第14話 奈々

 奈々から電話がかかってきたのは、雪が解け始めた、3月の終わりだった。濁った雪解け水が、解けきらぬ雪だまりに跳ね上がり、札幌はいっとき、冷たい雨に打たれて、もとは輝く白であったであろう、みじめなムクイヌのような惨状に見舞われる。誰がどうあがいても端折ることのできない、自然の移行期間、かくあるべき札幌のイメージの狭間のいっとき。-あたたかく乾いた部屋にあげて下さいよ、そんな薄汚れたなりじゃ駄目さ、出直しておいで-。ムクイヌはしばしの時間をじっとこらえざるを得ない、そんな3月の終わりだった。

 「はいもしもし、長田です。」それは23時を回った、夜の分岐の頃合いだった。僕はだらだらと、チャンネルをいじりながら深夜テレビをハシゴしていた。「このあいだはどうもありがとう、わたし奈々、覚えてる?」奈々、…覚えていた。麻雀、赤いアウディ、JAF、丸く白く、餅のような頬。真夜中にJAFを呼ぶなんて、普通に生活している学生には、そうそう訪れる経験ではない、それは一つのエピソードとして、しっかり僕の脳裏に焼き付いていた。しかし、エピソードとしてだ…。そして今僕は、夜中の23時に、僕が彼女を覚えているか否かを問われている。こんな簡素な造作物であるプラスチック受話器から、…僕の家で最も高価な受話器から、遠くの声が、あいまいな記憶の映像とともに、僕に問う。確かに忘れてはいないのだが…、今なぜ僕の耳に彼女の声が届いているのだろう。わからない、考えがまとまらない、僕の脳ミソの中でニューロンが、光の速さで飛び交っていた。僕は、僕が彼女を覚えているか否かを問われている。何かを回答しなければならない。何かを…、「…雪に埋もれてた?」「そう、雪山に突っ込んじゃった車を助けてもらった奈々、覚えてるじゃない、よかった。今、時間ある?」僕はテレビの音量を手元のリモコンで下げる。何も情報を伝達してこないテレビをじっと見つめながら、根気強く、継続的に、光の速さで思考する。夜明け前のハイウェイをひた走る光点のごとくニューロンが飛び交う。-今、時間があるか否か…。僕はいったい何を問われているのだろう。夜の23時を過ぎている。仮に時間があるとして、その時間をいったい何に費やすというのだろう。電話で話をしたいということなのだろうか?…話?話をするも何も、3か月前に一度会ったきりの人間だ。それも、かなりいぶかしいアウディA4を運転し、そのアウディA4を、深夜の雪山に突っ込ませていた人間だ。…何を話す?「時間無い…?」「いや、ある、…いえ、あります。」「南〇条西○丁目○○ビル○階『カトレア』」、彼女は住所と店名を告げると「来られる?」といった。「はい…。」と僕は答えた。「じゃあね、きっとね。」と彼女が言った。僕は何も答えなかった。

 彼女は僕より少しばかり、学年で言えば1年、年上だった。オリンピックの年の二月二十八日に生まれたとのことで、「もうちょっと遅れてたら四年に一回しか誕生日が来ないところだったわ。」と自分を紹介した。彼女はこれまでの生涯のうちで、幾度もこのフレーズを繰り返してきたのだろう。手短に説明でき、印象的な事柄の割にはなじみやすく、会話に波風を起こさない。

「ビール?焼酎?ウィスキー?安くしといてあげる。」

 誰もいないスナックの店内で、-「スナック」という存在そのものを概念的に把握できていない僕にとって、居酒屋と異なるその狭い店内で、食事を摂るでもなくただアルコールを摂取することの意味合いは、果てしなくぼやけていた。その果てしなくぼやけた空間は、薄暗さも相まって、僕の視覚を彼女だけに固執させる効果があったようだ。「ビール…。」と答える僕の視覚に彼女は、合わせ鏡のような記憶の一片では餅のようにみずみずしく膨れ上がった頬を見せ、でも、今ここに現実的に存在している彼女は、硬質感をまとい、手際のよい、実際的な女性だった。質の良い茶碗のような、白くて、つるつるして、冷たい頬、小さく乱反射するワンピース、メイクアップされた表情、スナック特有の薄暗い照明、狭い店内、彼女と僕。僕はいったい今、どこにいるのだ。薄汚れたムクイヌのごとき36号線を、今しがた通り過ぎてきたのだ。ここはススキノ、店名は「カトレア」、状況は確実に現実を僕に提示している。それでも僕は、自分の意識をうまくまとめることができないでいた。「ビール好きなの?」「ビールが好きなんだ。」「焼酎は飲まないの、そのほうが安いでしょう?」」「飲むよ、焼酎も。…なんでも。」「でも、ビールが好きなのね?」「そう、ビールが好きなんだ。一杯目は特に。」彼女は、しゃれた細身の、薄くて今にも割れそうなグラスに、きめ細やかな泡のビールを注いでくれた。泡もきめ細やかだし、炭酸も繊細に発泡していた。一口なめてみた、ごくりと喉を押し流したい衝動を抑え、いつもにも似ず、味わってみた。「おいしいね」微笑、「どこの?」「知らない。」「知らない?」「うそ、」微笑「ハイネケン、おいしいでしょう。」

 奈々は決して子供ではなかった。

 そうして僕と奈々は恋に落ちた。


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