第2話 鳥の巣の邂逅
この世界は全能神カノンが創り給うた。
唯、暗黒神ワーを除いて。
〜ブリテン聖書第一章第一節「創造」より一部抜粋〜
サイワ湖から流れ出た水は大きな川となり、長い年月をかけてウルガ山脈の南に大きな渓谷をつくった。
渓谷は山頂付近から山腹の森を横目に山裾までうねりながら続いていた。
高さ三百メートルを越える渓谷の崖面には水平方向に走る亀裂がいくつかあって、崖の中央付近からやや上辺りの亀裂のひとつに、鳥の巣があった。
数メートルの若木が数え切れないほど詰め込まれて造られたその鳥の巣は亀裂から大きくはみ出して丸みを帯びて膨らみ、峡谷の底を轟音とともに下るサイワ川の真上にあった。
まるで大木で組み上げられた要塞のような巣の壁に立って南を見れば、山腹に広がる深い森やその先の山裾にある雑木林、そしてさらに丘を一つ越えた場所にあるブリテン城下町も晴れていれば人間の目でもかろうじて目視する事が出来た。
サイワ川から立ち上ったマナが峡谷内に充満し、おいそれと侵す事の許されない空気を醸し出していて、巣は空の王者と言われる魔獣デカント・イーグルの住処にふさわしい凄味があった。
愛の巣に戻った二羽の巨鳥はホバリングしながら春風を無造作に巣の中に放り入れると新たな餌を求め巣に降りる事なく再び飛び立った。
恐怖による心臓の高鳴りと巨鳥の趾の締め付けのせいで苦しくてまともに呼吸が出来ず意識が朦朧として気絶しそうだった春風は、どさりと巣の中に投げ込まれた拍子に大きく息を吸い込んだ。
その空気が肺に充満した春風は、あまりの臭さに吐きそうになり四つに這って咳込んだ。
今までに嗅いだ事がないほどの腐臭が充満していた。
春風は涙を浮かべて顔をしかめ、着ていたTシャツをまくり鼻と口を覆った。
暗がりの中で目を開け辺りを見渡すと木材で組み上げられたその場所は学校のプールくらいの大きさで、たくさんの人間がそこら中に転がっているらしいという事が見てとれたが、腐臭から考えるとそれらの動かない人たちは死体に違いなかった。
人の形を失ったものも含めてそれらのほとんどは、西洋風の兜や鎧などを纏っていた。
剣や盾、槍やこん棒も散乱していた。
えづきながら辺りを見渡すと、巣の南側付近にあった何かが動いて薄気味悪い光を発した。
それは大きな卵だった。
青と緑のまだら模様の卵は春風の三倍以上の大きさがあり、不定間隔で振動し発光した。
卵は振動する度に白黄色にぼんやりと光り、ほんの少し透けた殻の中に大きな雛が蠢めいているのが見えた。
あの凶暴な鳥の子どもが今にも生まれそうなのだと、春風は理解し身震いした。
あの鳥が人食鳥で、自分は餌としてここに運ばれてきたのは明白だった。
そしてこの後、飛び去った親鳥が帰って来ても、また、目の前の卵が孵化しても結局は餌としての運命を辿る事になるのは間違いなかった。
幸い、親鳥は巣を離れた。
雛もまだ孵っていない。
逃げるなら今しかなかった。
春風は急いで逃げ道を探した。
雲で遮られ巣に月明かりは入ってこない。
もし月が照らしていたとしても、大木が小枝のように組み合わさった巣壁は高く、巣の中からでは外がどうなっているのかはわからなかった。
春風が立ち上がり巣壁をよじ登り始めた時、声が聞こえた。
「おい、お前。動けるのか?」
男の声だった。
そして確かに、日本語として聞こえた。
低くて太い、強そうな感じを与えるその声は、生きた人間がいるという安心感にさらなる心強さを付け加え春風の心に希望の光を灯した。
春風は巣の木によじ登るのを止めて、声のした方を見た。
鎧を着た白髪白髭の初老の男が春風を見ていた。
その男は春風のいる側とは反対の木の壁に寄りかかって寝そべっていたが、動く春風に気づいて上半身を起こし、声をかけたのだった。
日本人ではなさそうな大柄な男だった。
「はい。動けます。大丈夫ですか?」
「なんとかな。だが右半身が思うように動かん。ここから逃げるんだろ?肩を貸してくれんか?」
「はい」
と言うと春風は足元の死体を避けながら歩き、男のところへ辿り着いた。
「すまんな。ゲイルだ。お前は?」
と男は言った。
春風はゲイルの右脇に頭を入れ、左手をゲイルの腰に回して力を入れた。
思った以上に大柄だった体をなんとか持ち上げて起こすと、ゲイルは左手に持っていた長剣を杖代わりにして背後の巣壁に寄りかかって一人で立った。
「天野です」
と春風は答えた。
「アマーノ。珍しい名だ。その顔と服もな」
ゲイルは続けて
「旅人の話を聞くのは好きだが、話は麓の酒場でしよう。おれが奢る」
と言って大きな卵の背後の木壁を指差し
「あっちの壁から飛ぶしかない。崖下は順流サイワ川だ。
あの壁から飛べはブリテンまで、川が俺たちを運んでくれる」
と言った。
春風にはいろいろと聞きたい事があったが、時間の猶予がないのは十分にわかっていたので黙って頷いた。
ゲイルは春風の体を見渡し
「治癒は出来るか?瓶でも薬草でもなんでもいい」
と聞いた。
春風はゲイルの言葉に引っかかったが自分に出来る事は何もないので
「すみません。何も...」
と答えた。
春風が軽装の若者だったので予想通りとばかりにゲイルは頷き
「すまんが鎧を脱がせてほしい。後ろの留金が壊れて外れないんだ」
と言った。
ゲイルはすでに下半身の防具と小手は外し終わり、上半身の鎧だけを身につけていた。
その鎧を脱ぎ、大事そうに抱えている長剣を手放せば、川へ飛んでも沈まない状態になれるのだった。
巣の木壁に左肩を預けたゲイルは半回転して、春風に背を見せた。
ゲイルの鎧の背の右上部に、大きな穴が空いていた。
鎧の背面の金属はへしゃげて背中にめり込み、鎧だけでなく背中も大きく抉られ、真っ黒に開いたその穴は貫通しているようにさえ見えた。
かすかに青白く光っているような気もしたその傷は、生きているのが不思議な致命傷だった。
寒さと出血多量でゲイルは自分の体の状態が把握できていなかった。
「左は外せたんだが、右が外せん。右肩の下付近に留め具が三つある。わかるか?」
ゲイルは自分の右肩越しに振り返り春風を見た。
右手で口を抑え絶句する蒼白な春風の顔を見て、歴戦の猛者であるゲイルは自分の体の状況を理解した。
「...そうか」
そう言うとゲイルは無言で一度うつむいて、それから天を仰いだ。
その時、卵からピシッという音がした。
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