境遇

 しばしの沈黙の後、ようやくぽつぽつと会話が繋がり始める。彼女が歌っていたのは近頃の流行りの歌らしい。どおりで聞き覚えがないわけだと言うと、彼女は目を丸くする。


「え、ひとつも知らなかったの? どれも有名だと思うけど」


「ここに来て結構経つんだ。それに、来る前は勉強と……まあ、習い事漬けで、テレビとかネットとか全然で」


「そっか、大事にされてたんだね」


「……いや、だったらここには来てないだろ。親に全部決められて自由も何もなかった。思うようにいかなかったから捨てられた。命のない着せ替え人形と同じだ」


 何気ない一言が傷口を刺し、つい語気が強くなった。


 皮肉なことに、ぼくはここに来てやっと自由を手に入れたと思っている。理想の子供が欲しかっただけの両親に散々振り回されて、最後には次の子を作ってやり直すから、お前はもういらないと手放されたのだ。


 とはいえ、ここにきた当時には両親ともに四十をゆうに過ぎていたのに、そう簡単に次の子を授かれるのかという気もする。だいいち、ぼくはずっと一人っ子だった。あえて作らなかったのか、できなかったのかは知らないが。


 どうかこれからは何もかも思い通りになんかいきませんように。そして不幸のどん底を味わって欲しい。眠る前にはひたすらそんなことを願って生きていた。人を呪わば穴二つとはいうけれど、これまでの仕打ちを思えばこのくらいは許してほしいと思う。


「っ、ごめんなさい」


「……ごめん。言い方がきつかった。いいよ。お互い様だから」


 我に返った。お互い様だなんて言ったからだろう。彼女もこわごわといった様子で身の上を話し始めた。


 彼女は六人きょうだいの一番上だという。父親がろくでなしで、彼女の欠けた歯も父親の暴力によるものだということをぽつぽつと話し始めた。隙を見て母親ときょうだい共に逃げたけれど、女手ひとつでとなると色々と無理があったと。歯を治せなかったのも、薬を買えなかったのもきっとそのせいなのだろう。


「本当はね、病気を治して歌手になりたかったんだ。いっぱい歌ってお金を稼いで、それで親孝行したいとか、そんなこと考えてた」


「でも結局、ここに連れてこられたってわけか」


「ううん。みんなのためにはこっちの方が確実だって思って、全部自分で決めて来た。弟や妹たちには夢を叶えてほしいし、苦労ばっかりしたお母さんが、これからは幸せに生きてくれたらって」


 彼女は笑っているが、ぼくは衝撃で何も言えないどころか、息をするのも忘れそうになった。まさか自分の意思でここに来たなんて。それも家族の幸せを祈るがゆえに。


「……優しいんだな」


 ようやくそれだけを絞り出すと、勝手に涙がこぼれ落ちた。なぜかそれ以上の言葉が出てこないのだ。


「ありがとう……君も優しいね。割り切ってたつもりでも、死ぬのを待つだけって辛いから、眠らせてもらおうかなと思ってたんだけど、やめてよかった。これからよろしくね」


「ああ、こっちこそ、よろしく」


 どきりとした。彼女の声がぼくの胸の奥深く、柔らかい部分に触れた気がした。

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