みーこそっくり

寒竹泉美

みーこそっくり(1話完結)

 圭介はいつも、ラフ画を完成させるまでは、担当する作家のことを知らないままでいることにしていた。編集者の片岡にも、依頼のときに、作家の情報を教えないでほしいと頼んでいる。名前も年齢も性別も、これまでの作品も知りたくない。先入観をもたずに文章に向き合いたい。


 作者のプロフィールや評判を気にしながら絵本を読む子どもは、おそらくほとんどいないだろう。できるだけ読者と同じ気持ちで読みたかった。表紙を見て、最初の一ページを開いて、物語と出会うその瞬間を想像しながら、絵を描きたかった。


 が、知らないままでいるのは今日までだ。ラフ画が完成したからだ。


 圭介は大きく深呼吸をした。片岡が作家を連れてやってくる約束の時間まであと五分もない。今日は、ここで圭介の描いたラフを初めて見てもらうのだ。


 圭介はソファーから立ち上がると、部屋の中をうろうろと歩き回った。妻のゆかりのCDコレクションの中から一枚選んで再生してみたが、ちょっと気取りすぎているかと思い直し、停止させた。クッションの位置を直し、また元に戻す。


 初めて絵を見てもらうときのそわそわした気持ち。これは何度経験しても慣れることはない。作家にとって、作品は大切な宝物だ。子どものような存在かもしれない。でも、かといって、遠慮して描いては絵本に命が吹きこまれない。こちらはこちらで、全力で愛を注ぐ。その注ぎ方を気に入ってもらえるかどうか、これはもう作品の出来がどうこうというより相性の問題かもしれない。


 チャイムが鳴る。緊張して玄関のドアを開けた圭介だったが、片岡の隣にいる小柄なショートヘアの女性を見て、思わず口から愛称が飛び出た。


「みーこ……」


 女性は驚いて圭介を見た。もっと驚いているのは、隣にいる片岡だ。


「ふたりは知り合いだったんだ」


「いいえ、初対面です」


 女性は言った。


「それにわたし、みーこではありません」


「ですよね。粟田まちさんですものね」


 片岡は、圭介をにらむと、まちに向かって神妙に言った。


「こいつとは中学生のときからのつきあいなんです。悪いやつじゃないことは私が保証しますから、怒るのは事情を聞いてからにしてくれますか?」


 まちはうなずいた。気分を害している風でもなかった。ただ、じっと圭介を見ている。


「圭介、説明しろ」


 あきれたように片岡が言った。圭介も神妙な顔を作った。


「そっくりだったんだ」


「どこの女と?」


「女というか、猫だよ。僕の描いたミカエルと」


「ミカエルとわたしがそっくり?」


 自分の物語の主人公の名前を聞いて、まちの目が輝いた。


「そう。つまり、描いてる間、ミカエルのことを、みーこって勝手に呼んでいて……。作者はどんな人だろうって楽しみにしてたけど、あまりにミカエルそっくりなものだから、思わず口から出てしまったというか……」


「何ですか、それ。早く、絵を見せてください」


 圭介はもう一度神妙にうなずくと、リビングにふたりを通した。そして、ラフ画と試しに色をつけてみた見本を渡してから、少し離れたカウンターキッチンに立った。ミルにコーヒー豆をセットする。なるべくふたりの様子を見ないように、手元に集中する。まるで判決を待つ被告人のような気持ちだ。圭介としては満足のいく出来だったが、ふたりがどう思うかはわからない。絵の出来だけでなくテイストの好みもある。イメージが全然違うということももちろんあり得る。


 カップを三つ載せたお盆を持って、リビングに戻った圭介を見るやいなや、片岡は大きな声で笑いだした。


「やるなあ、お前。本当に、まちさんにそっくりじゃないか」


 片岡は言った。


「似てますか? 自分ではわからないんですけど」


 まちは片岡に真面目に問う。玄関で見たときよりもリラックスしている様子だった。


 その場の空気が悪くなっていないことにほっとしながら、圭介はローテーブルにコーヒーを置いた。椅子を持ってきてソファーの前に座る。


 片岡はカップに口をつけたが、まちは絵を見つめ続けている。圭介と片岡はコーヒーを飲みながら、まちが口を開くのを待った。あまりにも長い時間黙っているので、何か不満があって言いづらいのかもしれないと思い至った圭介は、


「どうでしょうか」


 と、遠慮がちにきいてみた。まちはぴくんと体を震わせて、驚いたように圭介を見た。まるで、そこにいるのに初めて気づいたみたいだった。


「すごくいいです」


「……ありがとうございます」


 圭介はほっとしてため息をついた。


「うん、いいね」


 と、片岡も言った。


 作者と編集者にいいと言ってもらえたら、圭介の仕事は終わったようなものだった。物語の世界を表せていて、読者に伝わる絵になっていると、専門家の彼らがそれぞれ保証したのだから、あとは心をこめて仕上げていけばいい。


「どうしてわたしの頭の中がわかるんですか? 魔法使いみたい」


 手品を見せられた子どものような顔で、まちが圭介を見る。ますますみーこみたいで圭介の顔はほころぶ。


「全部、文章に書いてありましたから。僕はそれを読んで描いただけですよ」


 魔法使いはあなたの方ですよと言ってみようかと圭介は思ったが、片岡に聞かれるのが恥ずかしくて、やめておいた。


「片岡さん、ありがとうございます。素敵なイラストレーターさんを紹介してくださって」


「合うと思ったんです。まちさんの世界観に」


 作家は、今度は圭介に向き直った。


「わたし、ケースケさんの描いた作品を片岡さんに見せてもらって、絶対この人がいいと思ったんです。でも、ケースケさんは、気に入った作品じゃないと描かないって聞いていたので、気に入ってもらえるか心配で心配で。描いてくれるって決まったときは、本当嬉しくて」


 なんだかずいぶん大物のアーティストみたいだ。圭介は慌てて訂正する。


「そんな大したことじゃないんですよ。ただ、僕、普段は会社員をしていて、土日しか作業できないんで、あまり数を描けないんです。だからどうしても、作品も選ばなくちゃいけなくて……」


 いくつか細かいところや設定の確認をし、色について話し合う。


 ミカエルは、ちょっと気の弱い、でも好奇心旺盛な黒猫の女の子だ。男の天使の名がついているのは、名付け親のおばあさんがミカエルのことをオスだと思っていたせいだ。ミカエルには動物の友達がたくさんいて、仲間のピンチには勇気を出して行動する。


 まちの物語は圭介の頭の中に次々と絵を浮かばせる。ちょっと出過ぎたことかもしれないと思いながら、圭介はこんな提案をしてみた。


「みーこ……いや、ミカエルが」


「みーこでいいですよ。なんだか嬉しいです。愛称がついて」


 作者にそう言われると恐縮してしまう。しかし今更引っ込めるわけにはいかない。


「はい、では、みーこが真っ黒な姿を生かして黒い景色の中にまぎれて、敵から隠れるシーンがありますよね。あのシーンとっても好きなんです。それで、そこは見開きで絵だけのページにしたらどうかなと思いました」


「真っ黒なページですか?」


「はい。でもよくよく見たら、ちゃんとみーこがいるんです。子どもたちがみーこを探して遊べるページにしたいな」


「そんなことできるんですか?」


 まちが嬉しそうに言った。とたんに圭介は不安になって片岡に向き直った。


「そんなことできる?」


「できる。やろう」


「やったー。さすが片岡さん」


「では、これで、進めていきます。よろしくお願いします」


 圭介が言うと、まちは


「こちらこそよろしくお願いします」


 と、ソファーに座ったまま深々と頭を下げた。それから、冷めたコーヒーを飲み干すと、ちょっと遠慮がちに切り出した。


「来た時からずっと気になってたんですが、この部屋、本当に素敵ですね」


「そうでしょう?」


 と答えたのは、圭介ではなく片岡だ。まるで部屋の主のような口ぶりだ。


「日曜日におうちに押しかけて申し訳ないと思ったんですが、片岡さんが、一度でいいから、ケースケさんの家をぜひ見てほしいって言うから、好奇心が湧いて、ずうずうしく来ちゃいました。本当に来てよかったです。会議室や、喫茶店だったら、こんなふうにアイデアが湧かなかったかも」


「創作のヒントになるでしょう?」


 これも片岡だ。いったい誰の家だと思っているんだ、と圭介は腹の中で毒づく。


「なりました。この部屋にいると、どこかからミカエルが出てきそう。それに、ケースケさんの絵がここから生まれるんだって思ったら感激して……」


 今まで遠慮していたのか、まちは部屋のあちこちを楽しそうに眺めはじめた。


「どうやってこんなに素敵なものばかり集められるんですか?」


 片岡はこの問いには答えない。答えられるくせに、ここは圭介のターンなのだ。


「全部、妻の趣味なんです」


 圭介が告白すると、まちが目を見開いた。


「意外でした。ケースケさんにすごく似合った部屋だったから、ケースケさんの趣味かと……」


 きょとんとしているまちの横で、片岡が笑い始めた。圭介はため息をついた。「創作のヒント」を提供しろということだろう。


「ここにある家具のほとんどは、結婚前に妻が買ったものなんです。妻にはずっと思い描いていた理想の部屋があって、それをいつか実現させるために、コツコツお金を貯めて家具を買い集めていたんです。でも、肝心な何かが足りないと思っていたときに、ちょうど僕に出会ったそうです」


「どういうことですか?」


 まちが首を傾げた。説明の続きは片岡が引き取った。


「つまりこいつも、まちさんがいま座っているソファーや、この趣味のいいテーブルと同じように、奥さんに選ばれて運び込まれてきたんだ。理想の部屋にぴったりだということで」


「部屋に合ってるから選ばれたんですか?」


「そうなんだよ。だから、こいつが部屋に合ってるのも含めて奥さんのセンスなんだ」


 まちは、ため息をついた。あきれているのか、感心しているのかわからない。片岡は笑っている。これを披露した時の相手の反応を見るのが、片岡の楽しみなのだ。


 中学校から一緒にいる片岡は、圭介が今まで暮らした部屋をすべて知っていた。中学、高校、大学、独身時代。どの部屋にも何のこだわりもなかった。だから、結婚後、この新居に招かれたときに、これが圭介のセンスで作られたものではないことはすぐにわかった。それで問い詰めたら、件の事情が判明したわけだ。以来、この話は片岡の持ちネタのひとつになっている。


「本当に、似合ってますよ。この部屋、ケースケさんに」


 と、まちは言った。


「そうですか? 自分ではよくわかりませんが」


「確かに、似合っている。前よりも今の方が似合ってる。だんだん似合ってきている気がするよ」


 と、片岡は言った。



 ふたりを見送った圭介は、無事に打ち合わせが終わったことにほっとしてソファーに深々と体を沈めた。


 だんだん似合ってきているという片岡の評は当たっているかもしれない、と、圭介は思った。この部屋で過ごすようになって、圭介は、昔やめた絵を再び描くようになったからだ。会社と家を往復するだけの人生だと思っていたのに、こんなわくわくした時間をもてるようになるなんて、ゆかりと出会う前は想像もできなかった。


「さあ、仕上げだ。これからよろしくな、みーこ」


 ラフスケッチに話しかける。


 そのとき、ドアがガチャリと開いた。


 空いたドアの隙間から、ゆかりが顔を出す。アンティーク家具屋で働いているゆかりは、今は勤務時間のはずだ。どうしたのだろう。


「ちょっと忘れ物を取りに帰ったの。すぐ出る」


「そう。でもコーヒーくらい飲んでいけば? 淹れるよ」


 圭介がソファーから腰を浮かせると、すかさず、


「いいからそのまま、そのまま」


 と、ゆかりが言った。


 再びソファーにおさまった圭介を、ゆかりはドアの外からしみじみと眺める。


「ああ、いい部屋。癒される」


 満足そうにつぶやくと、ゆかりはバタバタと去っていった。


〈了〉

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みーこそっくり 寒竹泉美 @kanchiku

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