第5話 私は幼虫
『蛍! 待て!』
樹の静止を振り切って店を飛び出した蛍は、夜道をとぼとぼと歩いていた。
女が一人、下を向いて歩いているものだから、すれ違う男たちは、“彼女を慰めてあげたい”という気持ちに駆られて振り返った。しかし、蛍はそんな視線を無視して行く当てもなく歩き続けた。
しばらくすると、一人の身の程知らずな酔っ払い男が彼女に声をかけた。
「ねぇお嬢さん、一人? 彼氏と喧嘩でもしたの? おごるから、俺と食事に行って楽しまない?」
蛍は怯えているのか黙って下を向いたままだ。調子に乗った男は彼女の肩に腕を回すと、その美しい顔を拝もうと覗き込んだ。だがしかし、男はすぐに『ヒィ!』と小さく悲鳴をあげてその場から逃げ出して行った。
男が見たのは、とても生きている人間とは思えない程、人形のように冷たく妖艶な顔だった。そこから感情を読み取るのは難しいが、彼女がまとう空気からかなりの怒りが感じ取れる。
男が逃げ去ると、蛍は再び歩き出した。
「あの美香って女、ウザっ……」
口調さえも樹の前での彼女とはまるで別人の蛍は、携帯を取り出すといつもの男を呼び出した。急な呼び出しにも関わらず、男は10分ほどで彼女のもとに到着した。
男は車の運転席の窓を開けて声をかける。
「ごめん、お待たせ。なんか久しぶりだね」
蛍はそれを無視して助手席に乗り込んだ。しかし、男はそんな扱いに慣れているのか気にする様子もない。
「俺の家でいい?」
蛍の無言の返事を確認すると、男は自身の住まいに向けて車を発進させた。
運転しながら男が彼女の横顔を盗み見ると、その表情からかなりイラついていることが分かる。男は“今夜は激しくなりそうだ……”と直感した。
家に着いた途端二人はベッドで抱き合った。
男の予想通り、蛍は
「ねぇ、ホタルの幼虫って見たことある? ホタルの幼虫ってね、身体から毒みたいな成分の液体を出して、餌を溶かして食べちゃうんだって」
「……じゃあ俺は餌ってことか」
蛍は男の顔を見つめると、意味ありげな表情で微笑んだ。
「蛍、もう一回させて?」
「……別にいいよ。その代わり今日泊めて」
「オッケー」
そう言うと、二人は再び抱き合った。
男は、この冷たく妖しい光を放つ女が出す毒に侵されたように自分のエネルギーを女に注いでいく。
朝になり目を覚ますと、先に起きていた男がキッチンに立っていた。
「なんか食べるか?」
「……いらない。私にとって食事なんて何の意味もない」
男のベッドで横になったままの蛍は、実のところ内心焦っていた。
(普通私が呼べばこの男みたいにみんな飛んで来る。そしてすぐに抱いてくれる。それなのに樹ときたら、数日一緒に暮らしているのに一向に手を出してこない。早く私の身体に溺れさせないと、せっかくの計画が水の泡になってしまう……)
コーヒーを両手に男がベッドの端に座った。蛍は上半身を起こして片方のカップを受け取ると、一口だけ口をつけた。全然美味しくない……。食事に意味は感じなくても、樹の淹れるコーヒーはいつも美味しいと思ってしまう。
「今日も泊る?」
「いや、樹のところに帰る」
男は少し複雑な表情で『そっか……』とだけ呟いた。
「樹さん! ただいま!」
店のドアベルを鳴らして、蛍は樹の店に飛び込んだ。誰もいない店の中で一人座っていた樹はその音と声にビクッとして飛び上がった。
樹は蛍の無事な姿を確認すると、怒りながらも彼女のことを強く抱きしめた。抱きしめられた腕から彼が震えているのが分かった。きっと無意識のうちに、事故で亡くした
「お前! 昨夜はどこにいたんだ!? 心配したんだぞ!?」
「……樹さん、心配かけてごめんなさい。もう突然いなくなったりしないから安心して?」
この瞬間、樹は彼女の真っ黒な瞳に捉えられて目を離せなくなってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます