第九章 レストラン
分厚いジュウタンの上を、ボーイに案内されて四人は席についた。
優子は、グレーのワンピースのベーシックなタイプを着こなしている。
背はひとみよりやや高いので、大人っぽく見える。
切れ長の目と艶やかな髪が、大人の女を演出している。
今日は少し暖かいせいもあって、模様が透けている白いカーディガンとディオールの小さめのバッグを片方の手に下げている。
ひとみはというと、濃いマリンブルーのジャケットから白いシャツの襟を立てている。
アンバランスなフォーマルさが、コケティッシュなひとみの美しい顔立ちとマッチしている。
ただ今日は、終始うつ向きかげんに顔を伏せていた。
青井は席につくと大きく息をつき、おしぼりで顔をごしごしこすっている。
一応今日は高級レストランへ行くという事で、髭も剃ってグレーのいい生地のスーツを着ている。
だけどネクタイは・・・相変わらずよれている。
ひとみはチラリと青井を見て、頬を膨らませている。
(もー、このタコ焼きはー。
もう一人連れてくるっていうから誰かと思ったら・・・)
ひとみの席の向かい側にいる男は、細かいチェック地のウンガロのスーツに、ぺイズリーの細めのネクタイを・・・真っ直ぐおろしている。
キリッとしまった眉毛を横に伸ばし、微笑みながら大きな目でひとみを見つめている。
おしぼりでかるく手を拭いた後、丁寧にたたんで籠に置いた。
「田坂課長もいらっしゃるとは、思いませんでした」
優子が顔を上気させて言った。
中々こういう高級レストランへ来る期会などないのだ。
どう安く見積もっても、一人2~3万円はするだろう。
「青井と僕は同期だからね」
田坂が優しい口調で言った。
「俺が無理やり頼んだんや・・・。
こんな、きばった所、仕事でも俺は使わんし、
まして若い女の子二人と入ったら、
不動産屋のオヤジかと思われるやろ?」
「誰も、そんな金持ちに見えるはずないから、大丈夫ですよ」
と、いつもなら突っ込んでくるひとみが何故か、今日はおとなしい。
不思議そうに見ると青井は言った。
「何や、今日はえらい静かやなぁ?
約束どおり連れてきたったから、
何でも好きなもん注文せいよ。
心配せんでもここは俺のおごりや。
ちゃんと自分の金で払うで、領収書なんかもらわんとな」
青井が言うと田坂と優子は笑っているが、ひとみは相変わらず黙っている。
「けったいなやっちゃなー。
ほら、メニューや、はよ頼めや。
俺、わからんし・・・」
「わ、私・・・何でも、結構・・・です」
ひとみは、蚊のなくような声で答えた。
「何やっちゅうねん?」
青井が呆れた顔で優子を見ると、優子は目を田坂に向けて含むように笑い、再びひとみの方を見た。
やっと青井も気づいたらしく、鬼の首をとったように元気になった。
「何やお前・・・田坂がおるんで猫かぶっとんのか?
こら、ええわ・・・今度からこっちが不利になったら、
一課へ逃げ込めばええんやな。
なあ、堀江さん・・・?」
優子はクスクス笑っている。
ひとみは恨めしそうに優子を見つめている。
(もー、何よ優子も・・・。
えーい、こうなったらヤケだわ。
今日は、いっぱい食べてやるんだからぁ・・・)
ひとみは開き直り、青井からメニューをひったくるようにして取ると、ボーイに次々と注文していった。
ひとみの母は食い道楽なので、このレストランも何度か連れて来てもらっているので慣れているのだった。
ただ今日は遠慮せず、高いものをバンバン注文してやろうと思っている。
青井は最初の内、余裕綽々だったのだが、ひとみが告げる料理をメニューに見つけ値段をみると、目が飛び出そうになりハラハラしている。
せいぜいフルコースで一人2万円ぐらいかとふんできたのだが・・・。
「お、おい・・・もしもし?
その、キャビアとかフォアグラとか・・・。
あれー、トリフって・・・あの・・・
早川様・・・もしもし・・・?」
「うるさいわねぇ・・・
電話じゃないんですよ。
何でも注文していいって言ったでしょ?
ねえ、優子・・・?」
二人の遣り取りを笑いながら見ていた田坂は青井に耳打ちして言うと、青井も安心したのか胸をなでおろしている。
「俺も半分出すよ、心配するなよ・・・」
今回はひとみのコーディネートで、フルコースをベースにして前菜からオプションとして色々なものを注文した。
キャビアを氷の上にのせて、小さな黒パンを上品に添えたものが出てきた。
ワインはボルドーの赤で少し冷やしてある。
給仕がうやうやしく注いだワインのグラスを指ではさんでテーブルの上で回し、香りを楽しんでから口に含む。
口中に甘酸っぱい香りが広がったかと思う、と喉の奥に重厚感と共に溶け込んでいった。
田坂は微笑んで軽く返事をすると、給仕は全員のグラスに静かに注いでいく。
次々と料理が運ばれてくる。
青井はワインをガブガブ飲み、料理も一口で食べてしまう。
「ちょっとー、青井課長・・・
おごってもらって文句言える立場じゃないですけれど。
その食べ方もったいないですよ。
このキャビアだって、スプーン一匙で何千円もするし」
「ホ、ほーかぁ・・・」
そう言われて、青井は少し味わって食べるようにした。
二人の遣り取りを見て、田坂は楽しそうに言った。
「へえー、お前も聞き分け、良くなったなー?
クライアントと食事にいっても変わらなかったのになー。
今日は箸、頼まないのか?」
優子が、くすくす笑っている。
「まー、やかましい女やで・・・。
田坂、お前にやるわ・・・。
堀江さんとトレードしよう、どうや?」
食べるのに夢中で忘れていた、ひとみはそんな事を言われて又、急におとなしくなった。
「僕はいいけど。
結構似合っているよ、お前達二人・・・。
いいコンビだと思うけどな、ねえ堀江さん?」
「そーですよ、
今や栄京商事、営業部の名物ですもの・・・ね?」
優子は楽しそうに言った。
「ちょっとー、変な事言わないでよね。
私こそ、青井課長をあんたにあげるわよ」
「あのー・・・もしもし?」
青井が横から突っ込むと、三人は爆笑した。
食事は楽しく進められていった。
スープが運ばれてきた。
この店オリジナルのポタージュスープである。
「このスープが好きなのよ。
ねっ、飲んでみて・・・?」
青井はスプーンをスープに沈め一口、含んでみた。
クリームの味が一瞬、口中に広がったと思うと、その後を追いかけるように複雑な味が浮き上がってくる。
時間をかけて煮込んだらしく、原形をとどめる食材は見えない。
たぶん玉葱のみじんぎりを、バターで炒めたのをたっぷりとチキンの骨のだしをべースに様々な食材や香辛料と組み合わせているのだろう。
たった一口味わっただけなのに、もう何種類もの料理を食べた気になる。
青井は声もあげずに、夢中でスープを味わっている。
「本当・・・すごくおいしい。
私こんなにおいしいポタージュスープ初めて飲んだわ。
何て言うか、色んな旨味がいっぱい詰まっているってかんじ」
優子の言葉に、ひとみも鼻高々に言った。
「そうでしょ?
ここ、ランチもやってて、このポタージュ時々出すのよ。
今度、一緒に行きましょうよ・・・」
そう言うと、青井の方をチラリと見た。
さすがに音はたてていないが、田坂のようにエレガントには出来ないらしくスープなのにガツガツ食べているという感じである。
でも、不思議とイヤではなかった。
おいしさに頬をゆるめて気持ちよさそうに食べる姿は、どこか見覚えがあるようで、変な懐かしさと共にひとみの心にしみ込んでくる。
「この肉、うまいな・・・。
いやー・・・これ、すごいわぁ・・・。
何か今までのと全然、ちゃうでぇ・・・」
本当に美味しそうに食べる男である。
ひとみは見ていて楽しかった。
「キニア牛じゃないかな?
イタリアのブランド牛さ。
松阪牛みたいなもんだよ」
田坂が説明したとおり、これはイタリアから特別に取り寄せた貴重な肉であった。
イタリアでも中々食べられないらしい。
「おー、そういえばイタリアに駐在した時、
聞いたことあるわ。
塩と大粒の胡椒だけで料理するんやてな。
こんな旨い肉やとそういうんが、
いっちゃん、ええんやろな?」
何だかんだといっても、一流商社のバブル時代をエリートで過ごした二人なのだ。
色々な国の料理はほぼ経験していた。
ただ、それを自慢するでもなく、本当に楽しんで食事をしている。
優子は田坂だけではなく、青井にも好感をもつのであった。
ワインもおいしく、楽しく夕食は進んでいった。
「あー、おいしかったぁ・・・。
満足、満足。課長、ごちそうさまでした」
デザートのフルーツとアイスクリームのアンサンブルをペロリと平らげると、ひとみはうれしそうに言った。
優子も同じように、おしとやかに礼を言った。
「まー、ええよ・・・。
ほんまに旨かった。
久しぶりに、ごちそう食べた気がするわ。
それにしても、その細い体のどこにあんなに入るんやろなー。
なー、田坂・・・?」
田坂は黙って笑いながらコーヒーを飲んでいる。
青井もさすがに飲み疲れたのか、コーヒーを一口すするとタバコを取り出した。
ライターをつけようとした時、ひとみと目が合った。
「あっ・・・よろしいですか。
お嬢様・・・?」
ひとみはムキになって言った。
「だからー、あれは課長がデスクでプカプカ吸うから、
注意したんでしょう・・・?
食事中ならともかく、コーヒータイムだし、いいですよ・・・。
それに、ここは禁煙席じゃないし・・・」
田坂が笑いながらとりなしている。
「まーまー、早川さん。
そういえば、よく我慢したなあ、タバコ・・・」
青井は満足そうに煙をはいて言った。
「俺かて、こんな旨いもん食う時は吸わんわい。
たまにクライアントとか接待すると、
懐石料理で吸い物と一緒にタバコ吸う奴おるけど、
金ドブに捨てるようなもんやからなぁ。
それとこの頃、だいぶ本数減ってきたねん。
まー、誰のおかげかわからんけどな・・・」
横目でチラリとひとみを見ると、青井は煙で表情を隠すようにしている。
「そーそー、健康によくないですよ。
何なら禁煙パイポ、又プレゼントしましょうか?」
ひとみも負けてはいなかった。
ワインの酔いも手伝って、もう田坂の前でもあがらなくなっていた。
「ええちゅうねん、あれはもう・・・。
それよか田坂、静子さんは元気か?
今年の年賀状の名前、お前一人やったけど・・・」
青井は言いかけて、田坂の暗い表情を読み取って後悔した。
慌てて話題を変えようとしてタバコをもみ消すと、田坂がすかさず答えた。
「ああ、その事だけど、先月、別れたんだ・・・」
一同、シーンとしていまった。
優子等は何を言っていいかわからず、じっと田坂の顔を見つめている。
「ごめん、ごめん。シラケさしちゃったかな・・・。
でも、いずれわかる事だから言うけど去年から別居してたんだ。
誕生日に花やプレゼントを送ったりして
何度かよりを戻そうとしたんだけど・・・
俺が悪いのさ。バブルの時忙しくて
ろくにかまってやらずにいて不況になったらなったで、
いつもカリカリして、あいつに当たったりしたからな・・・」
優子は自分の耳が信じられなかった。
いつも誰に対しても分け隔てなく優しく気を使う田坂が、奥様とそんなに冷たい関係を続けていたなんて。
「そしたら、もう半年程前から付き合っている男がいるようで
二カ月前にそいつと再婚するつもりだからって
離婚届けを送ってきたんだ。
もう何を言っても無駄だった・・・。
でも、あいつの幸せを考えたらその方がいいかなって・・・。
幸い相手は金持ちらしくて生活も苦労しないみたいだったし。
変な話だけど慰謝料もいらないって言うんだ。
俺は今までと同様、生活費ぐらいは送るって言ったんだけど、
ハッキリ縁を切りたいって言われちゃってな・・・・」
「ほーか・・・まっ、しゃーないわ・・・・
人生色々やもんな・・・・。
でも美人やったんやでー静子さん。
俺ら同期のマドンナやったもんなー・・・。
まっ、やめよ、こんな話・・・。
良かったなぁ・・・
チャンスあるやないか、お嬢様・・・」
青井に肩を叩かれて、ひとみは顔を真っ赤にして言った。
「な、何言ってるんですか。
人が悲しんでる時に。
それに、どうして私が・・・」
「そうだぞ、青井・・・・・失礼だよ。
こんな若いお嬢さん、からかっちゃあ。
俺みたいなバツイチの中年なんかには、
もったいないって・・・」
田坂が笑いながら言った。
優子は黙って三人の遣り取りを聞いている。
「あっ・・・
でも、青井課長よりはずっと・・・その・・・」
ひとみが、しどろもどろに言っている。
「なんや・・・それ。
ずっと、ってどういうんや?
やっぱり、おごるのやめて割りかんにしょーかー?」
「えー、今さら何言ってんですか。
すてきっ・・・。
まー、今日のスーツ、品があっていいわー。
バーバリーね・・・?」
「紳士服の青山じゃ・・・アホ」
又々どっとうけたところで、おひらきとなった。
会計をしながら、青井と田坂が言い合っている。
「ええって、ここは俺が出すよ。
どーせ、カードやし。
お前も色々物入りやろ」
「バカ言え。
だから慰謝料なしだって・・・
何、言わせんだよ・・・」
とりあえず青井が払って、田坂の声を無視するように歩いていく。
二人を見つめながら、優子は小さくため息をついて言った。
「いいわね。
あの二人・・・仲良かったんだ。
同期入社で5年ぐらい同じ部署にいたんだって。
前に田坂課長が話してたわ・・・・。
あいつとは性格も何もかも正反対だから気が合うんですって・・・」
ひとみも同感だと思ったが、何か言うと又優子にからかわれそうで黙っている。
女性二人をタクシーに乗せると、男達は東口の繁華街の方へ向かっていった。
今日の酒はとりわけ、おいしくなりそうである。
田坂もここ連日の悩み事を人に話した事で、ようやくふっきれた気がしてうれしかった。
今夜はとことん飲むつもりであった。
春の夜の風が心地よかったが、やはり歩くと遠そうなのでタクシーに乗る事にして通りに出た。
明日からゴールデンウイークである。
青井は、美都子と勇太の事を想っている。
田坂には・・・今は誰もいなかった。
四月の終わり、夜の事であった。
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