貴族の暮らしは甘くない ~宰相令嬢の波乱の日常~
一柳すこし
第一章
1 宰相家からの迎え
夢を見ていた。
質素なレンガ造りの家並み。
不揃いな石畳の道と、小さな広場の噴水。
暖かな風に揺れる水仙の花と森の木々。
そして、お日様の光を散らして眩しく煌めく広い湖。
なつかしいブルジヨン村の風景だ。
実家の道具屋の前で父が私を呼んでいる。しかし私は振り返らず、誰かのことを探している。探しながら私は怒っているようだ。いや、不安にかられている。どこにいったのだろうあの人は。まったくもう。側にいてって言ったのに……と。
「よお、ヴィオレーヌ」
名前を呼ばれて私は振り向く。そこには男の人がいた。痩せていて、髪がボサボサで顔色が悪くて……。でも、その人の姿をみたとたん、私の心はスッと軽くなる。
思わず頬を緩ませて、しかし自分の気持ちとは裏腹に、私は彼を責めようとする。
「もう。何離れているのよ。あなたは私の側にいなければダメでしょ、タケ……」
※ ※ ※ ※ ※
そこで私は目を覚ました。視界が暗くて一瞬戸惑うが、すぐに状況を思い出して自嘲する。ここは、ホテルの部屋だ。このアルフール王国の首都フリュイーの、タリスマンホテルの一室。明かりが消してあるので今は見えないけど、私一人が泊まるには贅沢すぎる部屋だ。ようやく寝付けたのに、もう覚めてしまった。朝はまだ遠いようだが、なんだかもう眠れそうな気がしない。
起き上がった私は、窓際に寄りカーテンを引き開ける。
月に照らし出され銀色の光を放つ塔の連なりをながめながら、私は小さくため息を漏らす。
思えば遠くまで来たものだ、と。
私は明日、この国の宰相の家に養女として迎え入れられる。
もともと北の湖水地方の田舎で道具屋の娘として生まれ育った私に、そんな栄誉が与えられるなんて、いまだにちょっと信じられない。
もっともそれには理由がある。
私の父、ミシェルが宰相の実の兄だったのだ。
父は貴族の生き方が性に合わなくて田舎に隠栖したが、私は違った。私は、貴族としての人生を望んだ。物心ついたときから道具屋の娘でそれがどんなものかはわからないけれど、せっかくその血をもって生まれたのなら、謳歌したい。まだ十七歳の私の青春の日々を。きっと華やかであろう貴族の娘として。
だから私は、行動を起こした。先日このフリュイーで行われた、宰相の列席する武道大会に出場したのだ。三回戦敗けだったけど、王太子の目を引き、宰相に手紙を渡すことができた。そして明日養女として宰相家に迎えられる運びとなったわけだ。正直、自分でもできすぎだと思う。だけど……
私は振り返って、暗い部屋の中を見渡す。
私は今、ひとりぼっちだ。
村で私を支えてくれた人は、今はもうここにはいない。
父も。モルガンも。アルベルトも。アニエスも。
そして誰より、私をここまでつれてきてくれたあの人もいなくなってしまった。
ただの道具屋の娘のまま這い上がれずにいた私を、時に励まし、叱咤し、背中を押してくれた人。常に私の傍らにいてくれた人。あの人も、私が宰相家に入ることが決まったとたんに消えてしまった。数ヵ月前に私たちの前に現れたときと同じように忽然と。まるでその使命を終えたかのように。
望むものを手に入れようというのに、喜びはわいてこなかった。
私の側には誰もいないから。私ひとりだけが望んだものを、私ひとりだけが手にいれた。それを共有し、心からともに喜びあってくれる人がいない。このホテルの豪華な部屋のように、私の中もがらんどう。きっと私は誰からも愛されていない。愛されない人間なのだ。今までずっとそうだった。どうせ私はひとりぼっち。きっとこれからも、ずっと。
「タケル……もどってきてよ」
恐らく二度と会えないであろうあの人の名を唱えて、私はベッドに突っ伏した。
○
どれくらいの時間がたったのだろうか。物音で私は目を覚ました。
部屋の中はまだ暗い。しかし振り返って見上げると、窓の向こうに広がる空はどことなく夜明けを予感させるような色に薄れつつあるようだ。白いカーテンがゆらめき、窓から吹き込む風にも、朝の匂いがにじんでいる気がする。
窓から風?
そのときようやく私は異変に気づいた。私は窓なんか開けていない。ずっと閉まっていたはず。それがどうして、風が吹き込んでいるの。
ベッドから飛び起きると同時に、部屋の奥の暗闇の中から人影がおどりでてきた。
誰っ! などと呼び掛ける余裕などなく、叫び声を発することもできずに私は駆け出す。こんな時間に十七の少女の部屋に侵入してくるやつなんて、ろくなものじゃないのに決まっている。とにかく逃げなければ。
部屋の入り口に向かおうとするも、影はその進路に立ちふさがって私を通そうとはしない。明らかに私よりも大きな人影。顔も性別も判然としないけれど、きっと私より力もあるだろう。捕まったらおしまいだ。
私は後ずさりながら手を伸ばし、闇の中をさぐる。窓際の小机が手に当たって、丸い小さなものが指先に触れた。そこに置いてあったものを思い出す。これはたしか、陶器の菓子入れだ。石ころみたいに小さな可愛らしい菓子入れ。これなら……
手の平大のその菓子入れを握りしめ、私は侵入者をにらみながら足に力を入れて構える。これでもちょっとは修行して武道大会に出た身だ。私の実力、見せてやる。
そして私はひとつ息を整えて、思いっきり腕を振った。
私の手から陶器が放たれ、鈍い光を瞬かせて一直線に影の頭部に襲いかかる。
その直後、鈍い音とともに目の前の闇の中から呻き声が漏れた。どうやら命中したようだ。人影が小さくなったのは、うずくまっているのだろう。
武道大会でも魅せた、私の投石の技量。どんなもんですかと得意になっている暇はない。この機会を逃すまいと、私はすかさず侵入者の影の脇をすり抜けて、部屋の出口へと向かう。はやくこの部屋から出て助けを呼ばなければ。ホテルのロビーまでいけばスタッフさんがいるはず。
私は闇の中を泳ぎながら必死に手を伸ばす。
しかし、私の手が部屋の扉にかかることはなかった。
突然私のからだが強い力に押さえられて前に進まなくなってしまったのだ。
まさか。陶器は侵入者の頭にちゃんと当たったはず。こんなにはやく立ち直れるものか。
私はもがきながら振り返る。影はベッドの脇でまだうずくまっている。私を羽交い締めにしているのは、別の影だった。
「くっそ。この小娘。てこずらせやがって。さて、これからどうしてくれようか」
憎々しげに舌打ちをして、声の主は耳元で小さく笑う。低くてしわがれて、下品な笑いかた。その瞬間、私の背筋は凍りつく。手も足も震えて力が入らない。
ああ、もうダメだ。せっかくここまで来たというのに、こんなところで人知れず、どこの誰ともわからぬ賊の手にかかって私は死ぬのか。
観念して最後の祈りを唱えようとしたその時、突然窓からひときわ強い風が吹き込んだ。風とともに何かが部屋に飛び込んでくる。大きな鳥が舞い込んできたのか。一瞬私はそう、勘違いした。
それは鳥ではなかった。人だ。そう認識するかしないうちに、その人は突風のような勢いで私を賊から引き剥がし、その背にかばってくれる。
「くそっ。もう潮時だ」
賊はもう立ち向かってくることはなく、私達に背を向けると、一目散に窓から外へと飛び出していった。
賊が消え去ると同時に、窓の向こうの空に浮かぶ雲が、ほんのり紅く染まる。
朝が来たのだ。
私を背にかばったまま空をしばらく見つめていたその人は、やがて振り返ると、私の前に跪いた。
女の人だ。
唖然とする私を鋭い目つきで見上げた彼女は、息ひとつ乱すことなく名乗った。
「リュディーと申します。宰相家からお迎えに上がりました。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー様」
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