【百合】ふたりのひめごと

日向にこ

第一章 黒崎陽芽莉と白雪ことり

黒崎陽芽莉と白雪ことり①

 春は好きだ。捻くれたところのある私でも、何となくテンションが上がって自然と胸が高鳴る。

 思えば中学時代も高校時代も、春くらいに新しいことを始めては夏を前に飽き出して秋にはやらなくなり、冬になる頃にはその存在すら忘れているみたいなことが毎年のようにあった気がする。春は出会いの季節で冬は別れの季節なんて言葉をどこかで聞いた気がするけど、私の心の中にも日本人よろしくきちんと四季が訪れるみたいだ。

 ……単に飽き性なだけか。

 ともあれ、外出する時はいつもイヤホンで塞いでいる耳も、こういう時くらいは春を感じるのに使っても良いかもしれない。そう思っていつも右肩にかけているトートバッグから濡羽色のキャリングケースを取り出し、イヤホンをしまう。

 そうして止めどなく流れ込んできた朝の喧騒は、心なしか明るさを帯びているような気がして普段ほど鬱陶しく感じない。

 空を仰げば雲一つない晴天。麗かな日差しに照らされて、木々や小鳥もまた春の訪れを祝福しているように見える。それを見た私の足取りも軽くなる。

 けど、目線を下ろして飛び込んできた少女の姿に、私の心が抗いようもなく惹きつけられて身体が硬直する。風で揺れる木々や羽ばたく小鳥、周囲の喧騒までもが、時とともに静止したかのような錯覚に陥った。

 女性的な魅力が漂う身体から健康的に伸びる長い手脚。太陽の光を反射して靡く銀色の長髪。肌は乳白色のセーターに負けず劣らず透き通っていて、その——



 けたたましいアラームの音で目が覚める。目覚めが悪いから買った『緊急事態』という着信音で、唸るサイレンやジリリと喚く黒電話、爆発音とともに何かが盛大に割れる音なんかがごちゃ混ぜになっている。買ったばかりの時こそ何事かと飛び起きていたけど、慣れとは怖いもので今となっては無感情にアラームを解除する有り様だ。

「またか……」

 頭の中に夢の残滓を感じながら、すっかりはぐれた掛け布団を整える。

 時刻は午前八時を少し回ったところ。今日は大学の講義が二限からで、比較的時間にゆとりがある。

 カーテンを開くと、やや遅い目覚めを咎めるような日差しに目が眩んだ。春とはいえまだ肌寒く、フローリングが素足の熱を容赦なく奪っていくのを感じて身震いしながら洗面所へ向かう。

 顔を洗いつつ、さっきまで見ていた夢を思い出す。大学二年になって現状唯一の友達である彼女——白雪ことりとの邂逅を夢に見るのはもう何度目だろう。右手で足りるくらいまでは覚えていたけど、利き手である左手に差し掛かったあたりからはもう覚えていない。

 地方から上京して間もなかったあの日。彼女が私の幼少期のあれやこれやを言い当てたものだから、その人間離れした美貌も相まって超能力者か何かかと疑った。けどもちろんそんなことはなくて、単に私とことりが同じ幼稚園だったから知っていたというだけのこと。一緒の幼稚園だった子に黒崎陽芽莉ちゃんがいて、同じ心理学専攻の名簿にその名前を見つけたからもしかしてと思って声をかけたのだとか。

 なぜ地方育ちの私が関東出身のことりと同じ幼稚園だったかというと、単純に当時黒崎家がアパート暮らしだったからだ。私が年中組の頃までは、ことりが今も暮らしている実家の近くに住んでいたけど、母方の祖父母がいる地方に家を建ててからはそちらへ移り住んだ。だから、入学当初の心境としては上京というよりどちらかというと帰郷したような気分だった。

 とはいえ、白雪ことりという名前にはうっすら聞き覚えがあったけど、話した覚えすらなかったから再会としては微妙なものになってしまった。それなのに今なお親しい間柄なのは、何というか、ことりが私の性格に上手いことハマったからなのだと思う。ことりは容姿こそどこかのお嬢様然としていたけど、話してみるとかなり砕けた感じで親しみやすかった。それでいて世間に対してはどこかシニカルなところがあったりして、そこが捻くれ者の私としては好印象だったのだ。

 洗顔しても流し切れなかった気怠さを抱えたまま、生活感のないモノクロームな部屋に戻る。化粧品が整然と並ぶドレッサーと向き合うと、身体が勝手にヘアアイロンのプラグを挿した。

 ヘアアイロンが熱くなるのを待つ間、ことりに『今日は十時着の電車で』とメッセージを送ると、すぐに『りょかーい』と返事が来た。出会ったばかりの頃、親しい人にはすぐメッセージを返すと言っていたのを思い出して、鏡に目尻の下がった猫目が映った。

 ヘアアイロンのランプが赤から緑に変わったのを確認して、ことりとは対照的な黒いボブヘアーに外ハネを作っていく。

 髪型やファッションは、同年代の子たちに比べてあまり拘らない方だと思う。けど、捻くれ者だから大学デビューで髪を染める人種を見下していたりはする。ことりはずっとアッシュグレーに染めているけど、そこにはちゃんと美学みたいなものが感じられるから例外。

 ただ、夢の件と言い、最近の私はことりを特別視し過ぎている節があるなぁとこの頃よく考える。もちろん友達と呼べるような相手がことりだけだというのもあるのだろうけど、どうにもそれだけではなく。

 鏡の中で顔を赤らめている私に問いかける。

「……恋?」

 いやいやいや、いや。確かに、ことりは天使みたいに可愛いし、それでいて小悪魔みたいなところもあってギャップ萌えだし、スキンシップはしたいなぁとか思ったりするし。なんならそれ以上のこととかもちょっと考えたり。……いや、それ以上って? というか考えちゃうのか。まずくないか、それ。

「熱っ」

 動揺していたら手元が狂って、ヘアアイロンの側面がうなじに当たってしまった。

 色々な意味でそれ以上火傷してしまわないよう、何も考えずに髪型をセットして手早く化粧を済ませた。

 色めいた思考を置き去りにして外に出ると、私の怠惰を咎めた太陽はまばらな雲のどこかに身を隠していた。余計な世話は焼くくせに、肝心な時に姿を見せてくれないのが歯痒い。

 イヤホンで耳を塞ぎ、適当にアニソンを流す。曲のテンポと噛み合わずにノイズとなった足音を引きずりながら、車通りの少ない一本道を歩いていく。

 途中必要なのかどうか怪しい信号に引っかかり、手持ち無沙汰になってスマホを確認する。ことりから『一番前の車両に乗っといて!』とメッセージが来ていたから、親指を上に突き立てているスタンプを返した。

 ラッシュという言葉すら知らなそうな寂れた地上駅に着くと、ホームには既に古めかしい電車が待っていた。急かされた気になって少し早足で先頭の車両に乗り込み、ドア付近にある座席に腰掛ける。

 大学の最寄り駅までは、家賃の安さだけで下宿を選んだから電車で二十分以上かかる。対してことりが暮らしている実家から大学までは二駅。頑張れば自転車で通える距離だけど、坂道が多いとかでことりもずっと電車通学だ。

 何となく邪魔になってきたイヤホンをしまってスマホを取り出し、退屈凌ぎにニュースを確認していく。政治、経済、科学、芸能、スポーツ等々、一通り。長い通学時間によって自然と身についた習慣の一つだった。

 けど、いつものことながらすぐに文字を追うだけになってしまう。磁力の弱い磁石みたいに、少しくっついたかと思うと途端に落ちて、拾い上げるのも虚しい。

 そんな具合に、社会の色々なことに興味を持てないのが私のちょっとしたコンプレックスだ。そしてそれを目の当たりにする度に、社会から爪弾きされたような気がして少し憂鬱になる。だから一人の時間の過ごし方は現実逃避がてらぼーっとしているだけで時間が潰せるアニメ鑑賞に偏って、それが唯一趣味と呼べるものかもしれない。

 とはいえ、電車の中でアニメを観るのは抵抗があるから、ぼんやりと窓の外を眺めて眠気が来るのを待つ。悲しいことにここまでがいつもの習慣だった。

 私の進む先を見上げると、晴れのような曇りのような、どっちつかずの空が待っていた。青空と雲とが天気を譲り合っているような、そんな逃げ腰の空。

 視線を下ろすと、古めかしくも厳かで鉛色の家と、モダンで可愛らしいクリーム色の家が隣り合って並んでいた。入学当初は対照的で面白いと感じていたけど、今はもう見慣れた住宅街の一部でしかない。

 電車はガタンゴトンと一定のリズムを刻みながら、敷かれたレールの上を走っている。誰が敷いたのかなんて知ろうともせず、常識に満ち満ちた世界を飽きもせず無感情に。

 トンネルに差し掛かると、車窓には流れていた景色の代わりに私が映った。目標も変化もない怠惰で退屈な流れに、他の誰でもない私が流されていた。

 目を逸らす。

 固く目を閉じる。

 暗闇が視界を覆った。

 意識が飲み込まれていく。

 どれくらい経ったのだろう。

 またあの夢を見ていた気がする。

 私を呼ぶ声が聞こえてくる。

 夢の続きがある気がした。

「陽芽莉、おはよ」

 子どもをあやす母親のようにゆったりとした、暖かくて安心感を与える声。

 微睡で霞がかった意識が、ゆっくりとそちらへ向かっていく。太陽を目指して伸びる草木のように、ごく自然に。

 光明が世界に広がる。

 ——輪郭は人形のように精巧な曲線を描いている。すらりとした鼻は行儀良くその存在を主張するけど、ほんのりと実った唇がそれを制する。二重の綺麗な瞼を押し上げる大きな瞳は、高級なガラス玉を思わせた。

 私を優しく見守るように柔和な微笑みを湛えて、ことりが立っていた。

 いつの間にか差していた陽光が心地よい。

「おはよう、ことり」

 うじうじした雲を蹴散らした太陽を見上げながら、私は改めて春の訪れを感じた。

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