私のこと次は捨てないでね

坂巻

私のこと次は捨てないでね


「うえ、飲み過ぎた……」


 真夜中の閑静な住宅街の細い路地にて。

 俺は頭が飛んでいきそうになる酩酊感と、襲ってくる吐き気と戦っていた。


 黙って突っ立っている電柱に身体を預け、天を仰ぐ。

 どうか気分がちょっとでもマシになってくれますように。

 星に祈ってみるが、ちっちゃい光の点がぼやけるだけで何もわからない。


 会社帰りに同期としこたま飲んだ。

 ビールに梅酒に普段あまり飲まない焼酎も。飲み屋を出た後はバーに行って、創作カクテルを飲んだり、ショットグラスを何杯も空けたりした。

 煩わしい人間関係や、仕事での重圧など、飲んだ理由は色々とある。

 放っておけばいつか爆発した鬱屈を、楽しく過ごして晴らしただけ。

 それが、たまたま今日だっただけ。

 それだけだ。


 自宅の最寄り駅から徒歩で数十分。

 あの角を曲がれば、1人暮らしのアパートが見えて来る。

 最近まで引っ越すつもりでいたが、事情が変わったのでまだ住むことになりそうだ。


 ちゃんと道路を踏めているのか、酔いすぎて感覚さえわからない足を動かす。

 あと少しで俺の部屋だ。


 自販機の頼りない明かりを通り過ぎ、アパートの入り口までたどり着いたところで、ふと立ち止まった。


 複数の袋と生臭い匂い。

 ネットのかけられた、ゴミ捨て場。


 生ごみなんかを捨てるバケツの上に、何かがあった。


 星と自販機の光を受ける、ごわついた黒の毛玉。

 しっぽをしまい込んで震えるように、その生き物は座り込んでいる。

 真っ黒の輝く瞳が、救いを求めるように俺を見ていた。



「ね、こ?」



 首輪もしていないし、おそらく野良猫。

 誘われるように手を伸ばせば、逃げることなくその猫は俺を受け入れた。

 頭の部分を恐る恐る撫でてみる。

 抵抗はない。

 ただ、無言で俺を見つめ続けるだけだ。


 下の辺りを触って、掌が何かで濡れる。

 よくよく観察すれば、赤い液体が付着していた。


 血、だ。


「お前、もしかして怪我、してるのか?」


 黒猫は答えない。


「その、なんもないけど、うちくるか?」


 1人暮らしの汚い部屋だが、こんなゴミ捨て場よりましなはずだ。

 服が汚れることも構わずに、そっと黒猫を抱き上げる。

 怪我をした猫は、嫌がることなく俺の腕の中に納まった。


 この時の俺は、先ほどまでの気持ちの悪い酔いから解放されていた。

 意識がこの猫に集中しているおかげで、それ以外がどうでもいい。

 脂っこい、汚れて固まった冷たい毛。

 ずっと外にいた猫は冷え切っていた。

 それでもその存在が、俺の心を温めてくれる。


 二階建てのアパートの、一番奥の角部屋。

 そこが俺の根城だった。

 ようやく目的の場所にたどり着き、片手でポケットを弄る。

 黒猫を落とさないように注意しながら、なんとか鍵を差し込んだ。


 視界がぐらつく。

 吐き気はマシになっても、アルコールを摂取した身体が正常になったわけではない。

 何度も、ガチャガチャと鍵を回し、ようやくドアが開く。


 部屋へ入って、揺れる手をなんとか導いて鍵を閉めた。

 ふわふわする。ぐらぐらしている。

 狭い玄関で、靴を踏みそうになって、足でだらしなく押しのけた。

 この邪魔な靴は誰かに履かれることもないだろうし、捨ててしまおう。

 今朝、余分なものは捨てたばかりだったが、まだまだ大掃除は必要のようだ。


 ゴミや、買ったまま放置してある日用品にぶつかりながら、なんとか部屋の電気をつけた。

 黒猫を、そっとクッションの上に置いてやる。

 猫は相変わらず不安げに瞳を潤ませるばかりで、鳴くこともしなかった。


「血も出てるし、痛かったよな……ちょっと待ってろ」


 湿らせたタオルでごわついた毛を拭いてやる。

 傷口辺りについていた、細かい汚れを落として、できるだけ清潔な布で包んでやった。ただの一人暮らしの社会人の家に包帯だとか、そんな気の利いたものは無いので、これで勘弁してほしい。


 俺にできるのはこれぐらいだ。

 明日は休みだし、動物病院に連れて行ってやろう。


 揺れる頭でなんとか部屋を移動しながら、風呂を済ませ、部屋着に着替える。

 歯を磨かないと。

 野良猫に何か食べさせた方がいいか。

 近場の動物病院を検索して。


 やらないと、と考えたことが、どんどん意識外へ滑り落ちる。

 むり、もうだめ。

 寝たい。


 疲労と酒で、俺の思考は電源が落ちる寸前だった。


 ふらつく俺とは違って、黒猫は大人しく、クッションの上で丸まっている。


「いっしょに、ねるかあ?」


 抱き上げて、そのままベッド上の冷たい布団をかぶる。

 夢へと飛び込むその間際、弱弱しい猫の鳴き声を聞いた気がした。

 同意が得られたなら、大丈夫だな。

 そして俺は、――ね、と、寝。











 窓の外で小鳥がさえずっている。

 瞼の先で明るさが朝を主張し、このまま寝てもいられない。

 まだ重さの残る体と頭で、目を覚ました。


 ぼうっと、ベッドの上に寝ころんだまま、昔読んだ漫画を思い出す。

 たしかジャンルはラブコメで、主人公は傷ついた犬を拾って帰って、翌朝全裸の美少女が隣に寝てたってやつ。その美少女は前日助けた犬で、主人公に一目ぼれして、そこから他にも美少女がやってきて、騒がしい毎日になるという話だ。


 いいよな、それ。

 俺にも起こらないかな。

 俺が助けたのは、猫だけど。


 そんなくだらないことを考えて、自分でもおかしくなって笑いながら、俺は布団をめくった。


「おーい起きろ。腹減ったろ? なんか……」


 昨日、黒猫を抱きしめて寝た。

 猫がいた辺りに、見覚えのあるものがあった。



 朝の光を受ける、黒い髪の毛。

 助けを求めるような、見開かれた瞳。

 赤黒く変色した、元々白だった布。




 それは昨日捨てたはずの、女の生首だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

私のこと次は捨てないでね 坂巻 @nikuyakiniku1186

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ