第八章  約束

エレベーターに乗ると、青井は二十七階のボタンを押して大きなアクビをした。


昨日は十二時近くまでがんばったが、五時間ぐらいかけてA4二枚打ち出すのがやっとだった。

それでも青井にとっては画期的で、手書きの表やグラフと合わせ、山本の資料と共に出せばバッチリだと自信があった。


今、9時少し前で役員達がくる前に部数をコピーしようと思って早めに来たのだが、守衛の人に聞いたところ、もう誰か来ているそうである。

早く来た役員か、他の休日出勤した人だろうと思って営業部のドアを開けると、コピー機の動く音がしていた。


自分の席に座ってその方向を見ると、ひとみが立っていた。

今日は休日であるので、制服ではなく私服姿である。


前回、休日出勤させた時は、なじみがうすいという事もあり地味な服を着てきていたが、今日は明るいキャミソールのワンピースに、うすい白のジャケットをはおっている。

もっとも、青井が見ると下着やないかと言われそうなので、アンダーウェアにうすい生地のものを着て、あまり透けないように注意してきた。


それでも、青井は若々しい姿とプロポーションに驚きの表情でひとみを見た。


制服姿でいつもガミガミかみつかれていたので気がつかなかったが、幼い顔立ちに反してバストも大きく、キャミソールの怪しい雰囲気も手伝って、まるで別人に見せていた。


コピーを終え青井に気がつくと、ひとみは三十部ほどの束を持って歩いてきた。

勝ち誇ったような微笑みが浮かび、ふっくらした頬には小さなえくぼを作っている。


「おはようございます」


青井は何だかわけが分からず、ひとみの顔をながめるだけだった。


机の上を見ると、山中の資料と手書きのグラフや報告書の原稿はなく、自分が昨夜作った書類だけが二枚のっていた。

コピーの束を重そうに打ち合わせテーブルの上に置くと、上の一部を取って青井に差し出した。


「はい、報告書。

グラフや表も打ち直しておきましたから・・・。


残りの原稿二十枚も全部、山中さんの資料と合わせて、

三十部コピーしておきました」


呆然とひとみの言葉を聞いていた青井だったが、我に返るとぺージをめくってみた。


全て綺麗に印刷されていた。

グラフも表も、分りやすくカラフルに表現されていた。


「それにしても・・・」

そう言いかけて口元を押さえながら、ひとみはクスクス笑った。


「課長が打ったワープロ・・・

記念に、もらっちゃおうかな・・・?


今時ないですよ、そんな原稿・・・。

一種の作品ですね。ひらがなばっかりだし・・・。


行もバラバラで、時々、

暴走族の当て字みたいな変な漢字はあるしぃ・・・」


顔をまっ赤にしながら、青井は言った。


「え、えらい言い方やなー・・・・。

そ、そりゃ確かにひどいかもしれんけど・・・。


わかりゃええんやっ。

それに・・・誰も頼んでへんやないかぁ・・・」


青井の言葉にムッとした、ひとみはコピーをさっと取り上げると澄ました表情で言った。


「あーら、そうでしたわね。

確かにおせっかいでしたわ・・・・。


じゃあ、これは裏紙として私のメモ帳にでもしますわ。

だけど、あんな原稿を役員に見せたら

確実に企画はボツですねぇ・・・。


でも、ちゃんとご自分で打ったって説明して下さいよ。

私 の仕事だと思われたら、信用ガタ落ちですからね」


ひとみの小さな手にあるコピーの束を見つめながら、青井はあせって言った。


「な、何もそんな事言うてへんやないか。

い、いじわるすなよ・・・・・。


わかった・・・悪かったっ。

すんませんでしたっ。


このとおりや・・・・。

早川様、そのコピー・・・

俺に、ちょうだい・・・」


青井は拝むように、手を合わせて頭を下げている。


「非常に素直でよろしい。

いつもそうだと気持ち良く仕事が出来るのに・・・。


言っておきますけど・・・

私、イヤで言ってたわけじゃないですからね。


ただ、今時ワープロぐらい打てないと

時代に取り残されちゃうと思って言ってたんですからね。


でも、よーくわかりました・・・。

課長にはパソコンとか向いてないってことが。


これからは私がちゃんとやりますから、

遠慮しないで言って下さいね。

でも・・・」


まだ何かあるのかと、不安そうに青井はひとみを見つめている。


「この間・・・・

夕食ご馳走してくれるって言ってましたよねぇ?

来週の連休前の日にKホテルのレストランでご馳走してくれます?」


男に拒否する権利はなかった。

美しい瞳に吸い込まれるように頷いた。


「ただし・・・堀江さんも一緒でいいですよね。

一課のフロアキーパーの人です」


「ああ、田坂のとこのか・・・?

何でもええよ、この際・・・」


青井は正直ホッとした。


この美しい小悪魔と一緒に、ホテルのレストランで二人きりでディナーなどと、恐ろしい事が出来るわけがないと思っていたからだ。

自分が思っていたのは、居酒屋かおでん屋ぐらいだったからだ。


「いいんですか・・・ヤッター。

でも・・・高いですよ、そこ・・・」


意地悪そうに笑うひとみの言葉に一瞬、背すじに冷たいものが走ったが、とにかくワープロの事は正直助かったと思った。

いくら入力するのが早いとはいえ、これだけの事をするには朝5時ぐらいには出社していたはずである。


青井は改めて、可愛い小悪魔を見つめた。


「ええよ、それぐらい・・・。

とにかく、ありがとうな」


ひとみはうれしそうに笑うと、元気良く帰っていった。

きれいに印刷されたコピーの束を見ながら、青井はため息をついた。


窓の外を見ると、今日もいい天気で青空が広がっている。

遠くの富士山も、いつもよりクッキリ見える気がする。


そうか、来週はゴールデン・ウイークかと思った。

勇太と美都子をどこかへ連れていくかと思った。


今日は土曜日、役員会はまもなく始まる。


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