第8話 「扉の向こうにいたもの」:空木要(5)
軽く空気のはねる音がして、それに続くガラス玉が瓶の内側を叩く冷たい音。瓶をあおると、ガラス玉の転がるかすかな音とともに、冷たさと炭酸のはじける心地よさが要の喉に広がった。
警察署を出てすぐそばにある、建物自体が錆びついているみたいな、古い個人商店で買ったラムネを片手に、要は若干憮然とした表情のまま、商店の入り口横――庇の内側に置かれたベンチに座っていた。庇からは
「まだそんな顔して。そんなに名探偵って言われるの、気に食わないの? 一応、探偵小説好きなんだし、言われてそこまで悪い気はしないでしょ」
ソーダバーを片手に店から出てきた志帆が、要の隣に腰掛けて気楽に言う。
「あんまりいい気はしないって。大体そんなたいしたことしているわけじゃないし……。まあ、紙谷さんってそういえば美術館の事件の時もあんな感じだったわけだし、今さら気にしてもしょうがないんだけどさ」
要は渋い顔をして瓶の残りを一気にあおり、むせた。
「拓人さんはああいう感じで強引というか、あんまり人のこと気にしないとこがあるからなぁ」
ベンチ横のガチャガチャの中を覗き込みつつ、自分のことは全く棚に上げて能天気に言う矢津井は、要と同じように水滴だらけのラムネ瓶を傾けている。
「まあ、それだけ空木に期待してるんだろ。実際、空木は事件解決の手掛かりをもたらした実績があるんだからな。今回だって首をいち早く見つけたわけだし」
要としては期待されているというより、ただ単にからかわれているような気がしてならない。本気なのかどうなのか、紙谷の真意は見えづらい。
紙谷拓人はどこか変わった空気をまとった人間だった。そして矢津井から聞いた断片――彼自身の経歴もまた変わっている。
紙谷は本来、第一種国家試験を通過した、ようするにキャリア組らしい。本来こんな地方の所轄署なら警察庁から署長などとして現場体験をしてまた警察庁に戻っていくいくだけの立場なのだが、彼はあくまで単なる一捜査員として稲生署に配属されている。これは本来ならばあり得ないことだし、あきらかに彼のキャリアとしての人生は終わっている。そもそもそんな人事が下っている時点で辞めろと言われているようなものだと思うが、紙谷は平気な顔で刑事を続けている。
紙谷がその恵まれたコースから転落したいきさつについて、要は特に話を聞いていない。矢津井もそのあたりは知らないらしい。まあ、要としても進んで聞く気にはなれない。
ただ、とにかく、紙谷拓人という男は、警察官として奇妙なポジションにあるきわめてイレギュラーな存在だと言えることは確かだろう。
「本気かどうか知らないけど、情報をくれるっていうなら別に断る理由はないけどね。服務規程違反してるのは紙谷さんの勝手なんだし」
「嫌がっている割には首突っ込む気は満々じゃない」
志帆がどこか呆れたような声でつっこむ。
「事件自体には興味はあるんだよ。ただ、名探偵呼ばわりはあんまり好きじゃないってだけ」
「ふーん……。まあいいけど」
志帆は要の名探偵呼ばわりへの忌避感について、それ以上つきあう気はないらしく、さっさと話を変えた。
「ところでさ、完成原稿の通りに事件を起こすならともかく、未完成原稿のカナの小説の模倣をしつつ、その続きを事件として起こすって、めちゃくちゃ変だよね? 」
ひとしきり変だよと言いながら、急速に解け始めているソーダバーの滴りをあわてて舌で受け止める。
その疑問については矢津井が受けて、
「まあ、意味がよく分からないよな。別に空木の原稿だって、書きかけじゃない機関誌に載せていたやつだってあったろうし……なんというか、空木の書きかけ小説の続きを現実の事件として起こすこと自体が目的のような感じだよな」
そう言い終えると、飲み終えたラムネ瓶をくずかごへ押し込んだ。
「それって、カナをある意味標的にしているってことだよね」
「僕を標的って、狙いは何だよ。御堂が犯人だとして、僕を巻き込むためだけにこんなことしてるのか。だとして、そんなことのために誰を殺してるんだよ」
標的という言葉を向けられ、心に冷たいものが走る。要にはもちろん標的たる自覚はない。そもそも、被害者が自分や御堂と関係があるかすら分からない状況だけに、よけい気味が悪くなる。
唐突に、古いボンボン時計の音が聞こえ出した。
「いつも思うんだけど、お前の着信音不気味すぎないか」
矢津井の言葉を無視しながら、要は携帯端末を取り出した。確認するとメールの着信が一件――御堂からだった。
目が釘づけになる。どういうことだ――。件名に送信者の名前だけが、不気味なほどくっきりと浮かび上がっていた。
メールを開く。そこにはいきなり住所が記載され、その後に不動産事務所――どうやらこの住所の建物らしい――の名前が続く。そしてただ、ここで待つ、と書いてあるだけだった。
「おい、どうした。変な請求メールでも来たのか?」
矢津井が怪訝そうに聞いてくる。どうやら表情に出ていたらしい。要は携帯端末を矢津井に見せ、
「御堂からメールが来た……みたいなんだが」
矢津井も志帆もそろって動きを止めた。それから、勢い込むように二人して要の携帯を覗き込んでくる。
「この住所……近くだな」矢津井が呟く。
「なんなのこれ……?」志帆はひたすら気味悪そうだ。
「しかし、なんで空木にメールがくるんだ?」
矢津井の疑問は要の疑問でもある。むしろこっちが聞きたいくらいで、それにはただ首をひねるしかない。
「まあいい、とりあえずここへ行かないとな」
矢津井の行動は早かった。その勢いにつられるように、要と志帆は走り出した矢津井に続く。その時は、本当にメールの相手が御堂なのか、詳しく考えている余裕は無かった。というより、御堂の名前に完全に意識が支配されていた。
相変わらずの暑さの中、勢い込んで走る。たちまち汗が噴き出してくる。とはいえ、そんなことに構ってはいられなかった。
ギラギラと太陽が照りつける街の中を、要たちの足音が甲高く響いていく。やがて、メールにあった
「あ、あった。ここだ」
携帯端末を出して、それを見ながら辺りをきょろきょろ見回していた矢津井が、問題の建物を見つけ出す。
それはなんだかひどく古びた建物だった。一階部分は車三台分くらいの駐車場になっていて、その四隅からのびる鉄柱に二階部分――事務所――が支えられる構造になっている。事務所の窓には守口不動産、と読めるようにテープのようなものが貼り付けてあったが、それがひどくみすぼらしい。どうやらずっと以前に廃業したらしく、人の気配はない。脇の方に二階へと続く、錆びてボロボロの階段があり、おざなりに鎖が渡してあった。どうも管理は杜撰そうである。要は建物を見て、少し引っかかることがあったが、その時は頭の片隅に記憶の断片が発火したっきりで、引っかかりはすぐに消えてしまった。
建物がある一帯は、なんだか街にぽっかり空いたエアポケットの様な場所だった。その事務所の背後には、ひどく黒ずんだ廃墟らしいアパートが控えおり、隣のタタミ店もシャッターが閉まったままだ。取り残された建物のわびしさは、ギラギラした太陽の光をもってしても塗りつぶすことはできていないようだった。むしろ、くっきりさせてしまっているというべきか。
辺りには誰もいない。もちろん御堂らしき姿も。
「もしかして、この建物の中にいるってことなの……?」
呟いた志帆は、要と矢津井にどうする……という視線を向ける。要は少々迷ったが、当然とばかりに矢津井が鎖をくぐっていく。
「行くしかないだろ」
結局、要も志保もその言葉に頷くしかなかった。
錆びまみれの階段を上り、先頭の矢津井が入口のドアに手をかけた。扉は、要たちを待っていたかのように内側へ開いた。饐えた空気がもわりと流れ、鼻を抜ける。そして、そこに猛烈な臭気が混じっていることを知覚し、にわかに三人の間に緊張が走る。要は思わず鼻を抑え、志帆は慌てて取り出したハンカチで鼻と口を覆っていた。嗅ぎ慣れない匂いだったが、それでもすぐわかったのは、その前に似たような臭いを嗅いだからだ。あの工場跡で嗅いだ赤黒いシミの臭い――そう、これは血のにおいに他ならなかった。
さらに、入口からのびる廊下には、血が点々とこぼれた跡。明らかに異常な事態の中にいることを自覚する要。三人はあっという間に現場に立ち上る
入口からのびる廊下――その左側にはさっき外の通りから見た窓、右側には扉が三つ続いている。先頭に立つ矢津井はまず、一番手前の扉のドアノブに手をかけた。
内側へ開いた途端、矢津井のくぐもった声と喉の鳴る音。そして、濃くなる血の匂い。猛烈な臭気の中、要はそれに耐えながら、矢津井肩越しに中を覗き込む。
中は狭く、左側に小さな流し台とコンロが置いてあり、脇に空のペットボトルが数本転がっていた。ステンレスの流しには、鋸や包丁といった刃物が放り込まれ、血液を洗い流した跡が生々しい。また、室内に薄く煙臭いにおいがこもっているようだった。。
部屋の右側奥にはトイレらしきドアがあった。矢津井を先頭に、三人はそのドアへ慎重に足を進める。そして、矢津井がノブをつかむみ、勢いよく開く。
個室の隅に、一斗缶のようなものがおいてあり、横には何かが入っていたらしい瓶がある。一斗缶の中――おそらく三人ともが何かを予感しつつ覗き込んだが、中に残っていたものは、焦げたロープのようなもので、それ以外のものは特に見受けられなかった。
流石に耐えられなくなり、三人はやがてうめくようにせき込み始め、もう限界だと逃げ出すようにして部屋を出ると、ドアを勢いよく閉めた。しかし、それで臭気がどうなるわけでもなかったが。建物内にこもる熱気も限界が近い。
「ねえ、どういうことなの、これ」
いち早く退避し、廊下の通りに面した窓ガラスを全開にして、そこへ首どころか上半身を突っ込むようにしていた志帆が、振り返りほとんど蒼白になった顔で言う。
「わからん。あそこでヤバいことをやってたのだけは分かるが」
矢津井は唾を吐き出すように言い放ち、
「トイレのあれはなんだ? ロープが燃やされてたのか? それにシンクの血は……」
見たことを口に出すだけで、ろれつが回っていない。
「犯人がまだここにいる……なんてことはない、よね……」
志帆の言葉に、要も矢津井も応えない。宙に浮かんだ志帆の言葉は三人の中でゆっくりとイヤな予感を増幅させる。
矢津井はしかし、ここで引く気はないのか、次の部屋――並んだ三つの部屋の中央へと向かう。要もまたそれにつられるようにして、その部屋のドアへ足を向ける。
「ん、なんだ、開かないぞ、これ――」
矢津井がドアノブを握ったまま呟くと、ノブをガチャつかせ始める。
「おい、誰かいるのか!」と声を張り上げるものの、返事はない。
「え、なに、もしかして……」志帆が少しうろたえるような声を上げる。
要も内心はかなり混乱していた。こんな状況の中、御堂がどうなったのか、そもそもメールを送ってきたのは御堂なのか、扉の向こうに御堂はいるのか、それとも――。
ドアノブをガチャつかせていた矢津井は、今度はドアを叩きはじめる。それがだんだん荒々しくなり、派手な音が安普請の扉から跳ね返ってくる。
その時、部屋の向こうから急に、何かが動く音が聞こえた。ゴトゴトと動き回る音がひとしきりした後、ガチャン、というガラスの割れる音が響いた。
後には途切れたように、ただ沈黙が残るだけ――。
とたん、矢津井がドアに体当たりを始めた。要や志帆があっけにとられているうちに、矢津井は次には足で思いっきりドアを蹴りだした。気がついたように要も加わる。
めりめりと裂けるような音がして、次の瞬間、バン、と派手な音とともにドアが吹き飛ぶように開く。勢いあまった矢津井がそのまま部屋の中に飛び込み、同じようにして要もそれに続いた。
そして、要たちは死体を発見した。それも首のない死体と、その切り離されたあげく焼けただれた首を――。
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