の灯りは、壁に届かず室内は廊下同様に薄暗い。その背景に溶け込んでしまうような市川のいでたちに、遠野は一瞬、ハッと息を呑んだ。

 市川が消えてしまう--。

 巣食う記憶を刺激された遠野は、自分に湧き上がった感情を隠すように、無意識に口角をあげた。

「改まなんなよ、イッチー」

 上擦る寸前の明るい声。自分自身にワザとらしさを感じ、遠野はたまらず苦笑する。

「いえ、お忙しいのに。用件を優先させてしまったのは私の方ですから」

「……顔色、大分良くなったな」

「最近は……よく眠れるようになったので」

「緒方が言ってたぞ。目を離すと、すぐ飯を食わなくなるって」

「お恥ずかしい話、今も大分……緒方には助けられてます」

 市川は、少し申し訳なさそうな表情をして言った。

「甘えられる時に、目一杯甘えとけ。後から返せばいい」

「はい」

 はにかみながら短く返事をする市川は、どことなく昔の市川に戻ったようだ。遠野は思わず、市川の頭をくしゃくしゃと撫でた。咄嗟のことにされるがままな市川は、眼鏡の奥の色素が薄い瞳を大きく見開く。そして、撫でられた頭に右手を添えると、困ったように目を伏せた。

「……遠野補佐は、変わりませんね。教官だった頃から」

「変わらんことあるか。めちゃくちゃ老化してるぞ、俺は」

「外見的なことではなくて……」

 市川は小さく笑うと、長机に置かれたファイルを手にした。そのファイルに妙に引っかかりを感じながらも、遠野は錆びついたパイプ椅子に腰を下ろす。

「実は、遠野補佐のお力を貸していただきたいことがあるんです」

、なんだろ?」

 市川によって開かれたファイルが、長机の上に置かれる。資料が仄暗い照明を反射し、白く浮かび上がった。遠野は片方の眉を上げて覗き込んだ。赤い文字で〝秘匿〟と記載された資料には、年端もいかない少年の写真が貼付されている。柔らかなクセのある髪に、幼さが残るものの端正な顔立ちの少年。真っ直ぐにこちらを見つめる黒い瞳は、柔和な外見とは相反し、意志が強そうな印象を受けた。

「こんな子ども……何の被疑者なんだよ」

「それが、少し厄介なんです」

 めずらしく、市川が歯切れの悪い言葉を返す。遠野は最初に感じた引っかかり。遠野は市川を一瞥いちべつすると、胸に巣食うもやを払うようにファイルをめくった。

『認定事件第十六号 株式会社アッパーフロンティアに係る不正アクセス禁止法等違反事件』

 捜査第二課に異動した遠野にとっては、かなり懐かしく感じる言葉の羅列られつを目で追いはじめる。

「……やっぱ、年代かなぁ。こんな子どもがハッカーかよ」

「なくはない話です。例は極端ですが、もハッキング能力に長けていましたから」

 無関係ともいえる事件で、過去に降りかかった自分自身の忌まわしい記憶を掘り起こす。その過程を通過しているにも拘らず、市川は淡々とした口調で答えた。

 市川の表情を見ることなく、遠野は静かにその声を背中で受け止めた。

 思い出すたびに、焼け付くような熱さが喉元を通り過ぎる。そんな感覚に未だに苛まれる、一年前のあの事件。市川が〝特殊な例〟として口にした人物の名前は、市川にとっても遠野とっても。死に直面した辛く苦い事件を、容赦なくぶり返させるのだ。

 精神の昂ぶりからくる喉元の擬似的な熱さを押し殺し、遠野はファイルに再び視線を落とした。

『被疑者 三ツ谷すばる 十五歳』

 ややもすれば、狂気に身を落とすあの殺人鬼サイコパスにもなりうる。しかし遠野には、三ツ谷すばるの眼差しに佐藤ルカとは違う何かを直感的に感じていた。

(この子は、大丈夫だ。多分)

 〝刑事の勘〟と言ったら聞こえは良い。そう思った根拠を、かつての教え子である市川に披露するにはいささかお粗末すぎる。遠野はそう判断し、口に出すのを自重した。

「しかし、思いっきり〝少年〟だろ? 何故、少年課と連携しないんだ?」

 遠野が疑問に思うのももっともだ。

 二十歳に満たない未成年--所謂〝少年〟が起こした犯罪は少年法に基づいて処罰が科せられる。

 もちろん、同様の罪を犯した二十歳以上の成人に対する処罰とは性質を異にする。

 少年犯罪自体は減少傾向にあるものの、犯罪の傾向は年を追うごとに凶悪性を増加し、さらには少年犯罪が低年齢化している情勢にある。そうした情勢を踏まえ、満年齢十四歳以上で罪を犯した場合は、刑事責任が生じるようになった。たとえ〝少年〟であっても、犯罪に応じた罪が重く問われることとなるのだ。

 とはいえ、いくらサイバー犯罪対策課の事件に係る被疑者が少年であった場合としても。それに関する確保や護送は、専門である少年課との連携が必須。少年犯罪についてそれほど得意分野でもない遠野でさえ、認識している事項だ。

 いぶかしげな表情をして、遠野は対面の市川を見た。対照的に表情を変えることなく、市川は口を開いた。

「〝ブラッド・ダイヤモンド〟を。ご存知ではないですか? 遠野補佐」

「〝ブラッド・ダイヤモンド〟?」

「〝ブラッド・ダイヤモンド〟世界的なハッカー集団です」

 市川の声が厭に耳に残り、遠野が抱いた直感が悪感へと傾くのを覚えた。


 ブラッド・ダイヤモンド--。

 天才ハッカー〝ステラ〟を中心とした、世界的なハッカー集団である。

 外資系大企業を巻き込んだ仮想通貨システムに侵入し、多額の資本を抜き取り、世界中を震撼しんかんさせた事件は記憶に新しい。直近では、先進国の報道機関や国家機関のキナ臭い情報を全世界に流出させた。そればかりではない。国家間のサイバー戦争に加担するなど、活動の範囲が多岐に渡りすぎていることから、世界中のサイバー空間はブラッド・ダイヤモンドが掌握しているという情報まである。

 政治的信念、経済的利益。

 ハッカー集団によって攻撃対象や得意分野が決まっているものである。しかし、ブラッド・ダイヤモンドだけは、あらゆる分野に関わっているため、国を超えて捜査をしているにも拘らず、その実態については全く掴めていない。

 最近はさらに組織を拡大し、ちらほらと知能犯事件にもその名を頻繁に現すようになってきた。先日、捜査第二課長も、その動向を注視するよう、捜査員に指示を出したばかりだ。

 遠野は面食らった。世界中にその名を轟かせるハッカー集団・ブラッド・ダイヤモンド。まさかこんなに早くその名を、こんなところで聞くことになろうとは。しかも少年が絡む事件に関わるとは、思いもよらなかったからだ。

「そんな奴らと事件コレと、何の関係があるんだよ」

 情報と状況が繋がらず、うまく消化できない遠野は、眉間を親指で押さえて言った。

「三ツ谷すばるは、ブラッド・ダイヤモンドに接触したようなんです」

「……なんだって?」

 にわかには信じ難い市川の言葉。遠野は思わず顔を上げた。

「なんで、こんな子どもがそんな……。まさかスカウトか何かか?」

情報技術犯罪対策課本庁も、その辺を疑ってようです」

 驚愕し言葉も出ない遠野の顔を覗き込み、市川はさらに続ける。

「しかし、三ツ谷の住所地を管轄する当課が監視していた感じでは、どうもそういう類で接触をしたわけでもないみたいで……」

「……偶然か、必然か。どちらかか?」

「おそらく」

「……世も末だな。しかし何でまた、そんなのに」

 市川に今日呼ばれた主旨を、遠野はなんとなく理解し始めた。

「そこを含めて、遠野補佐にお力を貸していただきたいのです」

 市川は真っ直ぐに遠野を見た。意志の強い、色素の薄い瞳の虹彩。どんなに辛い過去を抱えようとも、この視線の力強さは変わらない。遠野は、市川の揺るがない芯の強さを垣間見た気がした。これから市川の口から語られる内容は、予想する事態より大きなものとなる。そう確信した遠野は、冷たくなった手をギュッと握りしめた。

「三ツ谷すばるの護送をお願いしたいのです。こうして捜査員でもない私が、取り扱っているのもこの事件の特殊な秘匿性ひとくせいにあります」

「じゃあ、やはり認定事件が丸秘フェイクか……」

「はい。実はここ数日、三ツ谷自身に複数のサイバー攻撃が確認されています」

「……」

「相手はブラッド・ダイヤモンドです。見えない攻撃が、いつ実体化するかわからない。このままでは三ツ谷の安全も確保できるかわかりません。状況は切迫しています」

「……しかし」

「本来ならば、私が護送に従事しなければならないのですが……。私一人では、無理だと判断されました」

 眼鏡の奥の目を伏せ、市川は下唇を噛む。警察官として、本来実行すべき職務を全うすることが出来ない。〝戦力外〟と判断されることの辛さ。未だ解放されない市川の苦痛が遠野に分からないはずはない。華奢な市川の体が小さく震えたのが見えた遠野は、苦しげに葛藤するその肩に手を添えた。

 長い間サイコパスに付け狙われ、更には親友や身内まで失ってしまった。遠野が計り知れないほど、市川は異常に深い傷を心身共に負っている。事件が解決してもなお、未だ癒えぬ傷。その傷は、内的にも外的にも市川を心をむしばえぐる。

 「拳銃が握れない」と震えていた、あの時の市川の姿を思い出した遠野は、真っ直ぐに市川を見ることができなかった。

 上昇可動する心臓を抑えるように。薄く息を吐きながら、市川は続ける。

「遠野補佐は、刑事畑けいじばたが長い。しかし特殊急襲部隊SATや警衛警護にも従事し、手腕を発揮していらっしゃいました」

「昔、短期間に在籍していただけだ。そんな……」

「遠野補佐の経験値が必要なんです。三ツ谷を……本庁まで護送していただけないでしょうか」

 市川が、珍しく語尾を強めて言った。そして、深く頭を下げる。

 遠野は正直、迷っていた。秘密裏の警護対象者マルタイほど厄介なことはない。経験上、遠野は痛いほど知っている。成功するのは当たり前。失敗したら、何事もなかったかのように闇に葬られる。対象者、捜査員関係なく、ほんの少し関わった者まで、きれいさっぱりだ。

 あの事件を最後に、遠野はしばらく休職していた身である。復職し昇任したとはいえ、サポート役に徹した今の課で体を慣らしていこう、と考えていた矢先のことだ。未だ戻りきらないと体力や鈍る現場の勘。通常の警護より高度な精神力と身体能力を求められる今回の警護に、遠野本人ですら自信が持てないでいたのだ。しかし今、かつての教え子が自分の能力スキルと時間をくれと、必死に頭を下げている。

 遠野はふっと息を吐くと、市川の肩にそっと手を置いた。

「頭を上げろ、市川」

「遠野補佐……」

 目を丸く見開いて、市川が顔を上げる。

「最善を尽くす」

「……ありがとうございます!」

「ただし、少し時間をくれないか?」

 遠野は捲っていたファイル閉じて、左手を置いた。誓いを立てるように。職務を無事全うできるように。自らの思いや希望を、置いた手からファイルへと繋ぐ。

「ブラッド・ダイヤモンドのことも熟知したいし、護送経路も綿密に練りたい。それに……」

 遠野は、ゆっくりと目を閉じた。そして、瞼に浮かび上がるファイルの中の写真を、強く脳裏に焼き付ける。

「対象者に……三ツ谷すばるに、きちんと向き合いたい」

 遠野は真新しい警察の制服に袖を通した、拝命当時を自身を思い出していた。真っ先に刻みこざまれた根本というべき言葉が、後ろ向きだった遠野の思考を削除していく。

 士気が奮い立つ。ゆっくりと、自分の中に落とし込むように。遠野はその言葉を静かに口にした。

「何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党且つ公平中正に警察職務の遂行に当ること」

「遠野補佐……」

「三ツ谷すばるに安心して身を預けてもらうには。それしかないからな、俺には」

 真っ直ぐに遠野を見つめる市川の視線に遠野は苦笑いをする。自虐的に覚悟を決めたように見える遠野の言葉。市川は、その言葉に返事をすることができないでいた。

「……すみません、遠野補佐」

 たまらず出たのは、自分の不甲斐なさから遠野を巻き込んでしまった故の謝罪。市川はもう一度、深く頭を下げた。

「それしか、俺にはできる術がないんだよぁ」

 そう小さく呟いた遠野は、ファイルを手に会議室のドアへと踵を返す。

「なぁ、イッチー」

「なんでしょう」

「この案件が終わったら、一杯付き合ってくれよな」

「はい。必ず」

「約束だぞ」

 手にかけたドアノブが、遠野の手にはいつもより重たく感じた。今まで何十回とこの鉄扉を押しているにも拘らずだ。遠野は、グッと力をいれて会議室のドアを開ける。ふと廊下の先の窓の外に目をうつすと、斜陽で明るかった外は、すでに暗くなり始めていた。夜の始まりを告げるシンとした空気に、遠野は無意識に身を引き締める。薄暗い廊下を照らす蛍光灯は、どことなくやはり心許無い。淡い灯りに輪郭をなす遠野の影は、そのまま床に溶け込むようだった。

 遠野はファイルを持ち直すと、その影を踏み締めるように再び廊下を歩き始めた。

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