結婚
――結婚。
それは、私には難解なものであった。父はいつも家に居ない人であったし、母はいつも私の敵であった。家庭は私を頑丈で忌々しい鎖で縛り付けるようなものだと感じていた。そんなものを持ちたいとは思ったことはないし、これから先もきっとないだろう。
もし結婚するとして、私の子供に生まれてくる子があまりにも可哀そうだ。生きているだけで苦しい世の中に生を受け、おまけに私のような未熟者に教育された人格で人生を歩むなんて、考えるだけで恐ろしい。
結婚に否定的な私が社会人になって最初に付き合った男は、職場の同僚だった。新卒一年目で結婚なんて考えるわけがないだろう、と甘い考えで告白を承諾してしまった。
しかし彼は付き合って半年で「君を幸せにするために転職するから、着いて来てくれないか」と私に言った。
「それってどういうこと?」
私は目を細めて彼を見た。きっと私の態度は彼の予想していた反応とは違ったのだろう。彼は右目の涙袋をぷっくり膨らまし、左の口角を若干下げた。私は耳が悪い代わりに目が良い。表情や雰囲気を見れば相手が何を考えているか、大体分かってしまう。彼の思慮を勘づきながらも私は聞いた。
「僕は君を本気で好きなんだよ」
「それは嬉しいわ。でもそれで転職って、どういうこと?」
「今のままじゃ結婚したら部署を変えられてしまうだろ? そうしたら僕は好きな仕事が出来なくなる。転職してキャリアアップしたらもっといい会社に勤められるし、君は家庭に入れるかもしれないよ?」
結婚、そのフレーズを聞いた瞬間、この恋愛の終わりの音が私の脳内で鳴った。私を理由にして勝手に仕事を変え、それをさも愛情ある行動だと豪語するこの男。気持ちが悪い。
「そんなこと、いつ頼んだ?」
久しぶりの予定のない休日に前触れもなく訪れ、私の家に上がり込み何を話すかと思えば、薄っぺらい言葉と深い不快感を渡しに来たのか? そう言ってやりたい気分だった。
「君は僕と結婚する気はない? 付き合っておきながら?」
「付き合ったから結婚しなきゃいけないの? 結婚の約束なんてしてないわ」
はぁ、とため息をつく彼。その二酸化炭素の分子一つ一つに腹が立つ。
「君がそんな軽い女だったなんて、知らなかったよ」
今すぐ彼の荷物を突き付け、帰れと言ってやりたかった。大した働きもしてない男が転職しキャリアアップだなんて夢を語り、私に家庭に入りボランティア家政婦でもやれというのか。顔を見ることすら気持ち悪くなってきた。
「そうやって自分の思う通りの言葉を言わないと、すぐこっちを悪者扱いするのね」
私は立ち上がり、先ほど彼にしぶしぶ出したお茶を彼の頭に掛けた。彼は驚いて目をも開き、何も言えず固まっている。
「私があなたのプロポーズに泣いて喜ぶとでも? 自分の思い通りに動いてコンパクトに家の中に収納出来る女が欲しいだけでしょ?」
身体の前で腕を組み、私は彼を見下す。彼は私を見上げて未だに何も言えずにいた。
「あんたなんかと結婚もしないし、もう二度と会いたくもない」
彼のカバンを持ち上げ、私はそれを彼に差し出した。
「帰って。私の家に置いてる荷物は、悪いけど全部捨てさせてもらう」
開いた口がふさがらないまま私から荷物を受け取る彼の手は、震えていた。うっすら涙を浮かべる彼の悲し気な表情を見て、後悔と罪悪感が初めて私の心に生まれる。彼が私のことを好いてくれていたことはきっと本当で、それを心地よいと思っていたことは紛れもない事実だった。
けれど私は、四六時中彼に尽くせるほど彼を好きではない。きっと遅かれ早かれきっと私たちの関係は終わっていた。ならば、関係を終わらせるのは早い方が良い。
立ち上がって私を見つめる彼。そんな同情を引くような表情を浮かべても、結婚に異常なほど拒絶反応を示してしまう私は、もう彼を好きではない。
「私は障がい者だから。不景気なんかで真っ先に首を切られるのはきっと私だし。今の会社は頑張って入った会社で、こんなにすぐ辞めちゃえば他の所で正社員で雇ってくれるところはないと思う。あなたが思っているより、私は生きにくいの」
彼は涙を拭い、額に手を置いた。
「ごめん、それは分かっていたつもりだった」
私は首を横に振った。
「分かるわけはないよ。だってあなたは健常者だもん」
「でも僕は」
「帰って」
彼の言葉を遮り私は彼に背を向けた。
「私は結婚しないから。結婚したいなら他の人を探すべきよ。付き合った時間、勿体なかったよね、ごめんね」
彼の手が私の方に伸びている気がした。けれど彼の手の温もりは私の背中に手は届かない。しばらくして、彼が出て行き扉が閉まる音がした。スマホを取り出し、私は彼の連絡先を迷うことなく削除する。普段一緒に撮った写真はすぐに削除していたため、別れた後の作業は普通の人より少なかった。
特に別れた悲しみはなく、この年齢の恋愛の面倒くささだけを実感し、体だけの関係を求める人の気持ちを嫌でも知ってしまった。その後彼は理由を付けて仕事をやめ、転職したらしい。未だに私に未練があると風の噂で聞いたが、私は苦笑いして聞こえないふりをした。
生きるとは、どうしてこんなにも面倒くさいのだろう。恋愛しなければ生きていけないと思い込んでいた私が、結婚という現実が手に届く年齢になり都合の良い関係を求め始める。母の言う「阿婆擦れ女」に、どんどん近づいて行ってしまっているような気がした。
スマホが震え、ディスプレイを見ると私の不幸の源水がお怒りのご様子だった。どんなに遠くに逃げても、結局母親の柵からは逃れられない。母からの電話に喜べるような家庭に生まれたかった、そんな思いも全て封じ込めるように、私はスマホの電話を切ってベッドにねそべり目を閉じた。
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