第4話 別れ 4
マルが、普段寝泊まりしている学校の裏の馬小屋にたどり着いた時、
「マル!」
いきなり背後からヒサリ先生に呼び止められた。マルが振り返ると、ヒサリ先生が教室から走って出て来るところだった。その顔はいつもの落ち着き払った表情とは違い、少し怖く見える程興奮していた。
「あなたを待ってたんです! 今、ここにウォン先生がいらっしゃってます。幸運にも、あなたのイボイボ病を治す特効薬が手に入ったそうなんですよ! さ、行きましょう!」
「え……」
マルはぼんやりとヒサリ先生の顔を見返した。カサン帝国では既に数年前にイボイボ病を治す特効薬が作られた事は知っていた。けれどもそれはとても高価なもので、自分には縁の無い物だと思っていた。
「おらのイボが、無くなるんですか?」
「どの位効くかは分かりません。でもとりあえず注射を打ってみましょう」
ヒサリ先生に肩に手を置かれた瞬間、マルの体ばブルッと震えた。物心付いた頃から全身を覆い尽くしているイボが無くなる? 本当だろうか? 全く心の準備が出来ていない。
「あの、でも……その薬はすごくお金がかかるんじゃないですか?」
「大丈夫。お金の心配はいりません」
マルはヒサリと一緒に教室に入った。教師の隅には、大きな体にひげを生やしたカサン人医師のウォン・カン先生と、学校で一緒に勉強したトンニがいた。トンニは今、大きなアロンガという町の学校に在学中なのでアロンガで下宿生活を送っている。しかし休暇ごとに戻ってウォン先生の助手をしているのだ。トンニはマルを見るなり、いつもの冷静な表情を崩してにっこりした。
「元気かい?」
マルは頷いた。マルはヒサリ先生に勧められるままに、ウォン先生と向かい合わせの椅子に腰かけた。
「いやあ、君は運がいいねえ。すごく質のいい特効薬が新しく出来たんだよ。オモ先生のお気に入りの子に使えて良かった」
マルは、ウォン先生の大きな声を聞いて思わず首をすくめた。カサン人の医師が、わざわざ「汚れた」妖人達の学校に自分のために来てくれた事が不思議でならなかった。
「でも、その薬はたくさんお金がかかるんじゃないですか?」
すると、三人は一瞬黙り込んだ。やがてトンニが口を開いた。
「あの話は、マルには?」
「する必要はありません。どうか注射をしてやって下さい」
ヒサリ先生がきっぱりと言った。
「さあ、早く腕を出して」
ウォン先生は注射器を取り出した。
「あ、あの、ちょっと待って」
マルの頭に、とっさに「ヒサリ先生がこっそり薬のお金を出してくれているのではないか」という考えが浮かんだ。
「怖がる事はないよ。すぐに終わる。蚊が刺すようなもんだ」
「早くしなさい。ウォン先生にあまり時間を取らせないこと」
ヒサリ先生に強く言われて、マルは仕方なく腕を差し出した。
「まず、君の血を取らせてもらうよ」
「血、血を取るんですか!?」
「ほんの少しだ。大したことない。いくよ」
ウォン先生は、マルの腕に、小さな瓶に入った液を吹き付け、小さな布で拭いた。
「あっ!」
注射された瞬間、マルは思わず声をあげていた。蚊に刺された時より、はるかに痛いと感じた。吸血鬼に血を取られる時の痛さとは多分こんな感じなのだろう。針が抜かれた後、マルは、目の前がぼうっと白くなった気がした。
「さあ、次は薬をいくぞ」
今度はさっきとは別の種類の痛みが襲った。まるで毒針を持った蚊の妖怪に刺されたようだった。
「今出来ているイボが剥離したらその後新しいイボは生えて来ない。だいたいひと月もすればイボはきれいに消えて無くなるよ。美男子になるぞ。楽しみに待っていたまえ。ハッハッハッ」
ウォン先生の、部屋じゅうの空気ご揺れるような笑い声を聞きながら、マルはぼんやりと教室の柱を見詰めていた。
「ウォン先生、ちょっと話があります。来ていただけますか?」
ヒサリ先生はウォン先生にこう言った。ウォン先生が立ち上がった時、ヒサリ先生はもう一度トンニに向かってこう念を押した。
「マルにあの事を言ってはいけませんよ」
ヒサリ先生とウォン先生が席を外した時、マルはトンニにそっと尋ねた。
「オモ先生がおらに言っちゃいけないって何なの?」
「ああ、別に大した事じゃないよ。オモ先生がなんであんなに口止めしているのか俺にはよく分からない。でもまあ、オモ先生に止められているから」
「オモ先生が薬のお金をこっそり出してくれたんじゃないの?」
「そんな事はない。そういう事なら全然気にする事は無いよ。オモ先生に迷惑がかかることは一切無い。これは断言出来るよ」
マルはそれを聞いていくらか安堵した。そしてそれ以上何も聞くまい、と思った。なぜならそれがヒサリ先生の気持ちなのだから。
「この薬は、俺も開発に協力したんだ! 君の体の中の力を眠っている力を起こす薬だよ! この力のおかげで君のイボイボ病の菌が完全に死ぬんだ」
「なんだか魔法みたい……」
「そうだよ! まさに魔法さ! 」
トンニの様子を見ながら、マルは思った。(トンニを信じよう。トンニはハーラの病気だって治したんだから……)
「ああそうだ! 君の写真を撮らせてくれないかな」
「しゃ、写真? あの、魂を吸い取る妖怪とかいう……」
「なあ、バカ言うなよ。写真は妖怪とは違う」
トンニは、そばに立っている者の布をサッと取ると、そこには骨のような脚に一つ目の顔を載せた不気味な「写真機」が立っていた。
「さあ、こっちを見て」
マルが写真機の顔を見ると、写真機は大きな一つ目でマルをジーッと見詰めた挙げ句、大きな音と光を出して瞬きした。
「さあ、終わりだ」
マルはフーッと息を吐いた。
「あのさ、ところで……」
マルは少し安心したところで、今日森の中で見た出来事を思い出した。そしてトンニにその事を話した。
「森の中に小屋があってね、何人も男の人が集まってキセルを吸ってたの。それからヌンもいた。ヌンが心配だな。なんだかみんな様子がおかしかったし」
「魔法の粉のせいだね。あれを吸っているうちは天国にいるような心地がするけど魔法が切れたとたん地獄のような思いをするらしい。そして天国の気分を思い出すためにまた魔法の粉に手を出す。そうして魂と体が悪魔に奪われてしまう。あれは悪い魔法だ」
「どうしたらいいんだろう?」
「どうもこうも、ああいう連中とは関わらない方がいいね」
マルはがっかりした。自分は関わらなければいいかもしれない。でもこのままだとヌンはどうなってしまうんだろう?
「それよりマル、イボイボが治ったら高等学校に行くんだろう?」
「うーん、オモ先生は行くように言うんだけど」
「行けばいいじゃないか。怖がる事は無いよ。アロンガの高等学校ではカサン人が七割、あとは上流階級の出のアマン人だけど、みんな思った程勉強は出来ないよ。マル、お前程カサン語が出来る奴はカサン人にもいない。本当だよ。あ、ウォン先生だ」
トンニは立ち上がった。
「マル、俺は次にお前に会った時に、お前の事が分かるかな」
マルは自分の寝泊まりしている馬小屋に戻っても、大好きな本にも手がつかなかった。様々な思いが頭の中を駆け巡っていた。ヒサリ先生の興奮した様子。今日森の中で見た事。トンニの異様に嬉しそうな顔……。
(マル、マル、あんたのイボイボはもうじきすっかり無くなっちゃうわよ!)
背中の後ろから、スヴァリの声がした。
「そしたらヌンはあんたのこと喜んで抱くでしょうね。でもヒサリ先生はショックを受けるわ。だってあなたはピッポニア人みたいな顔してるんだもの!」
ピッポニア人! 嫌だ! 嫌だ! ヒサリ先生がいつも「邪悪な白ねずみ」と言っているピッポニア人の血! カサン帝国の敵、ピッポニア帝国の血が自分の中に流れている!
「そんなの嫌だ! どうしよう!」
「ここから遠い所へ逃げるより他無いわね」
(ああ、どうしよう! どうしよう! イボイボを治す薬なんて断ればよかった! おらはこのままでも良かったんだ!)
マルはほとんど狂ったように部屋の中をぐるぐる歩き回ったかと思うと、ペタリと床に尻餅をついた。それからしばらくして、サッと尻を上げ、机に向かった。ヒサリ先生に手紙を書こうと思った。しかしどうしても言葉が浮かばなかった。ヒサリ先生に伝えたい言葉はいつでもすらすらと頭から出て来る。しかし伝えたくない事を伝える言葉はさっぱり浮かんでこないのだ。 マルは目の前の紙に向かってしばらく悶々ととした挙句、ようやくこう書いた。
「オモ先生、私は自分のイボが無くなる事が怖いのです。ずっと幼い頃からイボと一緒に暮らしてきたものですから。ですからイボが無い状態に慣れるまで、しばらく一人にさせてください。ごめんなさい。学校の子ども達にも、どうかしばらく時間がたてばきっと戻ると伝えてください」
マルは、手紙をヒサリ先生の部屋の扉に挟むと、そのまま駆け出した。
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