第20話



 病院の正面玄関から出ると夏の暑さが襲ってくる。入院中はずっと冷房の効いた場所に居たため、モワッとしたこの熱気に身体が慣れない。外に出てほんの僅かだと言うのにもう汗が出てくる。

 結局夏休みの大半が、夏原達と遊ぶ約束を果たせず、ずっと病院のなかで過ごすことになってしまった。それでも、限られた時間のなかお見舞いに来てくれた皆には感謝しきれない。おかげで退屈せずに済んだ。

 夏原にはいつぞやのブサ猫をプレゼントされた。センスはどうかと思うが、触り心地は非常に良かった。つい撫でてしまう。ただ、夜に目を覚ますと、近くにあるその猫にビビって飛び起きてしまい、傷が痛むのが難点だ。その顔どうにかならないのか。不敵な笑みをやめろ。怖いわ。


「いやぁ、ほんと暑いねぇ。熱中症にならないように水分はこまめに取ろうね。」


 冬木がそう言いながら俺の頭に帽子を被せた。ジリジリと焼けるような暑さがほんの気持ち程安らぐ。彼はそのまま俺の手を取るとゆっくりと駐車場へ歩き出す。退院したとは言え、激しい運動は控えるようにと医者から言われている。時間を掛けてたどり着いた車には前座席に冬木の両親が乗っていた。車のドアを開けるとひんやりとした空気が中から漏れてきた。


「迎えに来てくれて、本当にありがとうございます。」


「良いのよ、退院おめでとう。これ、家で作ってきたおにぎり、向こうに着く前に食べちゃいなさい。たぶん、話している間にお昼過ぎちゃうと思うし。藍の分もあるから、それぞれ好きなの選んで食べて。中身は鮭に昆布に梅干し、明太子、ツナマヨね。よく噛んで食べるのよ。」


 もう一度感謝を述べておにぎりの入った袋を受け取る。中からツナマヨを取り出して食べる。やはり彼女の作るご飯はどんなものでも美味しい。今度料理を教えてもらおう。食べながら移り変わっていく窓の外の景色を眺める。

 退院した今日、あの日から一度も会っていない父の元へ行くことになった。父は現在刑務所に居る。あれから裁判が行われ、懲役15年となった。犯してしまった罪を取り消すことはできない。過去は変えられない。それは俺も同じだ。それでも、父も俺も、前へ進まなければいけない。今度こそ"彼の"息子として、向き合うんだ。初めての親孝行がこんな形になるとは。緊張からか、やけに喉が渇く。美智子さんからもらったペットボトルの蓋を開け、水を一気に飲む。冬木が手を重ねてきた。


「大丈夫?」


 いつもは安心させてくれるその言葉が、今日は不安気に問われた。だから、今度は自分が冬木を安心させるように、笑顔で返す。


「うん、大丈夫。ちゃんと話してくる。約束したから。」


 冬木が誰と約束したのかと不思議そうに聞いてくる。あれ、そう言えば、誰と約束したんだっけか。明るくて、暖かい、美しい、何だったか。夢の中で交わしたその約束はしっかりと覚えているのに、声が、姿が、思い出せない。でも何故か不安も怖さもなかった。いつかきっと、思い出せるだろう。

 父が居る刑務所に着くと、受付までは冬木が着いてきてくれた。面会室へ案内される。ここからは一人だ。面会室の扉が開かれると見えてきたのは、アクリル板で仕切られた机とそれぞれの椅子。父はこれから来るそうだ。小さな部屋に足を踏み込み、用意された椅子へ座る。ドキドキとうるさい心臓を深呼吸をすることで落ち着かせる。冷たくなってきた手を擦り合わせる。

 ガチャリと向こう側の扉が開かれる音がして、そこへ顔を向ける。ゆっくりと入ってきたのはあの日から更に痩せた父だ。細くなった腕、隈の出来た目元、伸びた髭、ボサボサの髪、驚くほど変わった父の姿に目を見開くと、向こうも同じ顔をしていた。父の口が動く。かなで、音は聞こえなくても確かに父はそう言った。もう一度呼んでくれた、俺の名前。だから、俺は精一杯の笑顔で返す。



「久しぶり、父さん。」



 なんで、と小さな声が聞こえた。ヨタヨタとおぼつかない足取りで目の前の椅子に座った父の瞳をじっと見つめる。まるで迷子の子供の様に揺れる瞳に、胸の奥が暖かいもので溢れる。


「今日は、父さんに謝りに来たんだ。」


「どうして、お前が謝るんだッ。」


 父の顔がくしゃりと歪む。


「俺、父さんのこと憎んだ。痛いことばっかりして、辛くて。でも、俺が母と別の男との子供で、学校でいじめをして、父さんの地位を汚したから、仕方がないんだって、その罪を、罰を受け止めるしかないんだって。」


「......。」


 父が顔を俯かせた。震えているのが見える。


「でも、違った。痛くて、痛くて辛かったけど、初めに痛いことしたのは、傷つけたのは、俺だった。」


 はっと顔を上げた父は遥か遠い記憶にある、あの日と同じ顔をしている。


「父さん、父さんは俺が自分と血が繋がっていないって知っても、俺のことッ、受け入れようとしてくれたんだよね。俺の、こと...、あ、いしてッくれて...いたんだよねッッ。」


「かなで...ッ。」


 膝の上で握りしめた手に、涙が落ちていく。


「おれ、そんなとうさんの、ことッ...。こわいって、おもってッッ。さしのべてくれた、てを、ふりはらったッ。あいして、くれた、あんたをッ...、きょぜつしたッッ!」


「奏ッッ、奏ッ!」


「ごめんなさぃ、ごめッ、なさい。」


「違う、違うんだ、奏。俺が弱かったから、お前にまた、振り払われるッ、くらいならって。また...、拒絶されるのが怖くて、それで傷付くくらいならって...!、自分の気持ちも、お前のことも、見ないふりをしたッ。いつの間にか、それが憎しみに変わってしまって、最低なことをッッ...。」


 俺は初めから父親失格だったんだ、と涙をぼろぼろ流しながら話す父。彼が父親失格なら、


「俺だって、息子失格だよ。」


 でも、そんなことを言いに来たんじゃない。


「ねえ、父さん。もう一度、名前呼んで。」


「ッッ!!!...、...ぅ...、かな、でッ。かなで、奏ッッ。」


「うんッッ...、父さんッ。」


 こんなに話したのも、顔を合わせたのも、名前を呼んでくれたのも、名前を呼んだのも、随分と久しぶりだ。頬を流れる涙を拭う。


「俺、父さんとやり直したい。」


「ッッ!!!」


「今度は間違えないように、ちゃんと向き合って、愛し合いたいッッ!今度こそ、本当のッッ、家族になりたいッッ!!」


「うぅッッ...!ぃ、ッッ...。いぃ、のか...。もう一度、お前のッ、父親になって...、いいのかッ。」


 透明な、俺たちを隔てる板へ手を伸ばす。父も同じように手を伸ばしてくる。手のひらが板越しに重なりあう。触れていないはずなのに、重なったところが温かく感じる。


「当たり前だよッ。俺の父さんは、あんたしか居ないんだからッ。」


 遠い記憶と変わらない、穏やかな笑顔がそこにある。



 俺たち親子は、今日、新たな一歩を踏み出した。


 愛のある場所へ。




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BL小説『サンストーンへ愛の讃歌を』 @BEBE05

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