るぶん

1話のみ

 次は僕の番?オーケー、ちょっとそこの水を取ってくれないかな。ずっと黙って聞いていたものだから喉を少し潤わさせてくれ……あ、悪いよそ見をしていたんだ。すまないね台拭きも取ってくれないか……えっ?こっちにある?ああ確かにそうだね……よし、じゃあ始めさせてもらおうかな。ええとそうだな、どこから話そうか……まあたいしたことのない、一寸(ちょっと)した話なんだ。五分かそこらで終わる。気軽に聞いててくれ。


 目が見えなくなった。それが、僕が最初に思ったことだ。それが夜だと理解するのにそれなりに時間がかかった。そこには若干のパニックもあったように思う。 

 僕はそれまで夜中に目が覚めるなんてことはなかったからね。でも大学生になって一人暮らしを始めたばかりだったから、環境の変化に体が追いついていないんだろうと、その時はそう考えることにした。和室で寝るなんて、小さい頃に祖父母の家に泊まったとき以来だったしね。

 え?ああそう。和室のアパートに住んでたんだ。部屋の広さは六畳。畳が六枚。あとは、その長方形の部屋にくっつくようにして台所がある。そっちは畳じゃない。二つの部屋はガラスの襖で仕切られてて、一応はそれぞれ独立した部屋になってる。

 ガラスの襖って見たことある?紙の代わりにガラスを、たぶん光を入れるためだと思うんだけれど木の枠組みに嵌めてあるやつ。あれって結構重たいんだよね。引っかかるっていうか……とにかく動かしづらい。だからいつも開けっぱなしにしてた。

 別に和室だからって窓がついてないわけじゃないし、二階だったから十分明るくて良かったよ。でも二階だといちいち階段を降りなきゃいけないってのが少し面倒だったけど……ん?ああ確かに。話が逸れちゃったね。どこまで話したっけ?目が覚めたところ?よしそれじゃあ話を戻そう。僕は夜中に目覚め、若干の違和感を覚えた。だが、おかしいのはそれだけじゃなかった。


 それにしても嫌な感じだった。この辺りは田舎だから静かなのは分かるんだけれど、その夜は本当に静かだったんだ。自分の呼吸の音さえも暗闇に吸い込まれて消えていくようだった。そのまま寝てしまえるならそうしたかったけれど、目が冴えてしまっていたから、窓を開けてみることにした。

 でも、窓を開けた瞬間に、僕はそのことを後悔した。月の光も、虫の鳴き声もない。そこにあったのは完全な闇だった。部屋の中の夜が、一段深くなった感じがした。どことなく気味が悪くて…… こういうのを虫の知らせっていうのかな。手のひらにベタベタした汗が出てきて、そのくせ喉はからからに渇いていた。

 すごく水が飲みたくなって、窓際から台所へと向かった。その道のり、といっても差し支えないと思えるくらい台所までは遠くて、部屋の空気はまるで密度の大きい粘着質な気体に変わってしまったみたいだった。

 

 手探りで台所の電気をつけて、逆さまにして乾かしておいたコップを手に取る。右手で蛇口をひねり、左手のコップで水を受ける。溢れた水が手にかかって、その確かな冷たさを感じた時は救われたような気分になった。

 大丈夫だ、おかしなことなんて何もない、そう自分に言い聞かせたんだ。ひとまずこの水を飲んで渇いた喉を潤そうってね。

 コップの縁に口をつける。こぼれないように慎重に水を口に含む。水が喉を通って、胃に落ちていくのがわかった。少しずつコップを傾けて、一息に水を流し込んでいく。水の量が半分以下になって、コップの傾きが水平以上になる。その動きに伴って僕の視線はゆっくりと上がり……そこに、いた。


 「それ」は天井の隅に張り付いてこちらを見下ろしていた。何をするでもなく、そのままその黒い体を夜の暗さに溶け込ませようとするように、ただじっとしていた。

 僕は「それ」から目を離すことができなかった。一瞬でも目を離したら、何が起こるか想像も出来ない。文字通り身動きひとつせずに――つまり傾けたコップを下唇にのせたまま、という格好で――僕は立ちすくんでいた。

 喉は再び渇き始めていた。今飲んだ水はどこへ行ったんだろう、なんて関係のないことを僕は考えていた。僕はまさに虫の息だった。


 翌朝起きたとき、僕は布団の中にいた。背中にびっしょりと汗をかいている。夢だったのだろうか?そんなことをぼんやりと考えながら、僕は襖を開けて台所に行き、水を飲んだ。何気なく天井隅を見上げてみたけれど、昨日の夢とは違って、そこには何もいなかった。


 ……これで話は終わり。結論から言うと、これは夢じゃなかった。あとでそのことに気づいて「それ」の出現に備えたから良かったものの、もしあれを夢だと考えていたらと思うと、本当にぞっとするよ。

 でもその時以来変な癖がついちゃってね。何かを口にする前に必ず天井を確認してしまうんだ。黒いアイツが張り付いてないかってさ。

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