第15話 秋穂2

 「ここから通うとなれば片道1時間以上かかります。駅まで行って、電車に乗って、向こうの駅からはおそらくバスでしょう。小学校を卒業したばかりの子供にとっては、かなりのストレスだと思います。まして友達が一人もいないところに通わせるとなると…。そういったストレスや不安は、大人が思う以上に子供たちにはつらいものだと思いますよ。」

 「でも地元の公立中では、…こういってはなんですが、周りのレベルに引きずられてしまいますでしょう、勉強する子もしない子も一緒にいるわけですから。だったら私立の中学校に入れて、勉強する環境においてあげた方が、今はつらくとも、将来のためになると思いますの。」

 「もしお母様が成績のことを気にしていらっしゃるのでしたら、地元の公立中に進学したとしても、一定程度の高校、大学に十分進学していけると思います。理解力のある子ですから。」

 「そう言っていただけるのはとてもうれしいのですけれども、私、出来れば大学へは、医学か法学の方へ行かせたいと思っているのでございます。だから一定程度ではダメだと思いますの。一定程度と思って勉強しましても、一定程度にしかなれませんでしょう。ましてや子供でしたらどうしても遊びたくなってしまいますでしょうし…。ただ、…自分は、地元の公立中学校と県立の商業高校でしたから、大学受験、ましてや中学受験なんて経験がございませんもので、ですから不安もございまして、それで先生にご相談に乗っていただければと思ってましたの。」

 「私も、個人的なことを言わせていただければ、短大出の小学校教師ですから、医学や法学の大学受験は想像できませんし、実際に担任の子を中学受験させた経験もございません。ですが…、」

 「それでも、先生も、秋穂の学力は東京の児童にも引けをとらないと、期末面談ではおっしゃっておられましたでしょう。だったら、そういった子たちが通えるような、充実した教育環境に、秋穂を入れてあげたほうが、後々、秋穂のためになるのではないでしょうか。」

 「そうですね、確かに学力テストの結果は、全国的にもトップクラスでした。東京の児童と比較して引けを取るものではありません。私もその認識はお母様と同じでございます。ですから私は、地元の公立中学校でも十分、高校、大学に進学できると思うのです。医学であれ法学であれ、本人の意志次第でなんとでもなると思うのです。」

 「でも、教育環境に恵まれた東京の子たちと比べると、いざ高校受験だ、大学受験だとなった時点で、秋穂は苦労しなければならないのではないでしょうか。だったら今のうちから、とも思いますし…。」

 「お母様、私は、小学校の教員としての立場でお話しさせていただきますが、教師としては子供たちの心の教育も、それはメンタルケアも含めて、教育だと思っております。もちろん家庭の方針が第一だということはわかって申し上げますが、今の秋穂君には、私立の中学校は薦められません。勉強はついていけるでしょう、先ほどもお話ししました通り、秋穂君は理解力に長けておりますし、学力的には申し分ありませんから。ただ、今の秋穂君からは、勉強に対する執着、…まあ、小学生のうちから勉強に執着のある子どもはあまりいませんけれど、でも、周囲の子供たちへの競争心みたいなものはあってもおかしくないと思うんです、それがまるで感じられない…。秋穂君には、そういった心の起伏のようなものをあまり感じないのです。ですから…」

 「そうなんですよ、私も感じておりましたの。…秋穂には、わが子ですからこんなこと言いたくありませんけれども、やる気が感じられませんの。だからこそ、やらなければならない環境においてあげたほうが、と思っているんですの。」

 「ですがお母様、秋穂君のそのような個性が、この先どのように展開していくのかはわかりませんが、受験校での競争原理の中でも、おおらかに育っていくかもしれませんし、そうなれば最も良いことなのでしょう。それでも、友人の一人もいない環境で、秋穂君が仮に自分自身を外に向けて発信できずに、内に内に固まってしまいましたら、それは、取り返しのつかないことのように思えるのです。今の環境の中で、秋穂君が自発的な意志を持てるように、見守って、助言してあげるのが、私たち周囲の大人のやってあげられることなのではないでしょうか。お母様も、この土地でお母様になられたのですから、秋穂君も同じように、この土地で成長させてあげれば、それがお母様と秋穂君のお互いのためになるのだと思います。」

 「…。」

 「それだけではありません、現実的に、小学生に受験勉強をさせるわけですし、本人の負担だって、家族の負担だってどれだけのものになるか…」

 「ですけれども、何十年も生きていく中での一定期間でございましょう。その時は本人も、私たち親も大変なのでしょうけれども、それにもちろん、先生方にもご迷惑は掛かるのでしょうけれども…、そういうことも含めて、いつか私たちの思いもわかってもらえると思うのですが…」

 「そこまで決意がおありなら私が何を言うこともできませんが、お母様のビジョンなり本人の意向なりを、きちんとお話しあいなさって決めていただくことが肝要なのではないでしょうか。…繰り返しになってしまいますが、私は秋穂君の担任として、地元の公立中学校をお勧めいたします。秋穂君ならそれで十分進学していけると思います。」

 担任の女教師にはうっすらと涙があった。

 たっぷりと湿度を保持した午後の、夏休みの職員室。麦茶が注がれた来客用のグラスはひどく汗をかき、開け放たれた窓から響き込んでいた蝉の音は遠くへ、…遠くへ静まったと感じただけなのかもしれない。光に満ちた校庭に子はなく、蒸れた熱気と孤立した静寂が涙をもたらしたようである。

 正江は、唯一の援護者だと想定していた先生の発言に不意を打たれ、戸惑い、落胆した。

 寿秋はその当時、営業の最前線である東京の親会社に出向しており、土曜の晩に正江たちの待つ自宅に帰宅し、月曜日の朝早くに東京に戻るという生活を繰り返していた。季節によっては土日の接待ゴルフだなんだかんだと、ひと月近く自宅に戻らないこともざらであった。地方の小さな系列店から東京の親会社に出向することは、寿秋にしてみれば千載一遇の出世のチャンスだった。なりふり構わず仕事に打ち込むことが何より優先されるべきことで、家政に構っている場合ではないし、正江にしてもそれを認めないわけにはいかなかった。それでも、正江は秋穂の進学について何度も寿秋に相談した。そして寿秋はいつも笑顔でこう答えた「正江に任せる」。もともと自由人だった寿秋にとって、進学なんて本人の好きなようにやらせればそれでよいという意識があった。当の寿秋だって地元の工業高校に進学して、それでも、今こうして抜擢のさなかなのだ。

 加えて、祖父正二も進学について頓着がなかった。それどころか、躍起になっている正江に対して、好きにやらせてやれ、とたしなめることすらあった。

 だから正江にとって、面談での「東京の児童にも負けない」という担任教師のひとことが、唯一のよりどころであったが、その出どころである先生が、秋穂の進学を否定した。先生の言うとおり、秋穂のやる気のなさは、正江にもわかってはいた。それでも東京の子に引けを取らないと言ってもらえた。勉強をしなければならない環境に身を置いたら、もっともっと学力が伸びるのではないかと妄想した。とても誇らしく思えた。自分の息子が医者か弁護士になる。自分の息子が。しかし、正江の心の中で何かが揺らいだ。


 夕食時、食卓につき談笑している家族たち。配膳に、キッチンと食卓を行き来する正江。食器棚のガラスに食卓の家族が映る。鏡になりきらない食器棚のガラス。そのガラスに、棚に収まった皿や椀などが透け、家族の談笑に視点を合わせると、皿や椀の色遣いがにじむ。にじんだ色合いに、彼らの笑顔が華やぐように感じられる。いつも、配膳時に正江がするひとり遊びだった。いつもいつも、そこに鮮やかに縁どられた未来を見るように思えていた。しかし、ガラスのなかも今は今でしかないと気付かされる。

 (私の気持ちをよそに…)。家族を映すガラス、そのガラスを見つめる正江、そしてガラスに大きく映った正江に、一筋、涙がつたった。それは漠然とした喪失と、新たな決意表明の、分岐の一筋だったようだ、「立ち止まっていてはだめだ。いろいろなことが思い出になっちゃうまで、とにかく進むんだ。」あえて言葉にすればそういうことなのだろう。

 正江は秋穂を地元の中学校へ入れた。

 そうやって、秋穂の知らないところで秋穂の人生が少しずつ動き出していた。

 そうやって、自覚のない正江の自意識に少しずつねじれが生じていった。


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