第32話 三千院への想い

 三千院はずれ道の喫茶店は、春休み最終日まで賑わっていた。孤独死のばあさんの身元が判り一段落してから夕紀は店を手伝っている。母もいつもより空いた時間をやり繰りして父に会いにやって来る。これには夕紀もお母さんは何を考えているのだろうと思うが、それだけ親の恋は娘でも思いも寄らないものだ。

 朝の開店前に父と共に準備をする。父はまさかあの孤独死のおばあさんの身元がこんなに早く解るとは、流石に夕紀はたいしたもんだと言われたが本当は桜木君のお陰だ。それを遂に言いそびれ、まあいいかと準備に追われている処へ母がやって来た。今日はパートは休みらしいから来るとは思っていたが、まさか開店前に来るかと呆れているが、お父さんは気前よく迎えている。

 そんな母をどうしたと知りたくもないのに、父はいつもの癖のように聴いてしまう。だから母は調子に乗り横暴に構える。いつも最初が肝心だと父には言っているが、そんな父を見ると夕紀も意見が出来そうになかった。

 両親は開店前のカウンターを挟んで向かい合っている。お母さんは座って父の淹れる珈琲を眺める。父はお客さんと同じ要領で蒸らせて淹れている。そこに何の感情移入も見られない。この二人は珈琲が出来上がるまで、時が止まったように表情にも変化がなかった。それが淹れ終わり母の前に湯煙の漂う珈琲を置くと、先ず表情を崩した母が一口飲んで父を褒めた。

 テーブル席を拭いている夕紀にはそれが味なのか接客マナーなのか思案するが、それが父には珈琲の味だと直ぐに見極める処に、夕紀には及ばない微妙な空気の流れを読み取る元夫婦の術を見せられた。

「ところで秀樹はどうしてる」

「見た目は変わらないようだけどもうあたしの手に負えないのよ」

 と言うことは自立したってことか。この十年間に母親が施した教育よりその前のわしの背中が今頃利いてきたかと父はほくそ笑む。

「何が可笑しいのよ」

 と父の勝利宣言に母はちょっと嫌みっぽく遠回しに敗北を認める。

「それで秀樹はどうするつもりだ」

「もう予備校には行かないって宣言して働くそうよ」

 そうなったのはあんたのせいでなくあの婆さんなのよ、と祖母の芳恵をどうやら母は責めているようだ。一通り店内の拭き掃除を終えた夕紀はひとまず二階へ引っ込んだ。

「ここの掃除はあんたが頼んだ訳じゃあないわね」

 と夕紀が引っ込んでから母は確かめる。

「お陰で大学がないときは助かってる」

「でももう春休みも終わるからまた人手が大変じゃないの」

「秀樹はいつから働くんだ」

 そう来たかと父は訊く。

「何処の会社も今は新入社員で一杯だから五月病が出る頃に本格的に就職活動するらしいのよ」

「まあなあ浪人生からのスタートだからそうなるか」

「それまでここで社会人の見習いを遣らせたいけどどうだろう」

「それは本人次第だ」

 其れもそうね、とそれでこの話は尻すぼみになると、今度は自宅にいるあの婆さんの様態を聞いてくる。

「ありがたいことにまだ元気に家の事をやってる」

 残念ながらお前の出番はないらしい、と遠回しに避ける。そう元気なら良いんじゃないの、と嫌みタップリに返された。

「それはそうと先日は島根まで行って閉店間際にここへやって来て慌ただしかったなあ」

「あれね、あれはその後はどうなったか聞いてないかしら?」

 夕紀達はお目当ての滝川さんと会って、どうやら二人は昔に三千院で巡り会ったそうだ。優香は良い出会いだと羨ましそうにしていた。それは幾ら観光客がやって来ても周囲が俗化されてないせいか浮かれた気持ちになりにくい。だから落ち着いて冷静に物事が図れるから恋を語るには持って来いの場所だと言っていた。そう云えば俺達の初デートに似て実に厳粛に立ち回れたと思う。と浩三は夕紀から聴いて多分二人もそんな感じで境内を巡ったのだろうと説明した。

「そやけどその人は失踪して四十年もここに居はったんやけどな、何で失踪したのにこんな近くに住んで居たんやろうな」

「好き嫌いやのおうて矢っ張り心の片隅には残ってたんでしょうね」

「なんやけったいな物言いやなあ好きと嫌い、そんなもん一緒に出来るかッ」

「男の恋は寄り道でも女なの恋はその人に賭ける一生もんですから」

「嘘つけホンなら何で離婚した」

「それは書類上でそれが証拠にしょっちゅうあんたの様子を見に来てるがなあそれに似たもんで滝川さんの相手の道子さんも此処で昔の想い出に浸ってたんでしょう」

「それが島根まで夕紀に付いて行ってお前が感じた事か」

「そゃなあ、道子さんはおそらく滝川さんそのものは嫌いやないんでしょう、そやさかい好きな車と自分とを賭けてしもて負けたんやだから道子さんはそのあとはこの想い出の遺る三千院に四十年もご主人が亡くなってもここに住み続けたんやろうなあ」

 道子さんは山下さんと一緒に最初の十年は市内に居たがここに引っ越した。ご主人の戸籍が戦災で焼失して戦後に本人の申告に基づいて作成されて正確でない。それを知って道子さんもそれほど住民登録には固執しなかったらしい。

「そうなの」

「大家さんが大阪の区役所に問い合わせたがどうも亡くなったご主人の戸籍だが生年月日に問題があるらしい実際の処は分からんと言われたそうな」

 当時は戦後の混乱期を生き抜くためにも子供扱いされれば誰も相手にされない、だから歳を誤魔化したらしい。

「そう言う話をあの夫婦はおそらくしただろうそれで住民登録していない道子さんの過去に付いてもなにも訊ずねなかったらしい」

「じゃあ滝川さんも道子さんもすねに傷有る身なのね」

「その言い方はなんか不謹慎だろう。滝川さんは生活の糧を得るために歳を誤魔化して道子さんは恋の逃避行で所在を誤魔化していた。その二人がこの三千院の片隅でひっそりと生活してたんや」

 そこへ夕紀が突然やって来る。滝川さんが道子さんの遺品を見たいからこっちへ向かってる、と云う知らせが桜木から入った。それで今から迎えに行くらしい。

「だってあの家の鍵はあたしが持ってるからあたしがいなければあの家には入れないのよ」

 と忙しなく響くカウベルの音を残して夕紀は出掛けた。

 カウンター席で寛ぐ二人は、なんかあたし達の話が滝川さんに聞こえたのかしら、と優香は冗談がらみに浩三に話すと、彼もそうかもしれんと笑っている。おそらく夕紀達から創作ノートどころか、めぼしい物はなかった。だから行っても無駄だと知りつつも、矢張り滝川さんにすれば長い空白期間を少しでも埋めれば、との想いから思い立ったのだろうと浩三と優香は思った。


 

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