第3話 刺激的な同居生活

「こっちがリビングで、こっちが俺の部屋、そして……小さいがここがお前の部屋だ」


 開店準備の手をいったん止めて、俺は蛍を二階に案内した。

 同居を決めた後、彼女に引っ越しはいつになるのか聞いたところ、『この鞄以外の荷物はないから』と、そのまま俺の家に来ることになったのだ。



「私、自分の部屋に憧れてたんです!」


 部屋に案内された蛍は、目を輝かせてキョロキョロと部屋の中を見回していた。その横を、布団一式を抱えた俺が通る。


「布団は客用があったから、それをしばらく使ってくれ。他に必要な物があれば、明日買い揃えに行こう」

「ありがとうございます! あっ……でも私、お金が……」

「それならバイト代から差し引いとくよ。食事も俺が作るし、生活が安定するまでは、しばらくは家賃もいらない」

「えっ……本当にいいんですか?」


 次の瞬間、彼女が満面の笑みで俺の胸に飛び込んできた。

 

「あぁぁぁ! やめろ! 抱きつくな!」


 くっついた身体を剥がそうと藻掻く俺をよそに、蛍は俺の右頬に軽いキスをした。頬に触れた彼女の唇は、思いのほか冷たかった。



 蛍を部屋に残し、俺は開店準備をしに店に戻った。

 しばらくすると蛍も下りてきた。その頃にはもう店は開店しており、店内には数名の女性客が座っていた。この時間帯に来る客は、30代から50代の主婦層が多い。今いる客は、コーヒーを飲みながらゆったりと読書をする女性と自分の旦那の悪口を言い合う主婦二人組だ。

 ふと蛍の方を見る。なぜか彼女は、二階に続く階段の下で立ち止まったままだ。


「どうした? 部屋の片づけ終わったのか?」


 その問いに彼女は小さく頷いて答えた。しかし、彼女は客たちを見据えたまま、また人形のような表情になっていた。

 俺は蛍をカウンター席の一番端に座らせ、お腹がすいていないか聞いてみたが、彼女は黙って首を横に振っただけだった。さっきまで明るくはしゃいでいた蛍は、今や存在自体を消しかねないほど感情を無にしている。



 ランチ営業が終わると、俺たちは遅めの昼食を食べに二階へと上がった。

 俺は、先ほどまでの彼女の様子が気にはなったが、すでに明るさを取り戻し、キッチンに立つ俺の背中を追い回す蛍を見て、気まぐれな猫でも飼ったと思うことにした。


「ほら、今日のお昼ご飯できたぞ!」


 ホカホカと湯気を立てるお皿を二つ、テーブルに並べた。蛍が不思議そうな顔でそのお皿を覗き込む。


「これ、なんですか?」

「えっ!? オムライスだけど……。まさか食べたことないとかないよね?」

「あー……、小さい頃、まともな育て方されてこなかったんで……」

 

 俺は初めて出会った時の蛍の姿を思い出し、何となくその言葉の意味を察した。


「変な同情はやめてくださいね」

 

 蛍はそう冷たく言い放った。そして、ふわっと仕上がった卵をスプーンですくい、それを恐る恐る口に入れた。


「……おいしい」


 その言葉とともに、彼女の目から涙がこぼれた。俺はそれに気づかないフリをして、黙々とオムライスを食べ続けた。


 蛍は一体どんな子ども時代を過ごしてきたのだろう……。汚れたままだったり、オムライスを食べたことなかったり……きっと他にも辛いことがあったに違いない。これから先、俺と一緒に過ごすことで、少しでも幸せを感じてほしいと願った。



 食事を終えた俺は、彼女に風呂とトイレの位置を伝えると、午後からのディナー営業に備えて少しだけ休憩を取った。


 いざディナー営業が始まると、俺がことあるごとに二階を見上げるので、天堂の奴が訝しげに俺のことを見ていた。


 一日の仕事を終えて二階に上がると、彼女は流石に寝ているようで、部屋全体が静まり返っていた。

 昨夜までこれが普通だったのに、突然現れた妙な女によって、たった一日足らずで、静けさが寂しさに塗り替えられてしまった。

 俺は彼女を起こさないよう静かにシャワーを浴び、自室で横になった。初めて与えられた自分だけの城で静かに眠る彼女のことを考えているうちに、俺も睡魔に負けて深い眠りに落ちた。




「樹さん、おはようございます」


 目を覚ますと、すぐ横にかつての恋人あかりの顔があった。俺がずっと君のことを忘れずにいるから、夢に出てきてくれたのだろうか……。彼女にキスをしようと頬に触れた瞬間、その実体のある感触でこれは現実だと気づき、飛び起きた。


「なんだ……お前か……」


 俺の心臓は凄い速さで鼓動を打っていた。額に吹き出た汗を手の甲で拭った。

 昨日から俺の家で同居することになった蛍は、あと少しでキスできたのに……と残念がっていた。


「お前は俺の部屋で一体何をしてるんだ……?」

「いや、樹さんを起こそうかと思って」


 起こしてくれるのはありがたいが、普通に起こしてほしいものだ。こんなことを毎朝されると、心臓がいくらあっても足りない。


「ほら、早くベッドから下りて」


 蛍は膨れっ面でその指示に従った。それを横目に俺は大きな伸びをして起き上がり、同居生活2日目の朝を迎えたのであった。

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