次期女領主の結婚問題

ナナカ

悲劇の真相

第1話 次期女領主の婚約


 婚約者は私を捨てた。

 結婚を約束していた私を捨て、もっと年若く美しい女と結婚した。


 これが対外的に語られている「悲劇的事件」だ。一部事実を含んでいるし、完全な間違いではないけれど、厳密にいうと真相は少し違う。

 でも周囲の人は、私に慰めの言葉をかけてくれる。


「あなたが悪いわけではない」

「彼は、あなたにふさわしくなかったのだ」


 そんな言葉に接するたびに、何と答えていいかわからなくなる。

 だから私は言葉を返さずにちょっと半端に微笑んでしまうのだが、それがまた周囲の同情を誘うらしい。他にどう対応していいかわからないから、まずい対応とは思うがいつもそうしてしまう。



 私の名はカジュライア・マユロウ。

 名前の通りマユロウ伯爵が私の父だ。でも周囲の人々は「ライラ・マユロウ」という称号でしか呼ぶことはない。

 この称号は、マユロウ伯の嫡出の娘に対してのみ使われる。私は生まれたときから「ライラ・マユロウ」と呼ばれているから、名前で呼ばれる方が落ち着かないし、慣れてもいない。


 ハミルドという婚約者を失って以来、周囲から向けられる同情はどうにも居心地が悪い。

 マユロウ伯爵という存在は、都周辺の貴族たちとは違う猛々しい地方領主だ。その地位を継ぐ女が、悲劇が似合うたおやかな令嬢のはずがない。

 それなのに、周囲から見ると私は「悲劇の女」に見えるらしい。

 我がことながら不可解だ。


 確かに「婚約者を別の女に奪われた」というと悲劇なのかもしれない。

 私は婚約者より年上だったのも事実だし、婚約者が許されざる恋に悩んだのも事実だ。彼が愛してしまった女性が私よりも若くて美しかったのも間違いない。

 政略的に定められた婚約があるのに、真実の愛に出会ってしまった若く美しい二人。

 いかにも女性たちが好みそうな話だ。

 吟遊詩人たちは、道ならぬ恋の切なさを歌い、捨てられた哀れな女の悲嘆を歌い、幸福を手にいれた男女の明るい未来を叙情たっぷりに歌った。二年経った今でも、あちらこちらで定番の恋愛として歌われているようだ。

 だが、いかにこの歌が広く知られていようと、私は悲劇の女ではない。

 全ては私が望んだ通りになったのだから。



 私と婚約者ハミルドとの出会いは、純粋に家と家の関係から生まれた。

 ハミルドはエトミウ家当主の次男。

 私はマユロウ家当主の長女。

 両家が関わる紛争終結の条件として、それぞれの当主の次男と長女が婚約した。

 地方領主の一族ならばよくあることだ。

 少し珍しい点といえば、ハミルドが生まれる前に私との結婚が決まったことだろうか。

 私が当時の資料を見るかぎり、マユロウ領とエトミウ領の境界際をめぐる紛争は、それなりに血生臭く、でも痛み分けに毛が生えた程度だった。

 だからやや有利だったマユロウ家側は、エトミウ家の当主の子を「次期女当主の夫」として完全に手放させることで妥協したのだと思う。

 紛争を早々に切り上げたということについては、当時の当主たちは双方とも愚かではなかった。


 しかもこの「婚約」は「エトミウ伯の嫡出の次男」と限定していたから、はっきり言ってただの文書上の飾りだった。エトミウ家当主の奥方はすでに若くなかったし、当主と奥方は夫婦というより、よき相談相手だった。

 だから奥方からもう一人、しかも男児が生まれる可能性など誰も考えていなかった。明らかな益にならずとも、大きな譲歩や損もなく紛争は収まったと安心していた。

 それなのに、休戦協定が終ってしばらくして奥方の懐妊が確認され、誰にも期待されていなかった男児が、私の婚約者として生まれてしまった。

 これは悲劇だ。

 事態を正確に理解した私がそう断言すると、マユロウ家に出入りし始めたばかりのアルヴァンス殿は呆れ顔を隠さなかった。子供が何を言っているのかと呆れたのだろう。

 でも私は、その頃からずっと、本当にそう思い続けたのだ。




 ハミルドと初めて会ったのは、彼が生まれて半年ほど経った頃だった。

 初めてマユロウ領を出た私は、父に連れられてエトミウ伯領へと入り、領主の館を訪れた。

 我がマユロウ家と似た無骨な館は、他家とは思えないほど馴染みやすい場所だった。

 有事には馬で入ることを想定した幅広の廊下も、窓の少ない暗く急な階段も、マユロウ家の館とそっくりだ。

 違うとすれば、領主の部屋の周辺で女性の姿が少ないことくらい。エトミウ伯は正しい意味での愛妻家なのだろう。


 そんな領主の私的区画で、ぷくぷくとしたかわいい赤児と対面した。

 父マユロウ伯の子は、まだ私しかいない。そして私自身がまだ幼くて館の外に出ることは少なったから、身近に赤子なんていなかった。

 だから、赤子があんなに小さいとは知らなかった。


「……ねえ、触ってもいいの?」

「もちろんですとも。指を差し出してくださいませ。きっと握りますよ」


 エトミウ家の乳母に言われて、おそるおそる指を差し出してみた。

 小さな小さな手は、私の指をぎゅっと握りしめてきた。驚いて声を出してしまうと、赤子は何が楽しいのか、声をあげて笑った。その笑顔がとてもかわいかったから、近くにあった音の出るおもちゃを振ったり、きれいな色の人形を動かしたりと、つい夢中になって構っていた。


 でも機嫌の良かった赤子が、何のきっかけもないのにぐずりはじめ、慌てているうちに乳母が慣れた様子で乳を与えた。たっぷりと乳を飲んだ赤子は、やがてうとうととし始め、乳母の緩やかな子守唄を聴きながら揺り籠の中で眠ってしまった。

 小さな体に合わない大きな泣き声が嘘のような、可愛らしい寝顔だ。

 なんて可愛いのだろう。うっとりと見守っていて、ふと部屋の雰囲気がおかしいことに気付いた。


 私は生まれたときから当主の娘としての教育を受けていた。そのせいか、周囲の空気の変化には敏感だ。

 一緒にエトミウ領に来た父は、私が赤子に構っている間も、赤子がぐずって泣き始めても、乳を飲んで眠入ってしまうまで私が緊張して息を殺している時も、ずっと無言だった。

 普段の父は、子供を見かけると気軽に声をかける。そんな姿を見ていたから、なぜ今日は不機嫌そうなのだろうと不思議に思った。

 でも、父にもそういう日があるだろうと気にしなかった。……でも気がついてみると、父だけでなく、同席しているエトミウ伯もとても難しい顔をしていた。


 私が赤子に夢中になっている間、かつての紛争当事者だった二人は、小さなテーブルに向き合って座り、同じような表情で水で薄めた葡萄酒を飲んでいた。

 二人の領主たちは終始無言だった。そのくせ同じようなペースで飲み、お互いに空になった酒杯に注ぎあっていた。

 私はまだ三歳半を過ぎた頃で、様子がおかしいことには気付いたけれど、それがなぜなのかまでは分からなかった。

 ただ、愛らしい赤子と難しい顔をした二人の領主の姿は、はっきりと記憶に焼きついた。



 ハミルドが五歳になった頃、今度はエトミウ伯がマユロウの館を訪れた。

 馬車での移動に疲れてしまったのか、あるいは極度の人見知りのせいなのか、ハミルドはエトミウ伯の腕に抱かれていた。

 私より三歳年下のハミルドは、端整な顔立ちの少年になっていた。性格も穏やかなのだろう。私やカラファンドのように、すぐに走り回ったりしなかった。

 エトミウの大人たちは、褐色に近い金髪が多い。でもハミルドの柔らかな髪はまだ淡い金髪で、私に挨拶しながら真っ直ぐに見上げてくれる大きな目は、深い滝壺のように青かった。

 思わず笑いかけると、恥ずかしそうにエトミウ伯の足にしがみつきながら、はにかむように笑い返してくれた。

 かわいい。それにとてもきれいな子だ。


「おいで。庭に遊びに行こう」


 そう言って手を差し出すと、おずおずと握ってくれた。

 異母弟のカラファンドもかわいいけれど、ハミルドは言葉が通じるからもっとかわいい。


「カジュライア。何をして遊ぶつもりだ?」

「泥遊び。カラファンドも好きだから、ハミルドも好きでしょう?」

「ふむ。いい案だ。子供は皆、泥遊びは好きだからな。それでよろしいかな、エトミウ伯」

「帰りの馬車が泥まみれにならない程度でお許しいただきたい。乳母殿、よく見張っておいてくれ」


 父は笑っているが、エトミウ伯はため息をついている。

 でも私を見た時だけは少し笑ってくれた。



 ハミルドは、その後何度もマユロウを訪れるようになった。

 マユロウ領とエトミウ領は隣り合っているから、距離は近い。しかし幼い子供が馬車で移動するには遠すぎる。だからそんなに頻繁に行き来できるわけではなく、そのせいで数ヶ月に一度がせいぜいだ。

 だから会うたびにハミルドに人見知りされていたけれど、いつしか馬車から降りた途端に駆け寄ってくれるようになった。

 私とは正反対の穏やかな性格だったが、私と異母弟カラファンドの三人でよく遊んでいた。

 トテトテとついて回った幼児は、いつの間にか一緒に走り回れるようになった。一歳違いのカラファンドとは、控えめながら喧嘩をすることもあった。

 訪問の回数が増え、滞在期間も少しずつ長くなり、一緒に勉強をする日も増えた。森へ遊びに行って虫や動物を捕まえていたし、館を抜け出して祭りを堪能した時は三人で叱られてしまった。

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