猫と駅

ナトリウム

猫と駅

「またあしたね」

そう言っておれの頭から手を離し、彼女は立ち上がった。聞き馴染んだいつもの声に「にゃあ」と一鳴きしてやると、彼女は微笑んで小さく手を振った。制服姿の彼女はこの木箱のような小さな駅舎を出ると、駅前まで迎えに来た母親の車に乗り込んだ。

こんな日々が続いてもうしばらくになる。夕方の下り列車が着くと、彼女が一人だけこの駅で降りる。その時間にだいたいおれもこの駅でうとうとしている頃だから、彼女と鉢合わせる。母親の迎えが来るまで、彼女はおれを撫でたり話しかけたりしながら駅舎で待つのが日課になっていた。

おれが子供の頃はこの辺りに住む仲間たちも多かった。しかしいまはおれだけだ。世話してくれる人間たちが減ったからやっていけなくなったのだろう。幸いおれは狩りが得意だったから食いっぱぐれずに済んでいるが、孤独を感じることは確かだった。そんなとき、いつからかおれはこの駅と呼ばれる小屋に来るようになった。この駅には日に何回か列車というものがやって来て、人間が出入りする。たいていの人間はおれたち猫に興味を示すから、なんとなく孤独を紛らわすことができた。

しかし駅を出入りする人間も次第に減っていった。今となっては毎日目にするのは彼女だけだ。ただまあ、彼女はよく構ってくれるから退屈せずに済んでいる。

辺りをオレンジに染めていた夕日が沈み、間もなく夜がやってこようとしていた。おれは用事の済んだ駅舎を後にし、森の中へ戻った。


夕方の下り列車が着いても彼女はやってこなかった。

彼女が来ない日が7日に1度あることは知っていた。人間たちは7日間サイクルで生活しているらしく、そのことが関係しているのだろう。だが、今日はその日ではないはずだった。

まあそういうこともあるか、と思い駅を後にしたが、夜になってもなんとなく引っかかっていた。そういえばあの駅には夜にも下り列車があったはずだ、と思い出し、もう一度駅舎に行ってみることにした。

夜の駅はしんと静まり返っていた。そこにおれが着いてから少しして、列車がやって来た。そしてそこから彼女の姿が現れた。

マフラーというものを首に巻き両手をこすり合わせながらやって来た彼女は、おれの姿を見て声を上げた。

「まっててくれたの?」

残念ながらおれに人間の言葉は理解できないが、驚きつつも喜んでいるようだった。彼女はおれの座るベンチの横に腰を下ろし、いつものように撫で始めた。

彼女はおれを撫でながら、いろいろ話しかけてきた。人間はなぜおれたちに言葉を理解してもらえると思い込んでいるのだろうと毎回思うが、聞いてやることにした。彼女の表情は嬉しそうだったが、ときおりおれを覗き込んだり駅舎を見まわしたりしながら寂しそうな顔も見せた。やがて迎えの車が来て、彼女は帰って行った。


この頃ようやく寒さが落ち着いてきた。春になれば食べ物も増えるので大助かりだが、代わりにしばらく彼女の姿を見ていない。ただこれはこの前の春もだった。春と夏と冬にはしばらく姿を見せない時期があるらしい。家から出ていないのか、それとも別の時間の列車で帰っているのかは知らないが、また少しすれば夕方に会えるようになるだろうと楽観していた。

案の定、ある日の夕方彼女が姿を見せた。だが、下り列車から降りてきたのは彼女だけではなかった。いつもは車で迎えに来ている母親と父親らしい男が一緒だった。それによく見ると彼女の様子も少し違う。いつもの制服だが、胸に花とリボンのようなものがついている。

彼女はおれを見つけると、両親におれを紹介したようだった。一鳴きしてやると、母親も嬉しそうにおれを撫でたが、その表情にどこか切ないようなものがあるのをおれは見逃さなかった。

彼女と両親はおれを挟んでベンチに座り、しばらく話していた。どうやらこの駅について喋っているようだった。ときどき立ち上がっては懐かしそうに駅舎の柱に触れたりしている。そうしてしばらく居たが、やがて彼女たちは名残惜しむようにおれと駅に手を振り、去って行った。


…あの日以来、彼女はこの駅にやってくることはなかった。引っ越しでもしたのだろう。人間には人間の都合というものがある。寂しいがそれは仕方ないことだ。

だがもう一つ変わったことがあった。彼女が使っていたはずの夕方の下り列車がなくなっていた。いや、列車自体は来るのだが、ある日を境にこの駅に停まらずに走り去っていくようになってしまった。それだけでなく他の時間の列車もそうだ。…この駅に停まる列車は1つも無くなっていた。

それでもおれはなんとなく、駅舎に居ることが多かった。特に理由はないが、彼女がもう来なくても、彼女との思い出がこの小屋を居心地よくさせていた。

そんなある日、見知らぬ男が車でやって来た。作業着を着て黄色いヘルメットを被っている。男はおれを見つけると、複雑な表情を見せてから寂しそうに笑いかけた。

「ごめんな」

おれはベンチから飛び降り、駅舎を後にした。だいたいのことを悟った瞬間だった。彼女が去り、使う人の居なくなったこの駅は、役目を終えたのだ。

立ち止まって駅舎を振り返る。もうここに来ることはないだろう。見慣れた姿で佇む木箱のような小屋を瞳に焼き付けてから、野良猫は森の中へ戻って行った。


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