第235話 獣人の族長
案内された先はグレートウォールの麓だった。
『丁度良かったじゃないか。手間が省けた』
「ああ。そうだな」
再び近くで見上げると、その高さに否応なく圧迫感を受けてしまう。
まるで空に浮かぶ雲と繋がっているかのようだった。
族長の息子に、少しだけ待ってほしいと言って、グレートウォールに近づく。
『フェイト、これはなんだ』
「手形が無数にある……」
真っ白な壁に、無数の赤い手形が押されていた。高さは手の届く範囲で、中には重なり合っているものもある。
そして、すべての手形が左手だった。
これは、何の意味があるのだろうか。グリードと考えていると、後ろから声を掛けられた。
「獣人によるささやかな抵抗じゃ」
振り向くと、年老いた犬獣人の男が立っていた。目は長く伸びた眉毛で、隠れていた。だが、その奥からしっかりと俺を見つめていることがわかる。
「儂は犬族の長を務めておるパースじゃ。聖地から来たる者よ」
曲がった腰を更に丸めて、深々とお辞儀されたので、俺も同じようにしながら自己紹介をする。
「俺はフェイト・バルバトス。それで、この黒剣がグリードです」
『爺さん、よろしくな』
「長生きはするものじゃな。言葉を喋る剣とはな」
眉毛と同じように長く伸ばした髭を擦りながら、面白い物を見るかのようにグリードを観察していた。
『見世物になるのは好かん。それより、ささやかな抵抗とはなんだ?』
「ここにある手形はすべて、グレートウォールを追放された者たちじゃ。魔物に生まれ変わる前に、獣人として生きた証をここに刻んでいく。種族ごとに、こういう場所がいくつもある」
「エルフにとってグレートウォールは神聖な物のように思えましたが?」
「何のことはない。ここへ証を残した者は魔物へなり、種族に対して連帯責任を科したところで、儂らはやめることはない。それに安易に獣人を次から次へと魔物へしてしまえば、エルフの生活がままならなくなる。儂らがエルフの食料を生産しておるだからな」
『エルフは黙認しているわけか』
「そういうことじゃ。儂らはこの手形を見て、同胞たちの無念を思い出すのじゃ。立ち話もなんじゃ、儂の家へ」
パースは足が悪いようで、杖を使ってゆっくりと歩き出した。ここまで案内をしてくれたパースの息子は俺に会釈をすると、来た道を戻っていった。
「息子にも同席してほしかったのじゃが、生憎エルフに課せられた農作業がある。すまんが、ここからは儂が案内するとしよう。さあ、中にお入り」
簡素な木造の家だった。屋根には草が生い茂っていた。
パースが玄関の扉を開けると、多種多様な獣人たちが座り込んでいた。
「これは……」
「驚かせてすまんかったのう。今日は族長たちの寄り合いだったのじゃ。そして、お主の話をしていたら、ちょうど本人が現れたというわけじゃな」
『俺様たちがここへ来る前に、わかっていたような感じだったが?』
「ハハハッ、種族によっては耳がよい者もおる。儂も歳は取ったが耳は良いぞ。ついでに鼻も良い」
パースは自分の耳と鼻を指で指して、笑ってみせた。
その笑いが吸い込まれるかのように、他の族長たちは静まり返っていた。
『歓迎はされてないようだな』
「そんなことはない。皆、緊張しておるのだ。噂の異邦人が突然来訪してくるのじゃからな。さあ、座りなされ」
囲炉裏を囲むように座っている輪に加わった。
パースは俺の左側に腰を下ろす。彼は俺とグリードの紹介を掻い摘んで、他の族長たちに説明した。
それが終わるとすぐに狐獣人が俺に話しかけてきた。やはり緊張しているのだろう。太い尻尾をピンと伸ばして、わずかに震えていた。
「エルフの決闘に勝ったとは本当か?」
「えっ」
いきなり聞かれたので言葉が詰まってしまった。あの決闘の場に、獣人は誰一人としていなかったはずだ。
困った顔をしたパースが話の間に入ってくれた。
「エルフたちが噂しているのを、耳にしたのじゃ。エルフのことで儂らが住まう場所まで漏れ出ることは、初めてのことじゃからな」
『そうか、漏れ出てしまったか! 俺様の勇姿は留まることしらないな』
「お前は黙っていろって。パースさん、エルフの決闘に勝ったことは……本当です」
族長たち一同が、驚きの声を上げる。誰もが精霊を行使するエルフにどうやって勝てたのかと詰め寄ってくるほどだ。
「静まるのだ。客人を困らせるな」
「俺は聞いたぞ。エルフの精霊を奪ったとっ!」
「本当か、そのようなことができるのか!?」
「私は一方的な戦いだったと聞きました。もちろん、あなたがエルフを圧倒していたと」
「なんてことだ!」
「話を聞かぬかっ!! 静まるのだっ!!」
パースが一喝すると、やっと皆が口をつぐんだ。
そして、彼は大きくため息をついた。
「すまんのう。皆、お主をどう扱ってよいのか、わからんのだ」
『無理もないな。エルフにグレートウォールという檻の中で押さえつけられての暮らし。そのエルフに対抗できる者が現れたら、こうもなる』
「俺はエルフと争うつもりはない」
その言葉に、族長たちが落胆の声を漏らした。しばらくの沈黙が続いた。
俺が囲炉裏の火を眺めていると、猫獣人が話し始めた。
「俺の言った通りだ。こいつは、救世主ではない。すでにエルフに飼いならされている」
「レッド、口を慎まぬか!」
「お前だって、先程の言葉を聞いたはずだ、パース。エルフと争わないと言った。俺たちが、気が遠くなるほどの年月の間、エルフに虐げられてきたことも、知らずにだっ!」
察するに族長たちは、ここで集まって俺からの助力を得られるように話し合っていたのだろう。
会ったことも、話したこともない俺を抜きにして、いきなり救世主に祭り上げられても困る。
俺が口を開こうとしたら、グリードに先を越されていた。
『おいおい、それは都合が良すぎるじゃないか? フェイトはお前たちのために、ここに来たわけではない。たまたま、このルイーズ島に流れ着いたに過ぎない。何が救世主だっ! どうせ、お前たちは何もしないのだろう。よそ者の俺様たちに、その責を追わせるのがまかり通っていいはずがない。文句あるやつは表に出ろ。俺様の錆にしてくれる!』
んんん……グリード……言い過ぎだって。
セシリアにエルフと獣人の関係について、良くしたいと持ちかけられていた。
しかし、今の族長たちの様子を見るに、道のりは遠そうだ。グリードの言う通り、獣人たちは何もしないだろう。
共に立ち上がろうという言葉すら出てこないほど、彼らの言葉を使えば、エルフに飼いならされていた。
「この剣はちょっと口が悪いんです。気にしないでください。それよりも、エルフのセシリアが、あなたたちのことを心配しています。彼女に助力を借りることが賢明かと?」
パースたちは、顔を伏せてしまう。セシリアとの関係はあまり良くないのだろうか?
それなら、彼女の望みは根底から覆ることになってしまう。
パースが言いにくそうに口を開く。
「セシリア様は、儂らに良くしてくださる。じゃが……その施しを受けるわけにはいかんのだ」
「何故ですか? セシリアは転生の儀もよく思っていません」
「……兄のゲオルク様じゃ。いつもセシリア様の行動に目を光らせておる。セシリア様は知らないのじゃ。彼女の施しを受けた者が、裏でどのような処罰を受けるのかを」
「そんな……セシリアがやっていることは獣人にとって……」
「セシリア様に近しいお主には言いにくいことじゃが、儂らを苦しめておる」
俺はパースの言葉に頭を抱えてしまった。思っていた以上に、双方の溝は深かった。
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