春風のヒストリア

@noghuchi

第1話 遥か彼方の君に

神などいない!

神など!

流れゆくマナの明滅!

世界よ、ああ世界よ!

ただ点滅する命があるだけなのだ!


〜徘徊詩人ディポン作「命」より抜粋〜


穏やかな夜だった。


カラフルで不揃いな七つの月が、長閑に浮かぶ大きな雲の隙間から顔を出し、ローデンティア大陸を南北に二分するウルガ山脈を照らしていた。


幻想的な夜景の中で、ウルガ山脈の東に聳えるウルガ山の頂は格別だった。


山頂の直径二キロメートルの火口湖に、消えることのない万年虹がかかっていた。


虹は五輪のシンボルのような幾重にも連なる光環で、山頂を通過する月の位置によって色が変わり、輪は発生と消失を繰り返していた。


水を司る古代神サイワによって造られたというこの火口湖は神と同じ名で呼ばれ、湖上にかかる多数の環月虹は七色の月光と絡み合いながら、昼にはない煌めきを見せていた。


人々がウルガ山と神の山、サイワ湖を神の湖と敬うのも当然の光景だった。


上半分が万年雪に覆われた標高二万二千メートルのこの白い神山の湖上のさらに上空を、天野春風が落下していた。


「ずおおぉぁっ!!」


空にぽっかりと開いた黒い穴から出てきた春風は、いったい何が起きているのかわからなかった。


春風はついさっきまで隣の大神元の家にいた。


春風と大神は仲の良い友人で、もう三十年の付き合いになる。


十五歳の大神が日本へやって来た年に春風が生まれた。


春風が日本で日本人家庭に生まれ平凡に育った平均的日本人であるのに対し、イタリア系ドイツ人の父と純日本人の母を持つ大神は、アメリカ生まれアメリカ育ちだった。


大神は見た目もよく社交的な上に理数系のギフトまで持っていて、十五歳の頃には既に世界的に知られた天才科学者だった。


才能に溢れた彼にとってアメリカは暮らしやすく居心地は良かったのだが、自分の研究を軍事利用されそうになったのをきっかけにアメリカを離れ母の母、祖母トメのいる日本に移住した。


日本で一人、小さな八百屋を営む祖母の養子となり苗字を今の大神に変えてから、この天才はどこの組織にも所属せず世間から隠れるように家に引きこもり、自身の研究に没頭して暮らした。


祖母が亡くなった後、八百屋だった大神家の一階の土間は、大神の研究所となった。


小学校三年生の春風がそこを「土間ラボ」と命名し、大神もその呼び名を愛した。


二人はよく土間ラボで時間を共に過ごした。


春風は今年三十歳になり、大神は春風の十五歳も年上だったので二人ともいいおっさんだったが、子供の時と変わらず大神は春風をハルと呼び、春風は大神をモッちゃんと呼んだ。


ちなみに、「元」と書き「はじめ」と読む大神の呼び名は当初「はじめちゃん」だった。


それが「モッちゃん」になったのは春風が大神の影響で佐野元春のファンになってからであり、小学生の春風が「元をモトって読めば二人で元春だ」と言ったのがきっかけだった。


春風がウルガ山上空を落ちる少し前、二人は土間ラボにいた。


大神が三十年研究し遂に出来上がった装置の完成を春風の誕生日と合わせて祝い、その装置の始動スイッチを入れた。


装置は無事に作動し、大神特製のこだわりのコーヒーを飲みながら楽しい話をしていたところだった。


大神の研究対象は生命宇宙理論であり、研究の集大成であるその巨大な装置は当初「全方向性超時空間情報集約解析装置、数式言語翻訳機能付」という開発者の大神が命名した無粋な名前が付いていたが、春風が「宇宙ラジオ」とすぐに命名し直した事によって、ドンキにでも売っていそうなポップな名前になったばかりだった。


宇宙ラジオを始動させた後、春風と大神はしばらく話し込んだが、その中に二つ変な話があった。


ひとつは大神がアメリカにいた頃の事で、ラジオから聞こえてきたのだという女の子の声についての話しであり、もうひとつは春風の高校入学前に行った南アフリカのクワズルナタールのドラケンスバーグ山脈登山で起きた二人の滑落事故の話しだった。


ラジオから聞こえてきた声の主である女の子は宇宙人に違いないという一つ目の話しは、ユーモラスかつセンチメンタルで悪くなかったが二つ目の話は奇怪で、春風には笑えない話だった。


登山事故のきっかけが鳥に襲われた事だったので、二人が「鳥事件」と呼ぶその滑落事故は、山崖を七十メートル以上も落下したにも関わらずたいした怪我もなく無事に帰ってきた奇跡の登山事故だった。


だが大神は、落下した春風は崖下にあった結晶石に心臓を貫かれて死んでいたのだ、と話した。


その話を詳しく聞こうとしていた時に春風はオレンジ色の光に包まれ、土間ラボの地面に突如開いた黒い穴の中へ落ちた。


春風は真っ暗な中を落ちている事に焦った。


何も見えず風も匂いもないその空間の中で、奇妙な事にあらゆる方向に落ちている感覚があった。


もがいてみたがいっこうに埒が開かないまま時が過ぎ、もがくのをやめた春風はいつの間にか夜空に開いた黒い穴から放り出され、ウルガ山上空を落下していたのだった。


重力加速度が加わり一方向にぐんぐん落ちていく自分の体に吹き付ける凍てついた暴風が体に痛みを与え、その痛みが重力落下しているのだと言う現実感を春風の心に突きつけた。


とぎれとぎれの雲を突き抜け落ちているらしいという事以外まったく状況がわからない中、このままではいずれ地面に激突してしまうと言う恐怖が頭をよぎった時、上空から何かが近づいてくる事に気がついた。


最初、夜空の中に浮かび上がった小さなひとつの点のように見えたそれは実は二つで、二つの点ではなく二羽の鳥だとすぐにわかったのだが、その鳥の大きさに春風は再び現実感を失った。


ぎらりと光る鋭い目の上に生える黒々した羽毛が嘴の両脇を伝って顎の下まで伸びているので、立派な黒髭を生やているように見えるその鳥は翼を畳み、春風目がけて一直線に突進してきた。


しかし春風の頭の中、あるいは無意識下には、鳥という生き物の大きさの限界値があったので、そのヒゲワシのように見えるその鳥は自分の眼前で止まったまま、姿だけが大きくなっていくように錯覚した。


鳥は春風と並行して滑空し大きな目で春風を一瞥すると右脚の四本指を大きく広げ、春風の胴体を鷲掴みにした。


春風の心臓の鼓動は恐怖のあまり跳ね上がった。


餌を右脚で握りしめる事に成功したオスのデカント・イーグルは翼を広げて吠えた。


「ギュウォォゥ!」


背後からついてきたメスも翼を広げて叫び、二羽は垂直降下から水平飛行に切り替わった。


広げた両翼の幅が三十メートルを超える二羽の巨鳥は、もうじき生まれる雛のための餌と共にウルガ山脈の南側斜面にある愛の巣へ悠々と飛んでいった。

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