君と緩やかに壊れてく

藍ねず

君と緩やかに壊れてく

 

 体と心は直結している。

 体の不調は心も寂しくさせ、心の不調は体に多大な影響を与える。それは誰しも分かっていたのに、見ないふりを続けてきたこと。誰もが自分の不調に耳を傾けず、「まだ大丈夫」「まだ進める」「もう慣れた」などと無理ばかりした。


 結果、世界に溢れた不調の淀み。不調は人の体を捻じ曲げ、心を荒らし、姿形を変えさせた。壊れた不調が体現されたのだ。


 変形した人は言葉を失い、記憶も消える。どうして自分がこんな姿になってしまったのか。何が原因だったのか。

 そして、周囲の人からもその人の記憶が消える。あそこにいる不調はいったい誰だったのか。どうして不調が現れるまで頑張ってしまったのか。

 会社や学校では見知らぬ人の名簿などから不調の人物を特定することも出来たが、不調の数が多すぎると困難になる。あっちも不調、こっちも不調、あれは誰でこれは誰なのか。


 だから誰もが不調を見ないふりした。不調の淀みという現象が起こっても、起こる前と変わらずに無視をした。「まだ大丈夫」「まだ進める」「もう慣れた」と繕って。


「えー、それでは次に生徒会副会長から……」


 先生の数が少なくなった学校で、重怠い始業式が進行している。生徒指導の先生は順調に司会をこなしていたのだが、不意にマイクから無音が響いた。


 生徒全員が思う。先生達もきっと思ってる。並んだ生徒会執行部は困惑の顔で視線を惑わせている。


 その日、私達の学校から、生徒会副会長が消えた。


「――副会長って誰だったっけ?」


「覚えてなーい」


「何組の奴なんだろうな」


「知らねぇよ。空席なんてしょっちゅうだろ」


 始業式後、みんなの話題は不調を起こした副会長で持ちきりだった。今までも空席が出来たクラスなどでは半日ほどざわつきがあったが、今回は生徒会役員だ。クラスの役職なき一般生徒よりも話題性が大きいのは言うまでもない。


 私は斜め前の空席に視線を向け、教室内を見回してみる。いくつかある空席に残っていた教科書やノートから不調になった子の名前は分かるけど、誰一人として覚えていない。本人だって忘れてしまったのだろう。それが今の社会では普通に馴染んだ現象だ。


「あ、不調がグラウンドにいる」


「副会長かな」


「いや、あれは休みの前からいた奴」


 クラスメイトの声につられてグラウンドを見下ろす。そこにはタスキをかけた白い人形がいた。

 丸い関節に艶やかな体で、一見すればマネキンのようだ。しかし足だけが異常に長くて大きい。上半身と同じサイズではないかと目測し、本数は四。全て人の足のように見えるが自信はない。


 不調はグランドの隅を決まった距離だけ走っている。速度は四本足なのに目に見えて遅く、体全体から大粒の赤い水が滴っていた。奇怪としか言えない姿に、自然と口角が上がる。なんて不思議、なんて不可解。なんて興味深い。


 私は顎を上げて、天井と仲良くしている風船の不調を確認した。夏休み前から存在する不調だ。

 青い風船に縫われた口が複数書かれた姿。風船には紐が何重にも巻きつき、いつ破裂してもおかしくない風貌である。締め上げられる音が聞こえそうな姿は私の背中に好奇心を走らせた。


 貴方は誰だったのだろう。どうしてそんな姿になってしまったのだろう。姿形が変わってまで、ここに居続ける理由はなに?


 職員会議から戻って来た担任は、後日新しく副会長を募ると連絡する。私の内臓は気持ち悪さを携えて、空席の目立つ教室内ではざわつきがやまない。風船の不調は変わらず、騒がず、浮き続けていた。


 次の日には副会長の不調化について誰も口にしなくなり、グラウンドでは四足の不調が走り続けるのだ。


 * * *


 異形と化した人は人ではない。だから、我が身を守る為に無視しなさい。と言うのが全世界共通の認識である。


 近付かないこと。

 刺激しないこと。

 気にしないこと。


 不調になった相手に対して推奨される行動とは、つまりこれ。研究しようと捕まえても同じ形の者が存在しないのだ。どれだけデータを取った所で、不調の個性がマニュアルに当てはまる筈もない。研究は費用の無駄であると早々に縮小され、解明よりも沈黙が求められた。


 増える不調に無視を決め込み、関わらないように過ごしなさい。そうすれば問題ない。


 私は通学路の同じ場所に居続ける不調を見つめ、静かに瞬きをした。


 黒いタイトスカートから伸びた黒い棒の足。上からは黒い二本の腕が伸びている。手には鏡と口紅が持たれているが、それが活用される顔も上半身もないんだよな。この不調は赤いハイヒールが印象的で、毎日数秒間見てしまう。


 何をしてるんですか。


 そんな問いが口をついて出る前に、足を動かす。今日も通り過ぎた不調は、きっと帰りもそこにいる。登校する時に見かける状態と変わらず、夕方も毎日そこにいる。


 スルースキルが必要とされる昨今。私は少々スキルレベルが不足している気がした。不調を見かける度に足が止まって、興味を引かれて、問いかけてしまいたくなるのだから。

 だって普通に気になるではないか。この人は人間である時、どんな人だったのか。どんな時に不調の淀みが起こったのか。どうして不調を無視し続けてしまったのか。などなど、知りたくて、問いたくて、私の興味は常に不調に注がれている。


 学校に着いた私は、新しい副会長を募るポスターを発見して、寒気がした。


「あ、俺立候補しようかなー」


「お前じゃ無理だって」


 大きな笑い声が背後を通り過ぎていく。知らない男子の声だったな。


 私は鞄の紐を握り締めて、今日の時間割を思い起こした。


 小テストとかはない。提出物も今日はないし、出席番号的に当てられる日付でもない。よし、よし、よし。


 サボろう。


 私は爪先の向きを変えて、登校者の少ない廊下を目的無く歩き出した。


 いや、目的なら一応ある。副会長、ならびに新しい不調を探してみたいのだ。


 それはただの好奇心。どんな新しい姿が発見できるか、どんな行動をしているのか、気になるではないか。


 私には周囲のように無関心でいることが難しい。不調を見つければ目で追ってしまうし、観察したくなるし、声を掛けたくなる。例えその行動で私に何か起こったとして、それは私の責任だ。仕方がない。


 チャイムが鳴っても廊下を歩く生徒は多い。遅刻者が多くて、どこかルーズで、無気力気味。先生達も同じで、平坦な空気が学校全体を包んでいる。サボっているのだって私だけではないだろう。


 私は中庭の木陰に蹲り、池に浮いている不調を凝視した。肌色の巨大なアメンボみたいな不調だ。

 水に触れている六本の足。しかし、先は全部掌になっており、徐々に徐々に沈んでいる。かと思えば胴体が水に触れる前に慌てて水面に掌を戻すのだ。そうすれば再びアメンボのように浮き、また徐々に徐々に沈んでいく。

 慌てる。浮く。沈んでいく。慌てる。浮く。沈んでいく。

 学習とか改善をしないのかな。水の上に立つのをやめるとか。


 私は絶妙な気持ち悪さと間抜けさをたっぷり観察し、朝礼が終わるチャイムと同時に場所を移動した。


 廊下の隅にいた瓶の不調。

 透明な液体がプラスチックの入れ物を満たし、キャップはコルク製っぽい。耳を澄ませると液体から何か弾けるような音が聞こえたのだが、それが何を示しているのかは分からなかった。サイズは私の腰くらい。液体は時折発光し、窓から入った虫が瓶に集まっていた。私までたかられそうだったので早々に退散する。


 美術室の前にいたのは花のような不調。

 花瓶から生えた緑の茎に、二枚の葉っぱ。茎の先には白い球体が付いており、単眼が開かれていた。かと思えば球体から鮮やかな花弁が出てくる。それに目を奪われる前に葉が花弁をむしってしまった。生えては毟って、生えては毟って。花瓶の周りが、土の上が、綺麗な花弁の絨毯を敷いていく。


「綺麗だね」


 思わず伝えれば、不調の目が歪む。じとりという効果音がつきそうな視線が向けられ、生えた花弁をいっぺんに抜き捨てていた。どうして。


 私は学校の各所で不調を発見する。先生や生徒にバレないよう足音を殺して、探検する。どうせ欠席なのだから学校を飛び出してもいいかな。あぁ、でも、街中で不調に声をかけるのはご法度か。暗黙のルールって面倒だな。


 楽しく興味を散らし、辿り着いたのは屋上の踊り場。屋上への扉は施錠されているのでここが終着点だ。


 私はそこで、宝石のような不調を発見した。


 歪な三角形をした頭はダイヤモンドカットが施されたように輝いている。体にはボロボロの布を纏って足は無し。布を貫いて飛び出している三角形もあり、それらは頭と同じように輝いていた。ちょっとだけ浮いた体が不思議でならないな。


 口角が上がった私は、見ている不調の面が前か後か、右か左かも分からずに声を掛けてみた。


「こんにちは」


 不調の体が大きく靡く。空中移動した不調は、壁と体の宝石をぶつけて金属音を響かせた。その三角ってやっぱり硬いんだ。


 不調の顔には屈折した私の姿が映る。興味津々な表情は不調に伝わるのだろうか。伝わらないのかな。ならどうして君はさっき、後ずさるように私から距離を取ったんだろう。


 私は不調との距離を一歩ずつ詰める。対する不調は何度も後ろに下がり、その度に壁とぶつかる音を立てた。離れたい、離れたいと行動が示しているからこそ、私の興味はそそられる。


「貴方は誰?」


 問いかけたって不調は喋らない。己の不調を誰にも伝えられず、異形になった人だ。異形になった先で自己紹介ができるだなんて思ってない。


 言葉を忘れた不調は、震える体で後ろへ後ろへ逃げようとしていた。


「どうして貴方は不調になったの?」


 震える不調に近づいて、手を伸ばせば届く距離にくる。不調は最初よりも強く後ろへ下がろうとしていたが、残念ながらそこは壁だ。逃げられないよ。


 周りに対して向けられた宝石の先端。触れば怪我をしてしまうかな。それとも触れる前に別の反応が見られるのだろうか。


 好奇心は猫を殺す。そんなことは分かってる。


 分かってるけど、私は不調を無視できない。

 こんな異形を無視するだなんて、我慢ならないのだ。


 体を大きく震わせる宝石の不調。頭だと思う歪んだ宝石は、沢山の私を映していた。


 不調の頭から黒い滴が滲み出る。それは頭にあるカットの筋から湧き出て、流れ、足元に重たく落下した。

 零れる黒を涙だと思ったのは、まるでそう見えるように流れるからだ。


 泣いている不調は私に近づいたかと思うと、直ぐに距離を取って壁にぶつかる。私の目の前まで寄って、金属音がするまで後退する。目と鼻の先まで迫って、遠ざかる。泣きながら、泣きながら、泣きながら。


 繰り返される前後運動に私は意味が見出せない。近づいて、離れて、この子は何がしたいんだろう。


「どうしたの?」


 問いかけたって答えないんだ。知ってるよ。分かってる。君に口はないんだもの。


 近づいては離れていく不調を見つめて、見極める。次に近づいた時に、不調の動きを止めるために。


 私は眼前に迫った宝石を見て、ボロ布に手を伸ばした。

 掴んだ布は厚く、後退しようとした不調の動きが止まる。


 小さな子が構ってほしがる動きとは、少し違う。近づきたいのに近づきたくない、そんなジレンマを体現したような動き。

 そんな不調が私には可愛く見えるから、顔は笑みを浮かべるんだ。


「捕まえた」


 不調の体が小刻みに震える。逃げたいのに逃げられないって動きが示す。黒い滴を幾重にも垂れ流す姿は、泣き虫な誰かに見えた。


 ……誰か?


 誰かって、誰だっけ。


 私に泣き虫な友達なんていないのに。

 私に友達なんて、いないのに……?


 私は宝石の不調を見上げる。黒い涙で宝石をぐちゃぐちゃにしている不調には、やっぱり沢山の私が映っていた。


 近づいた不調が私の額に触れかける。

 かと思えば離れようとするから、私は腕に力を込めた。


 鋭利な宝石が突き出た不調の体。抱き締めたらきっと痛いのに、私は抱き締めずにはいられなかった。


 どうしてかな、どうしてだろう。どうして私は、この不調を離したくないんだろう。


 力いっぱい抱き締めて、もうどこにも行かないでと苛立ちが芽生える。一人で抱え込むなと言ったではないかと小言が口から漏れそうになる。


 それはどうして。君は誰。不調になるまで頑張ってしまった君は、誰なんだ。


 そこで、私は痛みを感じていないと気づく。ゆっくり体を離してみたが、突き出た宝石は一つとして私を傷つけてはいなかった。


 宝石は全てが不調の体に飲み込まれている。埋まって、抉って、黒い滴が溢れ出る。


 私は思わずの傷に手を当てて、顔を歪めてしまった。


 傷から再び宝石が出てくる。周りを傷つけるような鋭利さなのに、近づけば不調の中に埋まってしまう無害なもの。不調だけを傷つける嫌なもの。


 私は不調の姿を見つめて、体の奥で寂しさが渦を巻いた。


「……無理しないでって、言ったのに」


 口から言葉が零れてしまう。それは私の言葉なのに、私は意味を理解してない。


「これ以上、頑張らないでって、言ったのに」


 胸を荒く撫でる感情は誰のものだ。内側から毛を逆立てるような、不快で仕方ない感情は、誰のものだ。


「どうして、私の言葉を無視して、頑張っちゃったかなぁ……」


 布を掴む手に力がこもる。自分が何を言っているのかこれっぽっちも分からないまま。

 私は不調に誰を重ねているんだろう。私は誰を、忘れてしまったんだろう。


 この子は一体誰だろう。グラウンドで走り続ける不調は誰だったんだろう。教室に浮いているあの子は? 中庭の池や廊下の隅にいた子は誰だ? 美術室前のあの子は、どうして不調になっちゃった?


 知りたい、知りたい、とっても知りたい。無視をやめて、踏み込んで、触れて、寄り添って、どんな気分か教えて欲しい。

 どうすれば貴方は不調にならなかったんだろう。どうすれば私はあの子達を忘れずに過ごせたんだろう。どうすれば、私は止められたんだろう。


 知りたい、知りたい、溢れ出てくる好奇心。みんなが無視する存在を、みんなが見ないふり出来る存在を、私は見つめていたいから。


 そう、これは好奇心。悪戯でも、慈悲でも、憐れみでもなく、好奇心。私が知りたい探究心。それだけだから。


 あれ、でも私は、どうしてこんなに知りたかったんだっけ。


 誰の為に、知ろうとしていたんだっけ。


 私の手が不調の布を離す。一歩下がって、二歩下がって。見つめた不調の頭には私が沢山映っている。


 不調は私との距離を詰め、離れ、再び詰める。


 黒い滴は止まらない。黒い血だって溢れてる。


 思わず奥歯を噛んだ私は、それはそれは酷い顔になったのではなかろうか。


「……ごめんね」


 何に対する謝罪だろう。私はどうして謝るんだろう。


 不調の体が大きく震える。震えて揺れて、不安定な動きを見せる。


 私から目一杯離れた不調は壁に激突し、激しい金属音を轟かせた。


 私は咄嗟に耳を塞ぐ。壁や天井に反響して大きくなる金属音は恐ろしいほど不快なものだ。音は校舎中、引いては学校中に響き渡る。力いっぱい耳を塞ぐ私は思わず座り込んでしまい、眩暈を覚える衝撃から瞼を閉じることで逃げだした。


 不調の悲鳴は徐々に収まりを見せ始める。かと思えば、項垂れるように頭を下げて黒い滴を垂れ流すのだ。一体全体、何が起こったのか。何がしたかったのか。私には理解できない。


 学校全体がざわついていることが分かる。人から人へ何が起こったのかという不安が、憶測がやり取りされる。嫌な空気だ。

 このままだと、この子が危ない気がした。この不調が危険だと大人が騒ぎだしてしまったら駄目な気がした。


 今まで無視してきたくせに、自分達に少しでも何かする「かもしれない」と思ったら行動させる。「かもしれない」で叩かれる。「もしかしたら」で恐れられる。それは人の防衛本能。当たり前の、防御手段。


「き、み、」


 緊張した足で立ち上がった時、階下から激しい破裂音が響いた。


 一拍遅れて悲鳴が駆け抜ける。宝石の不調によるざわめきが、別の何かで上書きされる。


 私は宝石の不調を見て、階段を駆け下りた。


 廊下に出ている生徒達。どこで何が起こっているのか分からない状況の中、悲鳴と混乱の中心は私のクラスだ。


 教室を覗いては悲鳴を上げる他クラスの生徒。私は人を押しのけて教室を確認し、言葉を失った。


 耳を押さえて蹲っている生徒。

 完全に気を失っている生徒。

 耳から血を流している教師。


 破裂した、風船の不調。


 巻きついていた紐に引っかかった青いゴム。浮く為の力は無いはずなのに、天井に張り付いて教室を見下ろす不調。揺れる青は少しずつ破れた場所をくっつけ始め、再び風船に戻ろうとしていた。


 今までよりも小さな風船。それを縛る紐の殻。しかし昨日までとは比べるまでもなく紐の圧は弱く、そこで私は息を呑んだ。


 紐が風船を締め上げていたのではなかった。風船が、紐が許す範囲以上に膨らもうとしていたのだ。


 結果、今日、先程、風船は紐の圧によって破裂した。守るべき範囲よりも大きくなって、爆発した。その副産物がこの状況。不調の破裂が教室全員の鼓膜に傷をつけたのだ。


「おい、グラウンドやばいって!」


 隣のクラスから次の異例が発信される。窓際には一気に人波が押し寄せ、私は階段を跳ね下りた。


 下駄箱を抜けてグランドを見る。巻きあがる砂塵の向こうでは、いつも同じ所しか走っていなかった不調が、地団太を踏んでいた。


 肌を震わせる憤り。備え付けの鉄棒は不調によって折られ、グラウンドの各所に穴が開いていく。体育をしていたクラスは逃げ惑い、我先にと校舎へ避難していた。


 赤い汗をまき散らし、四足の不調は空を見上げる。走るのが遅くて、それでも必死に走り続けていた不調は、どこか清々しささえ浮かべていた。


 私は不調を凝視する。誰もが目を背け、背を向けた不調を観察する。


 その時――小さな金属音が聞こえた。


 地団太に負けそうな小さな音。それを零すことなく拾えば、もう一度聞こえたから。


 私は、校舎の影から覗く宝石の不調を見つけた。


 だから、みんなとは違う方向へ駆け出すのだ。


 鬼ごっこをするように宝石の不調は私から離れていく。今にも飛んでいきそうな姿で移動する。


 不調は校舎の裏で止まり、騒ぎはどこか遠くの他人事になった。


「……君が何か、したのかな?」


 不調は何も答えない。何も喋らない。だから私も言葉が出なくなり、少しだけ困るのだ。そんな空気を不調は感じ取ったのだろうか。


 ボロ布の前が開き、真っ黒な内側を見せてくれる。


 私は目を見開いて、宝石が浮かぶ黒を凝視した。


 不調はゆっくり近づいて、しかし離れて、迷ったように再び距離を詰める。ふわふわと、ゆらゆらと。自信がなさそうな動きで私の視界を移動する。


 私はボロ布を掴み、動きを止めた不調を見つめた。


「入れて、くれる?」


 不調は何も言わない。ただ静かに布を広げて、刺々しい宝石が散らばる中へと誘ってくれる。


 私は耳の奥で鼓動が大きくなっていると自覚しながらも、迷いはなかった。


 広げられた布の中へ。隠されていた本心へ。君が抱えていた不調の根源へ。


 黒い中に寄り添えば、散らばった宝石が私に刺さる。腕や、横腹、太腿に。軽い痛みはじくじくと浸透し、不調は布で私の体を覆い隠した。


 温かいのに寂しくなる。痛いのに嬉しくなる。そんな矛盾が私の中を満たしていき、目尻から熱いものが流れていった。


「やっと……君の痛みを、教えてくれたね」


 ***


 学校の事件から数か月。社会は不調を見逃してはならないものだと言い始め、沈黙から解明へ再び舵を切った。何を今更と思うが、事件が起こらないと変わらないものだ。


 私はと言えば、全く問題なく過ごしている。今日も目につく不調には興味があるし、新しい不調を発見すると好奇心が掻き立てられる。通学路の不調はどこかに保護されてしまったらしく、残念でならないけどね。


 不調の宝石が刺さった傷は数日で治ったし、元々そこまで深くない。どうして泣いたのか、どうして嬉しかったのかは未だに見当がつかない。言える事実は一つだけ。


 朝ご飯を食べる私の背後。

 そこに浮かんでる宝石の不調。


 あの日から、この不調は私に着いてきた。


 一人暮らしだったのでさして問題はないし、家の中ならこの子が連れていかれる心配もない。私に不利益はないので、好きにさせている。家に帰っても不調を観察できるのは楽しいもんね。


 この子は、柔らかいクッションで完全に脱力するのが好き。本棚の近くも落ち着くらしい。ニュース番組よりも動物番組をつけていた方が嬉しそうだ。面白い。


「ねぇ、今日は休みだよ。一緒にだらだらしようか」


 笑って告げれば、宝石の頭が私の額に軽くぶつかる。それがくすぐったくて、私は珈琲のマグに指を添えた。


「君はいつも、人の仕事まで頑張っていたからね」


 あぁ、また、口から私の知らない思い出が零れ出る。それはとても不思議で、どこか空しくて、寂しいこと。


 きっと、私は君を知っていた。それでも忘れてしまったんだ。君が不調の淀みを起こしてしまったから。


 あぁ、どうしてかな。どうして君は、教えてくれなかったんだろう。こんなに私の中身はこんがらがってるのに。悲しいのに、安堵してるなんておかしいだろ。


 だらだらしてる君を見て安心してる。

 新しい副会長が選出されてやっぱり寒気がした。

 帰ると君がベッドに横になってて嬉しくなる。

 怪我をした子も回復して、いつも通りになった学校が怖い。


 矛盾だよ、これは矛盾。私はいつも通りが過ぎるより、君といる方が安心しているんだから。


 誰もが不調を解明しようと躍起になる。不調は危険だと噂が回る。不調に近づく奴は、研究者でない限りおかしな奴だと揶揄される。


 それでもいい、それでもいいよ。ちゃんと休んで、ちゃんとお日様浴びて、ちゃんと無理してない君と一緒にいられるなら。


 私はおかしな奴でいい。変な奴で上等だ。


 いつか不調が解明されて、事態が好転するのか否かはどうでもいい。もしもそこで君が社会から槍を投げられたなら、私も一緒に刺されたい。


「ねぇ、映画でも借りてこようか」


 宝石を撫でて微笑めば、君は眩しく輝いてくれた。



――――――――――――――――――――


宝石の不調と、彼を見過ごせなかった女の子。


二人の関係は危険でしょうか。

二人に未来はあるのでしょうか。

二人の明日は、どんなものになっていくのでしょうか。


これは、穏やかで心地よい時間の話。

緩やかに戯れる子ども達の話。


彼女達を見つけて下さって、ありがとうござました。


藍ねず

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