第2話




第一章 賭けと八年越しの初夜




 時は遡ること、八年前──。


 ガイハンダー帝国の帝都は大陸の北方寄りに位置する。都を囲むように聳える山脈はミッテルホルンと呼ばれ、自然の要塞として都を、ひいては国を守っている。その山々の間の比較的なだらかな地形を利用して開かれた都は、冬ともなれば寒さも厳しく人々は屋敷に籠もって暖炉のある暖かな部屋で過ごすことが多い。


 帝都の貴族街にあるホラント子爵家も同様だ。四人家族は夕食後に、それぞれの暖められた部屋でまったりと過ごしているはずだった。いつもならば。


 子爵家のきんと冷えた薄暗い廊下をものともせず、激しい勢いで突き進んだバイレッタは居間に通じる扉を開いてたんを切った。


「お父様、どういうことですのっ」


 中で夕食後のお茶を飲んでいた両親が娘の剣幕に動じることなく振り返って、そろってため息をついた。


「相変わらず騒々しいこと。妙齢の乙女の態度ではありませんよ、バイレッタ」


「お母様、お小言は後になさって! お兄様から信じられない話を伺ったのですけれど、本当ですか」


「聞いたのなら、その通りだ。この度伯爵家から縁談が来たのだ。旧帝国貴族の血を引く由緒ある家柄の相手だぞ。素晴らしく名誉なことだ。絵姿を見たか、見目麗しい男だろう?」


 旧帝国貴族とはガイハンダー帝国の前身たる時代から貴族位を拝命している由緒正しい血筋を持つ人々のことだが、全くもって今の自分には関係ない。威光どころか無価値で、さらにいえば厄介なものでさえある。


「そんなもの、今頃暖炉の中で形すら残っておりませんわ。私、どなたにも嫁がないと言いましたけれど!?」


「見もせずに放り込んだな……結婚しないなどとそんなことが許されるはずがないだろう。ホラント子爵家は代々騎士の家系だ。お前もその血を引いているからには武勲に恥じないよう、軍人の夫を立てなさい。相手は陸軍の少佐だ。この度の戦で中佐になられた方でそれはそれは立派な方なんだぞ。年齢は二十五歳と少し上だが、お前の手綱を握る……懐柔する……なずける? とにかくお前の相手にはちょうどいい年齢だろう」


「何度も言い直さないでくださいまし。だいたい騎士といっても田舎のならず者が腕を頼りに爵位をいただいただけのこと。それもせいぜい六代ほど前の話で、もとは平民ですよ。そのような素晴らしい方でしたら、何も私のような血筋の娘でなくともよろしいでしょうに」


「お前はすぐに我が家を馬鹿にするが、これでも脈々と続いた騎士の血筋は立派なもので──」


「お父様の自慢話はどうでもいいのです、今はなぜ私なのかお聞きしておりますの」


「それがぜひともお前を、との話でな」


「地位も名誉もある伯爵家のお方が直接私に申し込まれるはずもありません。どなたからのご紹介ですの」


「あー……」


 それまでじようぜつに語っていた父は、一瞬にしてきまり悪そうに頰をいた。うそを考えている時の父親の癖に、ますますバイレッタの瞳は鋭くなる。


 母親譲りの月の女神もかくやという美貌に、勝気な少女の意思が光るアメジストの瞳は、燃えるような炎を宿している。


 ストロベリーブロンドの長い髪をかき上げて、父をねめ付けた。


「お父様、まさかとは思いますけれど、ドレスラン中将閣下ではありませんわよね?」


 帝国陸軍の大佐である父は十五年ほど前の北方戦線で連隊を率いていた際、師団長を務めていたモヴリス・ドレスラン中将に気に入られ、友人関係を築いている。単なる悪友止まりであれば家族もそれほど心配しないのだが、モヴリスは酒、賭博、女と派手な遊び人で有名だ。真面目、実直な父となぜ馬が合うのかは不思議なところだが、ごとに連れ出されては、恐ろしい額を出費して帰ってくる。


 目下、我が家の頭痛の種、悪魔の申し子と言っても過言ではない。


 父の無言を肯定と受け取って、バイレッタはばしんとテーブルをたたくように両手をついた。がちゃんと茶器が派手な音を立てるが、気にするものか。


「お父様、正気ですか! いったいどのような理由があって十六になったばかりのわいい娘を嫁がせようなどとお考えになられたのです」


「はあ、自分から堂々と可愛い娘などと言い切るお前なら大丈夫だ」


 開き直った父は手にしていたカップをテーブルに戻し、いだ瞳を向ける。


「お前の想像通り、ドレスラン中将閣下からのご紹介だ。なんでも可愛がっている部下に嫁を探していたらしい。今度の南部戦線は時間がかかるだろう? せめて一時の思い出だけでも愛らしい娘を嫁がせて添わせてやりたいと仰せだ」


「愛らしいという点は誠に同意いたしますけれど。閣下が可愛がっているだなんて、どんな危険人物なのかしら。きっと、愛らしい娘をあてがわれただけではない何かがあるのでしょうね」


「お前のその自信はどこから来るのか、お父さんはちょっと心配になるんだが……まあ、実際は根性があって肝が据わっている腕っぷしのたつ性別が一応女性に分類される相手を探しておられたんだが、そのような女性なかなかいないだろう。そんな中、お前の学生時代の噂を聞き付けられた閣下が白羽の矢を立てたというわけだ」


 学生時代というのは昨年卒業したスタシア高等学院のことだろう。確かに平凡とはかけはなれた学院生活を送っていたし、も起こした。それを肝が据わっていると捉えられたのか。


 相変わらずモヴリスという男の感覚はおかしいのだなと認識する。


「全く愛らしい要素を感じないのですけれど」


「正直、見た目は条件に入っていない。度胸と腕だ」


「どこの道場破りの条件ですの!?」


「ははは、お前の縁談の条件だ。さすがは武勲に名高いホラント家の娘だな」


 快活に笑う父に、バイレッタもにこやかにほほむ。


「なるほど。お父様はここで胴と脚を離れさせたいとお望みでいらっしゃいますわね」


「待て、待て、待て! 目が本気じゃないか」


「ああら私、実直で真面目一辺倒のお父様の娘ですもの。噓も冗談も大嫌いですわ」


 ほほほと乾いた笑いを向ければ、父は顔面そうはくになった。


「お父様の望みをかなえられるなんて、歓喜で涙が出そうだわ」


 壁にかけられた抜き身の剣を取ると、おもむろに振り下ろす。父も素早く壁に飾られたもう片方の剣をつかむと、即時に応戦した。


 がきんと剣がぶつかる物々しい鈍い音が居間に響いた。


「お前のそういうところが縁談が来ない理由なんだ! まだ学生のうちから商売なんぞに手を出して! 挙げ句に社交界では不名誉な噂ばかり立てられてどれだけおとしめられたか。女には女の幸せがある。早々に片がついてよかっただろう」


「ですから商売人として生きていきますわ。嫁ぐ気はないと散々申し上げております」


「それは許さないと言ってるだろ!」


 父娘おやこが剣を振り回し、居間の隅でやり合う間、母はゆっくりとお茶を飲み干すのだった。



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