第17話 秋穂3

 時は静謐に満ち、正江の未来を言垂れているようだった。

1月の最後の日曜日、風はなぎ、寒天はきりりと青い。


正江は家族に朝食を食べさせ、秋穂に受験勉強を促し、食器を洗い終えたところでリビングのソファに深く沈み、ひといき腰を落ち着けていた。両手で包み込んだ湯呑の中には、飲みさしの緑茶が半分、人肌に心地よい温度で残っていた。

穏やかな日曜日だ、と正江は思う。寿秋はゴルフの練習に出かけてしまい、娘と正二は連れ立って家を出た。今頃どこにいるのやら…。これだけ静かなのだから、秋穂の受験勉強もはかどるに違いない。家事の隙間、正江の意識にそんなとりとめのない思いが巡る。正江は時のしるしのようにひとくち緑茶をすすり、無意識のうちに、明るい庭へ、掃き出し窓のほうへ目を向けた。

窓の外には冬枯れの芝生、葉を落とした柿の木、その向こうに見える家庭菜園、そして、つつましくもなお地をぬくめ、私たちに生気をあたえたもう陽光、―朝の光は、夜気に冷え澄んだ大気の隅々にまで降り注いでいた。

正江は湯呑をソファテーブルに置くと、掃き出し窓に歩み寄り、窓を開け外気をリビングに招き入れた。風は無くとも冷たく澄んだ、1月の朝の空気だ。肌が露出している足首や指先から冷えが体を走ると、自然と肩がすくむ。両手で肘を抱き、一度きつく目をつむる。冷気が体になじむ。ひとしきり冷気に浸り、朝の目覚めのように瞼を開ける。

変わらない…、と正江は思う。それは安堵でもあり落胆でもあった。ひとつ大きく、深く、息を吸い込んだ。肺まで冷たくなるような空気、―暗い夜に霜が降り、朝の光に照らされ少しずつ解け、蒸発し大気に広がる、湿り気を含んだような冷たい空気だ。

なに変わることのない世界に目を据える。寒天は青く、風はない。芝生は色あせ、柿の木は堅牢に超然としており、家庭菜園の野菜たちは行儀よく整列していた。野菜たち、―白菜や長ネギや大根たち、彼らは冬の朝霜にあたり、その微細な氷の粒を、薄白い、きらめくベールのようにまとっている。正江は、彼らと同じ冷気を感じ、リアルな物質感を共有しているような感覚に陥った。よく耳をすませば、彼らが薄い陽光ですら精一杯に受け止め、体を温め、滋養を蓄える音が聞こえてきそうな気さえする。プチプチと、細胞が分裂している音が聞こえてきそうな気さえする。

正江の脳裏で、その野菜たちに秋穂が重なる。そして、私たちがこの寒い季節を乗り切ることができれば、-私たちが受験を無事に乗り越えることができれば、と決意に近しい祈りを思った。

正江が決意を新たにするほどの祈り、それはつい先だっての三者面談で、秋穂の担任の先生から発せられた言葉からこっち、心の奥底にずっとうずいていたものだ。「英語がちょっと気になりますね。秋穂君の学力が落ちているのではないと思います。この時期、誰もが一斉に受験勉強を始めてますからね、伸びる生徒は一気に伸びます。そういう生徒さんと比べると、秋穂君は少し停滞気味に見えますね。決して悪いと言っているのではありません、相対的にみるとね、少し停滞してるかな、と言った感触です。これから頑張れば、いくらでも挽回できる範疇だと思いますよ…」「志望校を変更することは、決して悪ではありません。難関校に行ってずっと底辺をさまよっているよりも、ワンランク落として上位にいたほうが、学力が伸びる場合もあります。一方で、難関校に行って周囲に揉まれたほうが学力が伸びるパターンもあります。その子その子の性格にもよりますので、そこはご家庭でよく話し合っていただくことになろうかと思います。」「ただ、高校に行くには、入学試験に受からなければならないという前提は、ご理解ください。学区内の公立高校は全校、入試が同一日ですからね、落ちると滑り止めの私立高校ということになります。…あぁ、私立高校が劣るということを言っているのではないですよ、学費のこともありますので、それも含めてご家庭でよくご相談していただきたいということです。」「秋穂君の未来ですからね、お父様お母様とよくご相談して、決めていただくのが一番です。」

担任教師の発言は、正江には、屈辱だった。秋穂は頑張っている。私が頑張らせている。受験校のランクを落とすなんて考えてもみなかったし、担任教師がどれほどの親切心で助言してくれたとしても、そんなことは「もってのほか」としか感じられなかった。窓枠にもたれ、冬野菜たちを眺め、「大体、こんな田舎で受験校をワンランク落としたら、それこそ、大学に進学することすら危ぶまれるじゃないの。そんな甘ったれた環境でたとえ学力が伸びたとして、行ける大学なんてたかが知れてるわ!」そう独り言ちた。

そして、私は秋穂の能力を信じている、と再確認した。

冷たい空気がひと吹きリビングへと流れ込んだ。正江は、丸まる背筋を意識的にしゃんと伸ばす。

そう、秋穂には能力があるのだ、と正江は思う。私の子宮から生み落とされた生命、私と血肉を分けた我が息子は、今までだっていつもきちんと、その能力を発揮してきた。中学校に入学しても、おおむね学年のトップクラスを維持してきた。私がきちんと管理して、計画的に、継続的に勉強をさせさえすれば、あの子は、その能力をいかんなく発揮するのだ。先生の言う通りなのだ。今は周囲が勉強をやり始めて、相対的に学力が停滞しているように見えているだけなのだ。あの子の能力が低下しているわけではないのだ。だからいま、私がきちんと尻を叩いてあげさえすれば、あの子はきっと返り咲く。高校入試だって必ず突破できる。私がきちんと管理しさえすれば。

秋穂は今、冬の陽光を受け地中深く根を張り、地道に養分を蓄えているのだ。いままでだってずっと、私がそうさせてきたのだから。

しかしとりとめなく浮沈する思いは、とりとめることができないために、突然、事切れる。リビングのドア横の電話台のうえで、黒い電話機が、ジリリリリとけたたましい音を発した。

正江は、ひとつふうっと息を吐き、窓を閉め、電話に向かい歩を進めた。冬野菜たちに重なり合う秋穂のイメージ、陽光を受け大地に根を張る秋穂のイメージが、掃き出し窓の向こうに、ぽっかりと置き去りにされているようだった。

「長田でございます」と正江は応じた。

「Nと申します、秋穂君いらっしゃいますか。」と受話器は言い放った。まだ口に馴染まない、単刀直入に過ぎる謙譲語…、彼は秋穂の同級生だった。家が近所で、秋穂と一緒にバトミントン部に所属していた、秋穂の、仲の良い、古くからの友人。

(何の用かしら…、遊びの誘いかもしれない…。朝食を終えて、ようやく勉強をさせ始めたばかりなのに…。)懸念される事柄ほど真っ先に心に浮かぶ。しかし正江は、いつも通りに「おります、少しお待ちください。」と受け答え、秋穂を呼んだ。

正江は二階の自室から降りて来た秋穂に受話器を渡し、そのままリビングのソファに座った。新聞を読むふりをしながら、秋穂の様子をうかがった。心が少し、ザラついていた。


秋穂はひとしきりN君とおしゃべりをしたあと、正江に声をかけた。

「県営体育館に〇〇が来るんだって。N君がお父さんと見に行くから、一緒にどうって誘ってくれた。見に行ってもいい?」

何をためらうでもない、屈託のない(ように正江には聞こえる)秋穂の発言。

心の中のザラつきが、小さく圧縮し、固く変質しながらのどをせりあがってくるように感じられる…。しかし正江は、のどをせりあがってくる、固くザラついた粒子をひと飲みに下し、視線を優し気に固定し、少しだけ困った雰囲気を表情にまとわせ、秋穂を見据えた。

そして「N君はバトミントンの特退で高校に行くでしょう、でも秋穂は入試に受からないと高校には行けないの。N君とあなたは違うのよ、そのことはわかってほしいの。でもね、入試に合格するならね、行ってもいいよ。」と答えた。

もちろん正江も、○○が地元では名の知れたバトミントンプレーヤーだということは、バトミントン部に所属する生徒の保護者として知っていし、秋穂も県大会に出場する程度にはバトミントンに熱心だったことも、わかっていた。そしてN君はずっと仲良くしてきた古い友達…。そんなN君に誘われれば見に行きたくもなるのだろう。でも今、秋穂の「やるべきこと」は受験勉強なのだ。それなのに秋穂は、バトミントンを見に行く許可を正江に求めている。間違いなく秋穂は、受験勉強よりもバトミントンを優先しているのだ。だから母親である自分がその意識を矯正してあげなければならない。

正江はそのように思っていた。

そうなのだ、正江は秋穂の学力について日々思い、毎時毎分毎秒ごとに思い、片時も離れず思い続け、自分が常に手綱を持ち続けなければならないということに、一片の疑念も抱いていなかった。正江は秋穂に何事よりも優先して勉強をさせることを至上の命題として思いなしており、いつ何時も万難を排してその自負をもたげあげさせることができた。そして今こそ、その最たる場面ではないか…。

そんな盲目的な一途さは、正江の端緒だったのかもしれない。正江はいつもいつも想像していた。秋穂が自ら進んで勉強し、志望校に受かり、医学部か法学部へ進学する。自分の子供が医者か弁護士になる。息子はきっと、「あの時はつらかったけど勉強しておいてよかった」と、正江に感謝の意を伝えるだろう。そして息子は、この小さな町で名士になる。近隣の総合病院で勤務医になることもできるし、町医者に頼んで働かせてもらうこともできるだろう。法律事務所を開いて、町のみんなの法律的な手続きを生業にすることもできるかもしれない。町のみんなから頼られる息子。そしてそんな息子を育て上げた母親。正江は明るい未来を空想し、それを拠り所に、今の秋穂の視界を受験勉強に向かわせることを、至上の命題だと考えていたのだ。ただ今この時、秋穂に恨まれたとして、それは甘んじて受け入れよう、今の苦労は、必ず未来の糧になる。

正江はソファに座り、そんな何やかやをぐるぐると思い起こしながら秋穂を見据えていた。「合格するなら行ってもよい」と秋穂に投げかけた姿勢のまま、優しげな視線を崩さず、少しだけ困った雰囲気を表情にまとわせながら。

対して秋穂は、左手で受話器を持ち、右手で送話口を塞ぎ、ただ正江を見ていた。

そう、正江はただ秋穂に見られていた。秋穂の視線には、正江の発言に対する「でも」も、「だから」も見受けられなかった。

正江は、優しく秋穂を見据えようと努めていたがしかし、秋穂の視線がとらえる何かが自分ではないもののようにも思え、ほんのわずかではあるが、無意識に眉根が寄った。

高校に受かればよいのだ、正江の心中は少し後ずさった。秋穂の行動のすべては、今は高校受験に向かうべきなのだ。それは決まりきったことなのだ。バトミントンの試合を見に行くことを否定してはいないし、行かずに勉強を続ける意思があればなおよい。いずれにしても、そのどちらの行動をとったとしても、秋穂が高校に受かれば、それまでに取った行動のすべては正当化されるだろう。「高校に受かればよいのだ」と正江は、振り切るように心中で独り言ち、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと新聞へ視線を落とした。

読みもしない新聞記事に視線を這わせながら、ふと、私立中学校へ進学することを諦めざるをえなかった過去が脳裏をかすめた。当時の、小学校6年生時の秋穂の担任の先生は、秋穂は公立の、地元の中学校へ進学するべきだと、正江に進言した。地元の中学校へ進学したとしても、十分、秋穂の学力は伸びるだろうと。しかし本格的に受験に備える中学3年の冬、三者面談での発言があったように、秋穂の学力が停滞しているのは事実のようだ。「言わんこっちゃない」と思う。かつ、小学校の担任教師への非難と当時の自分への後悔を拭い去ることはできそうもない。だからこそ正江は気負い、「目指す進学校へ入学するためには、もうひと伸びが必要なのだ、そして最後の、そのひと伸びを押し上げてあげられるのは、母親である自分しかいない」と決意を新たにする。その決意が時に、秋穂の行動を制限する言葉、秋穂の希望に沿えない言葉を投げ掛けさせる。その中心で正江は、秋穂が高校に受かればそれでいいのだと、そう自分に言い聞かせる。私立の中学校に進学させなかった自分を正当化できるように、その意識の裏側で、当時の、小学校の担任の先生をなじるように。


正江は、あてもなく新聞を見つめながら、横目で秋穂を探る。秋穂は受話器を持ったまま動く気配がない。正江からもN君からも離脱し、その気配が空間をも無機質に硬化させるような沈黙。時間は、沈黙のうちに流れ去る。

自分を平静に保つことに注力しながら、正江は、思い通りに進まぬ状況に、いら立ちを募らせはじめていた。なぜ秋穂は黙ってじっと受話器を持ったままでいるのだろう、受話器を持ったまま、黙って私を見ている…。なぜ、なぜ、なぜ、この何分間でも勉強できるはずなのに、なぜ。

正江の発する「なぜ」は回答を求めていなかった。「あなたは「なぜ」黙ってじっと受話器を持ち、私を見つめているの!一秒でも早く勉強を始めなければならないのに!」という、秋穂を屈服させたい気持ちの発露であり、かつ、「あなたは「なぜ」黙ってじっと受話器を持ち、私を見つめながらここにいるの!」という、秋穂の存在を否定する「なぜ」だった。

しかも正江は、「なぜ」の底などは見ない。覗けばそこに「なぜ」の意味が存在していることすら感じていない。ただ秋穂の存在をその視線に感じ、じっとずっと正江を(あるいは正江なるものを)見据えているだろうその視線に、嫌悪と不快、極度の苛立ちを感じているのだ。

(いったい何なのだろう、この子は)という思いがもたげ、正江は再度横目で秋穂を覗いた。

秋穂は中立的な色をたたえた小さな目を正江に向けていた。バトミントンを見に行きたいとも、行かずに勉強をしようともうかがえない、中立的な目だった。意思も読み取れないし、物理的に微動だにしない目だった。色も動きもない、五感のうちの視覚の機能を果たしているだけの目だった。そして、微笑しているように思えばそう見える程度の口元…。

(いったい何なのだろう、この子は)

正江は、目頭と喉元が熱くなってくるのを感じた。そして、視線を新聞から動かさないよう、鉄の扉を閉ざした。分厚く重い、鉄の扉。寸分の隙なく、沈黙の力を発する、冷たく重い、鉄の扉だ。

(私の気持ちは、誰にも理解されない…)

正江は、鉄の扉のただなかで、とにかく新聞の活字に意識を集中させた。

秋穂が正江に、あるいは正江なるものに視線をあてがったまま時は過ぎ、過行く時間の分だけあたりの空気が緊綿し、薄く剝げ落ちていくようだ。切迫が、終わりを告げた。

「ごめん、今日は行けないや。…また今度ね。」

秋穂は受話器へ断りの言葉を伝え、自室へ戻っていった。

秋穂の後姿が正江の視界の隅から消えていった。秋穂の姿が、リビングのドアから消えていった。正江は姿勢を起こし、2度深呼吸をし、心拍の平静を取り戻した。憤りと苛立ちが少し凪いだように感じられた。


机に向かい、秋穂は泣いた。声もなく、ただ涙を流し続けた。ただただ涙を流し続けながら勉強をつづけ、「高校入学試験に受かるためには勉強しなければならいのだ」と、その考えで頭を満たしていた。思いではなく考えで…。秋穂は、考えで頭を満たすだけの意力を、先天的にせよ後天的にせよ、偶然にせよ必然にせよ、奇跡的にも無意識に培うことに成功していたのだ。

しかし秋穂は知らない、あるいは知ろうとしない。思いは涙と一緒に、どこか遠くに流れ出てしまうものなのだということを。

そして秋穂はなおも考える、高校に行かなければならいのだ、と。

しかし、なんのために…。


その日の夕食はほうとう鍋だった。

「寒い日の鍋は良いね。体があったまる。」と正二が言った

「寿秋さんのゴルフコンペの景品なのよ。」と正江が言った。

「へえ、何位の景品だったんだい?」と正二が言った。

「ゴルフコンペって、参加者のほとんどの人に何か当たるんです。私は、何位って言えるほどの腕前ではないですよ。」と寿秋が言った。

「でもこうやってほうとうが食べられるんだから、ゴルフも良いもんだね。」と正二が言った。

正江は秋穂と妹にほうとう鍋を取り分けながら、寿秋と正二の会話を聞いていた。いつも同じ会話だった。ゴルフコンペの景品として、銘菓詰め合わせをもらってきたときも、リンゴをもらってきたときも、卵をもらってきたときも同じ会話を繰り返していた。

平和だ、と正江は思う。

寿秋が婿に入ったことを正二がどう思っているのかを聞いたことはないが、二人はいつもお決まりの会話をして、いつも穏やかに笑っている。男同士はおそらく、お互いの領分に深く足を踏み入れないのだろう、正江はそう思っていた。それが男同士の気遣いや思いやりなのだろうと。

だから正江は、正二に成り代わって寿秋に感謝するし、寿秋に成り代わって正二に尊敬を抱いていた。

「ねえお母さん、ニンジンやだあ。」と妹が言った。

「だめよ、いつもやだやだばっかりで。しっかり食べなさい。」と正江。

「じゃあ、ハクサイと交換して。」と妹。

「えー、」と正江、「じゃあひとつは食べて、あとはハクサイと交換してあげる。」

「このハクサイは、庭のハクサイだぞ。」と正二が妹に話しかけた。「うまいだろう」正二が家庭菜園で育てたハクサイだった。

「うん、ハクサイ美味しいね。ニンジンよりずーっと。」と妹は言い、正江のほうから正二のほうへ視線を移し、笑顔を見せた。

「美味しくても美味しくなくてもね、野菜は人間の体に必要なんだから、何でもおいしいと思って食べるの。おじいちゃんもハクサイの肩ばっかり持たないで。ニンジンも食べるように言ってよ。」と正江。

「そんなに固く言うな、みんな頭ではわかってるんだ。そのうち食べるようになる。秋穂も食べてるか、美味しいだろう。」と正二。

「食べたよ、美味しかった、ごちそうさま。」と秋穂。

秋穂は、取り分けられたほうとう鍋をきれいに食べ、器と箸をシンクに下げた。その足でソファに腰を下ろすと、テレビの電源を入れてアニメ番組にチャンネルをセットした。画面の中で、誰かと誰かが、激しい肉弾戦を繰り広げていた。光線を発したり、体の一部を肥大化させたり、化け物を呼び出したりしていた。

「食休みしたら、きちんと勉強するんですよ。」と正江が言った。

「少しくらい休ませてやったらどうだ、今日は昼間に、ずいぶんと勉強していたじゃないか。」と正二が横やりを入れた。

「おじいちゃん、そうやって甘やかさないで。あとひと月で入試なのよ。ここが正念場なの。秋穂も私たちも。今頑張れば、後で楽になるんだから。ねえ、お父さん。」と正江が言う。

「まあね。」と寿秋が答える。

正江は思う、(お父さんは甘やかすし、寿秋さんは「我関せず」。結局私が悪者にならなきゃならないじゃない。でも、仕方がないか、寿秋さんもお父さんも、二人が仲良くやってくれるだけでありがたい。私は、秋穂だけに集中できるわ。ここを乗り切れば、秋穂も大きくなれば、勉強しておいて良かったと思える日が来るはずだわ。)

秋穂は、見ていたテレビ番組が終わったようで、テレビのスイッチを消してソファを離れた。

「秋穂、ちゃんと勉強するんですよ。」と正江が言う。

(今が正念場なの)と正江が思う。

秋穂は、そう言った正江を一瞥し、何も答えず自室へと引き下がった。

また、あの目だった。

正江は思った。またあの中立的な目だ。勉強をすべきとも感じられない。やりたくないとも感じられない。ただ見るためだけに見ている目。何も発しない目…。


目は口程に物を言う、と言うが、正江はここ最近、時に何も発しない秋穂の目に遭遇しては、射抜かれたような息詰まりを感じていた。正江は、これほど意思の読み取れない目、取り付く島のない目を、今まで見たことがなかったのだ。

でも正江は、「私は秋穂との意思疎通を望むから、秋穂の目に意思を読み取ろうとするけれど、意思を読み取りたい相手の目でなければ、読み取れない目でも気にならないのかもしれない。実はそんな意思のない目が世間にはあふれかえっていて、でも私が単に見過ごしてきただけなのかもしれない。」あるいは、「正二と寿秋は大人だから、私に対して意思を示すことを礼儀としてわきまえているし、妹は女の子で、私と同じように、意思を伝えあうこと自体に楽しさを感じるから、家族の中で秋穂の目だけを特殊に感じて、その特殊さ故に秋穂の目を「意思の読み取りづらい目」と思い込んでいるだけなのかもしれない。」それに、「自分以外の誰も、-正二も寿秋も-秋穂について何も言わないということは、自分が気にし過ぎているだけなんだろう。」そもそも「私は女姉妹の中で育ってきて、中学3年生の男子と家族として接する経験なんてなかった。世間の中学3年生の男子なんてみんなこんな感じなのかもしれない。」と思いめぐらし、自己弁護を果たしていた。秋穂が瞳に意思を宿らせない、その行為には対象があるはずだということには思い至らず、秋穂の目に特殊さを感じはするものの、その特殊さの向こう側を探ろうともせず、想像力に蓋をして、結果、現在の秋穂を、あるいは正江の視認できる秋穂の外観を是認することで、自己弁護を果たしていたのだ。

そして、今日その時、秋穂の瞳は乾き、目頭が少しあかぎれていることに、正江は気づくこともない。

それも自己弁護の帰結なのかもしれない。


秋穂は自室で、無心で計算ドリルに励んだ。無心で励む計算ドリルがどれほど学力向上に寄与するかは疑わしかったが、秋穂も自分のやるべきことが勉強だということは、わかっているのだ。ただ、あるべきはずの存在しない進学欲求と、現実にやるべき受験勉強のはざまで、秋穂は、「無心」をその緩衝材にせざるをえなかったのだろう。彼は、何かを感じる能力を封印し、やるべきことを遂行するだけの意力を備えつつあったのだ。


秋穂は無心で計算ドリルをこなしていく。

現実世界で行った行為の証拠が、ノートに計算式として記される。それが秋穂の生きた世界、生きた痕跡…。


そして秋穂の頬に、その日二度目の涙が一筋、伝った。何も考えていないはずなのに、何も感じていないはずなのに、涙が伝った。何も考えられないところで、何も感じられないところで、秋穂が秋穂として存在するための涙だ。無心を掘り進んだ奥の奥、誰にも、秋穂にもわかりえない心の水脈から一筋、染み出る涙だ。

N君と自分は違う、と正江は言った。なぜ違うのか、どのように違うのか、その違いは何に根差し、どのように発現してきたのだろう。もちろん、秋穂とN君は異なる人間だ。異なる個体だ。そんなことはわかる。わかりきったことだ。そしてわかりきったことは考えるべき問題ではない。では何が…、いや考えるな。考えるな考えるな、試験が終わるまで。考えても仕方がないじゃないか…。

考えないということが、考える根源を感じないということが、今秋穂が前に進むための唯一の手段だった。

しかし秋穂は、直感的に感じていた。これは裏切りなのだと。

しかし秋穂は、理解には至らない。裏切りという単語すら認識できない。「裏切り」のような何かが、得体の知れない触感として心の中に存在している、その存在だけが直感的に感じられるのだ。その触感が涙の水脈に染み出し、しかしその水脈が秋穂の中のどこか奥深く、「無心」の地平の最深部に沁み出でているため、ただ何かを感じる程度の直感でしか、秋穂に知感できなかったのだ。

しかし秋穂は知っている、自分が、直感的には、感じ取れていた何かが存在しているということを…。

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