針の視線
振矢瑠以洲
第1章 1
いつも耳にしている同じ音の響きが、毎日微妙に違って聞こえる。ホームを歩いている夥しい数の人々の足音。足音に混じって聞こえるのは、あちらこちらから聞こえてくる会話。周りの人に聞かれたくないように小さな声で話している二人の会話。周りに聞こえてもいいというよりもむしろ聞いてもらいたいくらいの大きな声で話している三人の会話。夥しい数の組とグループが織りなす会話の音に混じって、ホームのスピーカーからは、いつもとおなじ内容で同じ言い回しのアナウンスが流れてくる。このような雑音のなかで、列車の警笛の忍び寄る稲妻のような響きとともに、鋼の巨体が姿を現してきた。
最後尾に並んでいた清水響子は、開かれた列車の乗降口にのみこまれていく列に磁石のように引き寄せられていった。彼女の数人前までは座れるくらいの混み具合であった。
入社してから一月ほど過ぎたのであるが、一週間ほど前から異様な気配を感じるようになった。それが何であるか響子は検討がつかなかった。新入社員として緊張の連続の毎日のため、そのことについて考えようとする余裕もなかったのかもしれない。彼女はそのことがこの緊張が原因であると思っていたからかもしれない。
その日も響子は異様な気配をやり過ごして、完全に停車した列車の扉が開くのを待っていた。その待っている少しの時間の間も異様な気配は消えることがなかった。列車の乗降口へと吸い寄せられていく流れに乗って、響子はホームの人の流れの中に溶け込むように混じっていった。
改札口を出て駅の南口前の歩道に出た。歩道を歩く人混みの中に混じり10分ほど歩くと、響子が歩いている歩道沿いに巨大なビルが見えてきた。彼女が一月前に入社した会社のビルである。
出勤時間帯の朝、大きく開かれた玄関口は、出社してくる人の群れを次から次へと飲み込んでいる。セキュリティーゲートでICカードを翳す時に鳴る電子音が際限なく鳴り響いている。
響子は入社以来ほぼ間違いなく毎日出社時間30分前にセキュリティーゲートでICカードを翳していた。エレベーターに乗り込み、彼女が配属されている玩具部門のある10階フロアーの商品部のオフィスには20分位前に入る。タイムカードセンサーにICカードを翳して、ロッカールームの自分のロッカーにバッグを置いてから、彼女のデスクのパソコンの電源を入れるのが丁度出勤時間15分程前になる。これが予定通りの彼女の仕事始まりの形態である。
「昨日の研修の報告書出来ましたか?」
商品部情報課課長の山辺幹夫が、パソコンのキーボードを打っている響子に背後から話しかけた。
「ええ今、課長のメールアドレスに添付して送ったところです」
マウスをクリックしながら響子が答えた。
「研修はどうでした?」
「とても勉強になりました。ワードとエクセルだけでは十分ではないんですね」
「事務の仕事ならばワードとエクセルができれば十分ですが、情報課での仕事になった場合不十分どころの問題ではなくなります。商品部の情報課はホームページに関連した業務内容が多いですから、宣伝部の情報課と一体の業務が多くなります」
「宣伝部の情報課に配属される人はコンピューターの専門家ばかりだということは聞いていますけど」
「そう宣伝部の情報課は技術面を商品部の情報課はデータ面ということでこれまでやってきたのですが、この形態を変更しなくてはならない事態になってきたのです」
「変更するとはどのように変更するのですか。なぜ変更の必要が出てきたのですか」
「新入社員向けのオリエンテーションの中で既に説明していることですが、玩具部門のホームページはほぼ100パーセント外注です。外注先のIT企業が満足できるものを提供してくれたのでいままで続いていたわけです。でもこのIT企業が我社のライバル企業の傘下に入ることが先日発表されたのです。分かりますよね。これがどういうことであるか」
「契約書を交わしているだけではだめなのですか」
「契約書通りにデータの保守が出来なかったときのIT企業の損傷は致命的なものになるので、機密情報の漏洩の心配はないとおもいます。でも技術的な部分での心配は払拭することはまずむりでしょう。プログラムに関してはプログラーマーに依存しているブラックボックスの面がありますからね。悪意のあるプログラマーがいた場合致命的なことになりますね」
「それでは玩具部門のホームページを一から作ることになるのですか」
「いや現在アップされているホームページは素晴らしいものだし、かなり経費をかけたものなので破棄するのは勿体無い。このホームページをこれからも続けて使っていきたい。これから必要なことはこのホームページの中身を理解して維持管理していけるようになること。さらにこれからはホームページの変更も独自にできるようになることです。それで今日は早速ですが、宣伝部情報課と商品部情報課の合同の会議になりますのでよろしくおねがいしますね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます