第45話 柳の下
稲穂の黄金(こがね)色を思わせて、川の水面は夕日に輝いていた。吹き渡る風は、少しずつ冷たさを増している。
そのほとりに彩穂(あやほ)はしゃがみこんでいた。寄り添うように座る彦助(ひこすけ)のぬくもりが、粗末な着物の布越しに右肩を温めている。
二人の前には、一匹の鈴虫。かすかに震える羽を、揺れるヒゲの先を、二人はただ見つめていた。ざあざあという川の流れにも負けない、澄んだ鈴虫の鳴き声。
「彦助!」
怒りをふくんだ大きな声に、彩穂は弾かれたように顔を上げた。
彦助の母親、タエが眉を吊り上げ、足音荒くやってくる。
「こんな所でサボッていたのかい。ほら、早くおいで」
有無を言わせずタエは彦助の腕をつかんで立たせる。そしてそのまま彼を引きずるようにして歩き始めた。
「まったく、何度言ったらわかるんだい。彩穂と遊んじゃいけないって!」
本人がいるのに気にせず、タエは我が子を怒鳴りつける。
「憑き物筋の娘だよ! なにされるか分かったもんじゃない!」
手荒く引っ張られながらも、彦助は振り返った。
ごめんね。その表情はそう言っていた。
(どうしてだろう? どうしてみんな私の事が嫌いなの? 私、なにか悪いことしたかな?)
胸の中を悲しさと不思議さが渦を巻く。
タエの声はまだ続いている。
「彩穂も、もう少しわきまえてもいいと思うけどねえ。それにあの気味悪いほど綺麗な黒髪……歳ごろになったら男を騙す毒婦になるよ」
その時の彩穂には、どくふ、というのが何なのかは分からなかったけれど、いい意味でないことは察しがついた。
だから、髪を褒められたところで嬉しくもなんともなかった。
ゆっくりと彩穂は目を覚まし、体を起こした。
(昔の夢……なんで今ごろ見たのだろう)
夢と違い、現実の彩穂は十六歳の乙女となっていた。十人並みの顔ではあったが、俗世を透かして別の世を見ているような澄んだ目と、虹の光沢を隠した黒く長い髪の美しさだけはまれだった。
かといってもらってくれる男もなく、育ててくれた母も今はない。
壁を作る板の隙間から、冷たい風とぼんやりと弱々しい朝日が射しこんでくる。小さな水がめも、タンスも必要最低限しかない家具はどれも質素な物だ。
(どうも、今日は天気が崩れそうだ……)
夜着を脱ぎ、彩穂は外へ出た。
ススキが彩穂が住む小屋を取り囲んでいる。そして、小屋の傍らには小さな畑。彩穂の住む小さな世界は、彦助が住んでいる山の中腹の村の、そこからさらに少し登った所にあった。
戸の開く音に驚き、スズメが鳴きながら飛んでいった。自然とその方向へ目をやる。
(確か、母さんの故郷はあっちにあるんだわ)
いつもはこんなこと、考えもしないのに。やっぱりさっきの夢のせいだった。
彩穂の母、篠(しの)は遠い土地からこの近くへ来て、父、利八(りはち)と出会い、この村で暮らす事になったという。
それから父は、運に恵まれる様になった。他の村人の畑が獣に荒らされても、父の畑だけは免れる、といった事が続いた。おかげで、金持ちというにはほど遠いけれど、それでも貧しい村の中で必要な物は買えるだけの余裕が生まれたという。
しかし、そのようなことが続けば村人の嫉妬をかうのは必定。
そして、決定的な事が起きた。父といさかいを起こした男が、次の日毒蛇に噛まれ、命を落としたのだ。
『利八が急にツキ出したのは、あの女と一緒になっているからだ』
『あの女は憑き物筋だ』
誰かがそう言い出すのに時間はかからなかったという。
『狗(いぬ)だか狐だかを使い、他の畑を荒らし、気に入らない者を殺したんだ』
彩穂が産まれてから、父は病で死んだというが、その時ですら村人は『男に飽きた篠が殺したのだ』と無慈悲な噂を口にした。
彩穂の物心がつく前には、母子二人は村から離れ、新しい畑を作らなければならなくなった。
彩穂の家から見下ろすと、山肌に広がる紅葉がわずかに開けている場所がある。そこが麓の村がある場所だ。そこに見える、柳の緑。あの柳の根元に彦助の家がある。
今ごろ彼は何をしているのだろう?
「おはよう」
まるでその疑問に答えるように、細い道をたどって現れたのは彦助だった。
(浮かべた笑みがはしたなく見えなければいいけれど)
「珍しいね、こんな朝早くにここへ来るなんて」
彩穂の問いには答えずに、彦助は「これ」と持っていたビクを突き出した。
「あ、ありがとう」
彩穂は慌てて家からザルを持って来た。
彦助がビクをザルの上で傾ける。川魚が銀色の鱗を光らせてザルに乗った。
「これから寒くなる。気をつけろな」
彩穂にまとわりつく噂にもかかわらず、彦助は昔と同じように接してくれた。もっとも、成長するにしたがって体が大きくなり、無口になったけれど。
それだけではなく、事あるごとに彩穂の事をかばってくれた。露骨に陰口を叩く女たちも、彦助ににらみつけられた時は口をつぐんだ。
彩穂を夜襲おうと村の男達がたてた企てをふせいで、「大丈夫か」と笑ってくれたこともあった。
そんなことをしたら彦助が嫌がらせをされてもおかしくないが、そうならなかったのは彦助の人徳だろう。
「うん。あ、ありがとう」
そこで、彦助は溜息をついた。
「どうかしたの?」
彦助が溜息をつくなんて珍しい。
「ああ、いや……少し……」
少し口ごもったけれど、結局彦助は続けた。
「母親の具合が悪くてな。薬を買えればいいのだけれど」
ぶっきらぼうにそう言った。
詳しく聞いてみると、最近タエが病になったのだという。咳が止まらず、ひどい熱が出る。薬を飲ませてやりたいが、金がないと。
「おふくろももう歳だし、心配だ……」
そういうと、彦助は村へと戻る道を引き返していった。
ほとんど自給自足の生活をしている彩穂だが、着物や器など、どうしても必要だが自分では賄いきれない物がある。そんな時は、村からさらに下にある町へ買い物に行っていた。
彦助の話を聞いたあと、彩穂はその町へ続く道をたどっていた。
彼が、自分に弱音を吐くのは滅多にない。彦助の母のことははっきり言って好きではない。
でも、母親が助かったら彦助はきっととても喜ぶだろう。彦助には世話になりっぱなしだ。なんとかして恩返ししたい。助けてあげたかった。
話を聞いたあと、彩穂は町の通りに立っていた。
町といっても、小さい物だ。狭い通りに雑貨屋や宿屋がいくつかあるだけの小さい物だ。家の屋根には、板が飛ばないように石がいくつも乗せられていた。
風が吹くたび、道の砂ぼこりが巻き上がる。道を歩く旅人と、何人かの町の人が袖で顔を覆う。
彩穂は雑貨屋ののれんをくぐった。
「あの……」
奥に座っていた若い女店主は、じろりと視線を向けてきた。
手ぬぐいを巻いて、彩穂は頭を隠していた。ぎゅっと押えた懐にいれた銭が、熱く感じる。
短く切った髪は風に触れるとうすら寒い。自分では分からないが、自分の髪は美しいらしい。思いがけなく、いい値段で買い取ってもらえた。
足早に山道を登る。
麓の開けた場所に、小さな家が並んでいる。いつもは遠くに見える柳が風に葉を揺らしていた。
肥料の臭いがかすかに漂ってきた。広がる田畑で村人達が思い思いの仕事をしている。彩穂に気づくと、皆露骨に顔をそむけた。
いつもなら傷ついたかも知れない。だが今は気にならなかった。
畑のすみに、彦助の姿を見つける。
「彦助!」
駆け寄る彩穂の足は、少しずつゆっくりになっていった。
彦助の隣に、一人の女性が立っていた。キリリとした目もとの、気の丈夫そうな娘だ。
あまり村と交流していない彩穂も、村人達の名前は知っている。この娘(こ)は確か咲江(さきえ)といったはずだ。
咲江の、彦助を見上げる視線に、なぜか嫌な胸騒ぎを感じた。
滅多に村へ降りてこない彩穂がいるので、彦助は少し驚いたような顔をした。
「どうした、彩穂」
おずおずと懐から紙で包んだ金を取り出した。
「あ、あの、これ……」
大きな手で、彦助が包みを取った。
中に入っているものを見て、彦助より先に咲江が声を上げた。
「よかったじゃない! これでお義母(おかあ)様の薬が買えるわ!」
(おかあさま?)
その言い方が胸をざわつかせた。
「これでお義母様の病が治れば、祝言を挙げられるわね」
(え……)
思わず彦助の顔を見る。
彦助はどこか気まずそうに、視線を逸らせた。
「そうなんだ。俺は、咲江と祝言を挙げることになったんだ」
地面が綿になったかのように、足元がおぼつかない。胸が早鐘を打ち始めた。
「そ、そうなんだ。おめでそう」
自分の声が、変ににじんで聞こえた。
「いや、でも、これ……」
「いいじゃないの。くれるって言うんだから」
ためらう彦助に、咲江が笑いかける。
「じゃ、私は行くから」
そう言うと、彩穂はなんとか笑顔らしきものを浮かべた。
「あ、ああ。ありがとう」
彦助の言葉を遠くに聞きながら、ふらふらと彩穂は村を出て、自分の小屋へ歩き始めた。
自分が彦助に選ばれることがないと分かっていた。だって、自分は憑き物筋なのだから。
彦助が優しかったのだって、彼がただ同情してくれていただけだった。
それなのに、自分が憎からず思われているかも、なんて思いあがって。なぜだか急に、自分の今の髪が恥ずかしくなった。
涙で視界がにじんだからか、足を取られて落ち葉の上に倒れ込んだ。
彩穂は冷たい地面にうつぶせに横たわったまま、彩穂は起き上がる気にもならなかった。
このまま、雪のように体が溶け、地面に染み込みそのまま消えてしまえればどれだけ良いだろう。
後ろで、落ち葉を踏む音がした。
まさか彦助が追ってきたのかと体を起こして振り返ると、見慣れない女性が立っていた。
その美しさに息を呑む。
背中に流れる一つに結んだ長い髪。雪のように白い頬に差した赤味は、桃色の霧を思わせる。炎を凍らせ珠としたかのような瞳。濡れたように艶のある唇。
彩穂はその場にひれ伏した。
姿こそ農民の恰好をしているものの、ここまで美しい者が、ただの人間であるわけはない。物の怪だろうか。それにしてはまとっている空気は清浄だ。
そういえば、昔母が話してくれたことがある。神々の中には、気まぐれに地上を旅する者がおられると。
「ほう……お主は妾(わらわ)が何者が分かるのか」
少しの間、その声に聞きほれていて、内容を理解するのに少し時間がかかった。
「無学ゆえ、お名前は分かりませぬが……貴(たっと)き神の一柱かとお見受けします」
その言葉にかすかに口元をほころばせたかと思うと、女の姿は水鏡の像のようにゆらめいた。その像がまた実体に落ち着いたとき、女の質素な着物は、彩穂には名も知らぬ色とりどりの珠飾りをつけた紫の衣に変わっていた。
「いかにも。妾(わらわ)の事はただ輝(かぐ)と呼ぶがよい」
神々の御名は長い物と聞く。たぶんこれは彩穂が呼びやすいよう省略したものだろう。
輝は、じっと黄玉のような瞳で彩穂を見つめた。
ただそれだけで、輝は彩穂の現状を理解したようだ。
「……そうか、かわいそうにな」
いたわるような、慈しむような口調に、今まで鼻の奥で留まっていた涙があふれてきた。
「お前の母、篠を見知っている」
うつむき、袖で涙をぬぐっていた彩穂は驚いて顔を上げた。
「そ、そうなんですか」
思いがけず出てきた母の名に少し驚く。
「縁があって、私はアイツに少し加護を与えてやったのだが……ある意味、残酷なことをしてしまったかも知れないな」
ある意味、母が憑き物筋と言われるほど運がよかったのは、この神様の加護があったからか。
「どうだ。お前の願いを叶えてやろう。ある意味、罪滅ぼしだ」
ほんの少しだけ申し訳なさそうな輝に、彩穂は緊張と悲しみが少し緩んだ。
「罪などど……」
彩穂は首を振った。
輝のせいではない。母に嫉妬した村人達が悪いのだ。
「でも、もしも願いを叶えてくださるのなら……私の、私の願いはただ一つ」
木々の間からのぞく柳の頭に目をむけた。
「……そうか」
それだけで彩穂の願いを読み取ったのだろう。輝は手を額に伸ばす。
彩穂は、目を閉じる。
その残った短い髪から、肌から、唇から色が抜けていく。
まるで砂像になったように、さらさらと彩穂の細い体は風に崩れていった。まるで銀色の糸のように、彩穂のカケラは宙をただよい、柳へと流れていった。
銭をくれた日から彩穂がいなくなったことを、彦助以外気にするものはいなかった。
彦助は咲江と祝言を挙げてからも、何度か彩穂の家へ行ってみた。だが、家はからっぽのままだった。
日が経つにつれ、小さな畑には雑草が生え始め、段々と彩穂の家は朽ちていく。鶏は放っておいたら死んでしまうので、こちらで預かるようにした。
彦助は消えた彩穂に心を痛めていたが、赤子のサチが産まるとその痛みも薄らいでいった。
「あれ……」
赤子を背負い、家の傍を歩いてあやしていた咲江が、急に声を上げた。
「どうした?」
そばを歩く彦助の問いに応え、咲江は柳の上の方を指す。
葉の根元が、黒く染まっていた。
彦助は息を呑んだ。この色は見覚えがある。虹の輝きを隠した黒、彩穂の髪の色。
「気味が悪いわ」
背中の赤子を揺すり上げながら彩穂が言う。
「なにか、原因があるのだろう。暖かさとか、日の当たり具合とか……それで葉の色が変わったんだよ」
あぜ道をやってきた長老の兵爺(へいじい)と与次郎(よじろう)が、何事かと立ち止まって二人の視線を目で追った。
「おお、なんだありゃ。気味が悪いの」
「これはきっと、よくない兆(きざ)しだ。あんな気味の悪い木、切っちまった方がいい」
血の気の多い与次郎(よじろう)が言った。
「待て、ちょっと待ってくれ!」
珍しく大きな声を出した彦助に、皆の少し驚いた視線が集まる。
その反応にたじろいだように、彦助は普段どおりの声で言った。
「悪い兆しとは言い切れないだろう。かえって、いい兆しかも知れないじゃないか」
兵爺は眉根を寄せて考え込む。
「ふむ。確かに彦助の言葉も一理ある」
「そうだな。しばらく様子をみるか」
与次郎も納得してくれたようだ。
「それがいい。そうすれば吉兆か凶兆か分かるだろう」
彦助はほっとしながら言った。
ポツリ、と冷たい物が頭に落ちる。
見上げた空は暗いねずみ色だ。
「あら、降ってきたわ」
咲江がぽつりと言った。
それが合図になって、各々自分の行くべき場所へ散っていった。
雨が強くなって来るなか、彦助はしばらく柳の木を見上げていた。
柳の黒は段々と広がっていった。最初は枝の付け根だけだったが、今は葉の先まで染まっている。風にその葉がなびく様は、遠目で見ると神の長く背の高い女性がたたずんでいるように見えた。
まるで柳の黒が広がるのと比例するように、降り続いていた雨は少しずつ激しさを増していき、大声を出さないと聞き取れないほどの土砂降りとなった。普段穏やかな近くの川も、激しい濁流になり渦を巻いている。
普段はもう眠っているはずの時間だが、屋根を叩く豪雨と、そばを流れる濁流で、眠れるわけはない。その上、咲江は今朝から熱を出して寝込んでいた。
咲江の様子を診ている彦助の傍らにはサチが眠っている。彦助の母、タエも眠れないようで、床に入らず囲炉裏の火で手を温めていた。
その火がぼんやりと家の中を照らし出している。暖かな光と温かさだけが、かろうじて安心できる場所を守っているように思えた。
戸が急に叩かれ、驚いた咲江が「ひっ」と小さく声を上げた。
「おおい」
戸が開いて、激しい雨が吹き込んできた。寒そうに入ってきたのは笠とミノをつけた兵爺だった。
「どうも山も川も騒がしい。山津波が起きるかも知れん。あんたらは神社に避難した方がええ」
「あ、ああ」
うなずきながら、彦助は咲江に視線をむけた。
「避難と言ってもね」
不機嫌そうにタエが言う。
「あたしはこの年だし、嫁もこんな状態だしね」
咲江の方へ視線をやって、兵爺は小さく唸った。
「ふむ。二人ともおぶるなり、戸板に乗せて運ぶなりするしかないか」
あれこれ話し合った結果、まずは咲江より先にタエを先に避難させることになりそうだ。
彦助の心配そうな視線に気づき、咲江は微笑んだ。
「大丈夫、待ってるから」
「すまない、すぐに迎えに来る」
そう言って、彦助はタエをおぶると、上から雨具を身に着けた。
外へ踏み出すと痛いくらいに雨粒が体に叩きつけてくる。囲炉裏で温まっていたはずの体はあっという間に骨まで冷え切った。タエの体温で、背中だけかろうじて血が通っているように感じた。
神社に続く山道は所々ぬかるみ、二人分の体重で足が深く潜った。と思うと濡れた砂利で足がすべりそうになる。
激しい雨ですべての色があせて見える中、時折稲光が光り、辺りが一瞬白く染まる。怖いのか寒いのか、タエが一度身震いした。
彦助は柳の根元にある家を振り返る。
(咲江とサチは大丈夫だろうか?)
遠くで、巨大な太鼓の音を聞いた気がした。一度、また一度。わずかな振動が、足の裏から伝わってくる。音は間隔が短くなり、山全体が鳴り響くような乱打になる。
ちょうど彦助の家から少し山頂側にある地面がめくりあがる。土の波が、彦助家を、畑を飲み込んでいった。泥と水の臭いが鼻を突く。
「咲江! サチ!」
タエをその場に下ろし、彦助は走り出した。たどり着いた家はすっかり土砂に埋もれていた。あの柳だけが、傾(かし)ぎながらも立っている。
外へ飛び出してきた村人達は、声をかけることもできず呆然と彦助の様子を眺めているだけだ。
土の中から咲江の手がのぞいていないか。サチの着物の裾でも見えないか。喉が痛むまで二人の名を呼びながら彦助は辺りを探し回った。
そして、柳の下にまで来たときだった。
ほぎゃあ、ほぎゃあ。
赤子の声。
足の下からではなく、頭の上から。
サチが、浮いていた。いや、薄闇に溶け込むような柳の黒い葉が、柔らかな手首を、ふっくらとした腹を支えている。まるで布にくるむように。
「サチ!」
手を伸ばし、サチを抱える。寒さで凍える腕に、その体の温かさが伝わってきた。葉をほどき、あるいはちぎり、彦助は赤子を柳から受け取った。
父親の腕に移ったのが分かったのか、サチはにっこりと微笑んだ。
彦助の口から安堵のため息が漏れる。力が抜け、地面に付きそうになる膝を叱咤する。 いつの間にか雨は止んでいた。
風に音をたてて、黒い葉がなびいた。明け始めた空の光を放ちながら、しずくが零れ落ちる。
「あなた! サチ!」
必死の呼び声に顔を上げる。
サチに気を取られていたため気が付かなかったが、長い葉に隠されるように咲江もまた磔(はりつけ)になっていた。
「安心しろ、サチは無事だ!」
そこでようやく我に返った村人たちが咲江を支えている葉を外し始めた。止まっていた時が、一度に動き出したようだった。
「信じられない……柳が人を救うなんて」
咲江を下ろしながら、村の一人が言った。
「良くない兆しどころじゃない。これはありがたい御神木様だ」
そんな言葉を聞きながら、彦助は柳を見上げる。
明るさを増す空が、ほっそりとした幹を、重たげなほど豊かな葉を黒々と照らしだしていく。
(彩穂……)
少しはにかむように、目の前に立つ彩穂の姿が、なぜかその柳に重なった。
――私は、あの柳になりたいのです――
あのとき、彩穂は輝に言った。
――そして、ずっと彦助の事を見守っていたい――
「ああ、ああ……」
うめき声がして振り返れば、そばにタエが立っていた。
両手で頬の雨と涙をぬぐって、柳に歩みよった。両膝をつき腕を伸ばす。しわだらけの手で幹をなでさすった。
「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます」
そのうち、この柳には注連縄が張られるだろう。そして、タエは毎朝供物をささげるに違いない。自分が蔑んでいた彩穂だということも知らず。
あの柳が彩穂だということを、いまや彦助は確信していた。
また、同じ所に家を建てよう。春がくれば、柳の葉にじゃれついてサチが笑うだろう。そして、これからもこの柳の下で暮らすのだ。
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