神の子

@lostinthought

第1話

あの日私が出会ったのは、私の捕った一匹のティラピアをねだる貧しい男だった。

私は15の時に病に罹り、それ以来何も見えなくなった。ただ、うっすらと光を感じることが出来るだけだ。若くして死んでしまった二つの目に白く霞む、温かな光を。

あの日の朝も私は、ゲネサレトを東から順番に静かに目覚めさせる三月の朝日を、目ではなく、この肌に射す暖かさで感じたことを覚えている。

私は目が見えなくなってからも、父も他の兄弟もおらぬために、老いた母を養うため13年間毎日漁に出続けた。

私はこの家のどこに何があるか完全に把握していたので、毎朝自分で甕から鍋に水を汲んで湯を沸かした。その湯で顔を洗って、あまった湯を飲み、網を肩にかけて家を出る一連の支度に手間取ることはなかった。

目が見えなくて困るのは普段と異なる日ぐらいのものだ。この温かなゲネサレトにも何年かに一度はまれに雪が積もった。雪が降るだけなら困らぬが、地面が凍ったりすると滑るので、慎重に慎重を重ねる必要が一日中、私に変な緊張を強いた。そういう時は、つい、目の見える者を羨ましく思ってしまう。

もっとも、そういう日は母のほうが先に起きていて、必ずや私の腕を引きながら「今日は仕事を休め」とせがんでくるのが常だ。その老いた体のどこにそんな力があるのか不思議なほどの膂力で二の腕を押さえられるのだから、私のほうが根負けしたことは一度や二度ではない。

もし何とか母の腕を振り切ったとしても、その先には凍った地面と、氷の張ったガリラヤ湖が待ち構えていて、とうとう諦めざるを得ないのが目に見えているのだから、是が非でも漁に出ようとするのは私の見栄でしかない。きっと母もそれを分かって引き止めてくれるのだろう。

目が見えなくなってから私は、自分が目の見える男たちの壮健さと比べられることより、老いてもなお優しいこの母を盲目の私ひとりで支える苦労を哀れまれる方が、ずっと辛かった。

私はだから、他の男たちと同じように毎日夕暮れまで働き、毎年の過ぎ越しの祭りにも参加した。私の負う心身の労苦は他の男たちと何ら変わらぬことを村中の者達に見せてやりたかったのだ。

そうして盲目の年月が過ぎるうちに、いつの間にか村の皆が「シモンは目ではなく耳で物を見ているらしい」と噂していることを小耳に挟んだ時には、何か自分が世の中に勝ったような気がした。しばらくして結婚の話も来た。若い、良い雰囲気を感じさせる娘だった。だが丁寧に断った。この家で母をひとりにするのが心配だったからだ。

「耳のシモンは神にそう命じられたのです」

こう思い付きを言っても彼女の両親は目の見えぬ独身男の私を非難しなかったし、それどころか過越の日の子羊を思い出させる、畏怖と緊張で震えた声で詫びを言ってそそくさと引き下がった。

そのでまかせが村の雰囲気に作用したのか、私が一人で歩いていると村の皆が必ず挨拶をくれ、子供たちなどは市の日の買い出しの時には重い荷物をすすんで持ってくれた。嘘をつくことに悪い気がしないはずはない。

だが、私を通して私の母が尊敬されているのは誇らしかった。もっとも母は私のついた嘘を知ったようで、一度、

「シモン、もっとあなたの神を畏れなさい」と子の悪行を責める母親の口調で告げたことがある。

私は神を畏れない不届き者ではない。けれど、私を病にし、ローマ人どもに好き放題させている神を特別敬う気持ちも湧かなかった。神とは、パリサイ派やサドカイ派のことを言うのだ。

いまこの国に神は居られない。きっとどこか余所の国で自由を満喫したり、放浪者に甘いマナをくれたり、新たな預言者と内緒話をしたりしているのだ。だが、それは私ではない。私の耳はふつうの人々と実際は同じだ。

世の中にはしかし、妙な人間もいる。

この村からそう遠くないナザレという貧しい村の、ある若い男の噂を聞いた。その男は着の身着のままでガリラヤ湖の村々を徒歩でまわり、自分が聞いたという神の言葉を触れ回っているらしい。

しかも、奇跡を起こすそうだ。男の村では死者が生き返って、今も毎日働き、普通に暮らしているという。もちろん目も見えているそうだ。

もっとも、人の噂のいい加減さを知っている私は、漁師仲間の他の男たちの話を本気にはしなかった。イザヤという今年45になる漁師の男は、頼めばその男の力でもう一人くらい息子を授かれないかと真剣に言い、他の者たちに大笑いされている間にティラピアを一匹逃がしてしまった。

目の見える彼が馬鹿話に夢中でせっかく捕った魚を逃がし、目の十分に見えぬ私が結局彼より多くの魚を揚げたのは皮肉だ。私はだから、仕事は本人の真面目さが最もよく反映されるという昔からの教えのほうこそ、変な男の怪しい説教よりも信ずるべき言葉だと彼らに言った。

他の漁師たちは不意に笑い声を殺し、あからさまに私の様子を探るような不安そうな雰囲気のあと、

「神は、あなたには何と言った」という意味のことをおずおずと聞いてきた。時々彼らが私に何か聞きたそうにしていることは知っていた。けれど、彼らの本当に期待しているのは子沢山の秘訣などではなく、いつ神の正義がローマ人を打ち負かしてくれるかという政治的なことだ。

神のことはパリサイ派とサドカイ派に、ローマ人のことはローマ人に聞くしかない。盲目の貧しい漁師シモンに言える確実なことなどあるはず無かった。

「働きなさい。父と母を大切にしなさい。働くことを嫌うローマ人は遠からず自ら滅びる」

私に言えるのはそれだけだ。この言葉は私の考えたものではなく、ローマを憎む村の長老たちが絶えず口にしている格言だった。だが私も真実だと思う。老人たちの言うことは、シナゴーグの神のお告げよりもずっと当たるのだ。

ティラピアを入れた袋を担ぐ男たちも、疑問がすっきりしたわけではなさそうだが、それでもまあ納得したらしい顔付きで三々五々帰途に着いた。

真面目に働く自分たちと、我々から税と称して様々なものを奪う強欲なローマ。貧しい男たちの自尊心を満足させられるのは、今どきどこにでもいる預言者を名乗る男の怪しい奇跡ではなく、人の心の傷つきやすさをよく知る老人たちの言葉のほうなのだ。

ローマはしかしその年も倒れることはなかった。税の徴収は増して厳しくなった。その年の冬がまれに見る不漁と共に終わり、新しい春の暖かさがゲネサレトのガリラヤ湖の貧しい村々に豊漁を期待させていた頃。私は彼と出会った。

税の額が上がったことと不漁のために、元から貧しい私の家では、母は老いて手足が悪いにも関わらず若い頃にとった杵柄で機織りの仕事を貰ってきて、朝晩となく働きはじめた。

私はガリラヤ湖の村中が不漁とはいえ、年取った母にそのような労苦をさせていることが我慢できなかった。だから、少しでも水揚げを増やそうと、まだ夜暗いうちから湖に向かい、打ち寄せる波の音と泥濘を慎重に歩く自分の足音とを頼りに、水に落ちないよう歩いた。歩きながらここだと思う場所に餌を撒くのだ。

うまく水面に撒けると夜明け前の湖畔にポチャポチャと水が跳ねる微かな音がする。狙いが外れるとトプトプと泥濘に捕まった音がする。この暗闇では目明きも盲目も同じことだ。光は何も無い。ティラピアの捨てる部分で作った餌でティラピアを少しでも多く獲る作戦だった。

そうして漁の準備を終え、はじめの網を投げ込んだとほとんど同時に、東の地平線に朝日が昇るのがわかった。まだ底冷えのする夜のゲネサレトを、暖かな春の夜明けが抱擁し始める。優しい朝の光が盲目の私にもぼんやりとだが、目よりも肌で、温度が上昇することで動きはじめた大気の音で、その温度を感じさせてくれる。私はつい手を止め東の空に向かって「神よ、今年こそは」と村の豊漁を願っていた。

私たちにとって神は、罪人を滅ぼす雷でも、パリサイ派のことでもサドカイ派のことでもなく、ただ、私たちを餓えから救い、適切な税を課し、老いた父や母を息子に養わせてくれる、母のような慈愛に満ちた存在のことだ。

決してローマに対する反乱の指導者や、怪しい預言で人の心を惑わす男のことではない。寒い雪の日に仕事に出ようとする私の腕を引く母の手より神的なものを、私は人生で感じたことがなかった。

「違う」と私は思った。

この光は夜明けの明るさではない。

そう気付いた瞬間、自分が何を前にしているかわからない恐怖に襲われた。

盲目の目に、光をまとった何者かがガリラヤの湖畔を私の方に近づいて来ていることだけが、はっきりと分かる。恐怖で体が動かなかった。人ではない。直感的にそう思った。

光が私の目の前で止まる。盲目の目に、子供の頃父の注意を無視して直視し目を痛めた、あの日の太陽のようだった。

「あなたは漁師ですか?」

そう光が言った。私に聞いているらしかった。声は、若い男のものだった。

はい、と恐る恐る私が答えると、声は、

「私はナザレ村のイエスというものです。あなたの捕ったティラピアを一匹貰えませんか?」

と重ねて聞いた。

この時ようやく私は、彼があの、死者を蘇らせたと噂されるナザレの預言者だと気付いた。不思議な光に包まれた、この目の前の男があの・・・・・・。

ひょっとしたら彼は本当に神の声を聞くことのできる預言者なのではないか。咄嗟に私はそう考えていた。

「あの・・・・・・」

光に向かって私は懇願する声を出していた。そして自分でも思ってもみなかった言葉が口をついてでた。

「ティラピアを差し上げる代わりに、私の、この目を治して貰えませんか?」

気配で目の前の男が少し驚いたのが分かった。

「盲目、なのですか?」

「はい」

「普通に、なりたいのですか?」

「そうです」

普通、という言葉が私を強く打った。もっとも私が嫌いな言葉のはずだった。だがその言葉が私の心をいつも掻き乱したのだ。

「私も他の男たちと同じ権利で堂々と生きたいのです、つまらない嘘をつきたく無いのです」

私はほとんど泣き出さんばかりだった。口をついて出た言葉が私の内を破り、私の中でずっと抑え込まれていたものを、堪らず溢れさせた。

今までこんなに苦しんでいたのかと自分でも衝撃的だった。違う。私はただ、盲目の苦しみを認めたくなかったのだ。それが彼のせいで溢れ返って止まらなくなっていた。ひょっとしたら私は泣いていたかもしれない。

男の温かな手が私の右目の瞼にそっと触れる。白い光が、盲目の目を通して体に染み通るようだった。

男は静かにその手を離した。

「申し訳ないですが、私には治せません」

「え?」

目の前の男が、気まずそうにしているのがその気配でわかった。男の纏う光は相変わらず眩しく、目も焼けんばかりに輝き続けている。

私はしばらく呆然と立ち竦んでいた。

「噂は・・・・・・ただの噂ですから」

男は弁解する口調で言った。それから、

「あの、ティラピアを一匹・・・・・・」

そう重ねる男に私は、凄まじい悔しさと恥ずかしさで血が昇った頭で叫んだ。

「勝手に持っていけ!」

ティラピアを投げつけると男は急いでそれを拾い、小さく礼を言って小走りに引き返した。湖畔の泥濘に何度も足を取られる男のおぼつかない足取りは、その光の動きで手に取るように分かった。

男の居場所を知らせる光が丘を登って完全に消えるのを待って、私はその場に膝をつき、嗚咽した。

なぜあの男にあんなことを言ってしまったのだろう。頭に昇って沸騰した血が冷めてくると、体の奥が、どこまでも凍えるように寒くガタガタと震えた。私は自分の震える肩を抱きながら、生まれてはじめて、こんな惨めな私を産んだ母と、母に私を授けた神を呪った。なぜお前は私の目を奪ったのか。

あのようなみすぼらしい男になど出会わなければよかったと思う私を、ゲネサレトを目覚めさせる静かな三月の朝日が照らし始めた。


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