上も下もないスタート地点
ダイビングインストラクターになるには、協会が指定するショップにてインストラクターコース(IDC)を受講した後に、協会が定期的に開催するIE(インストラクター・エグザミネーション)に合格しなければならない。
私が受けるIE開場は、プール練習で慣れ親しんだ土肥101となる予定だ。
片岡さんは、『陽菜乃さんは2月、私には3月のIEで合格』というゴールを定めた。
加えて『繁忙期の5月の前に、ちゃんと働いてもらわないと店側の損失だ』とプレッシャーをかけることも忘れなかった。
今、季節はクリスマスが終った年末年始。
しかし私のトレーニングはそれと関係なく始まった。
インストラクターコースのテキストは、これまでのコースのようなテキストというのはなかった。今まで習ってきたオープンウォーターからダイブマスターまでの全てのテキストがそれとなるのだ。その上、10㎝以上の厚みがあるインストラクターマニュアル、物理・生態学・自然学・器材などを網羅したダイビング用百科事典などが使われる。
それを目にした時、血の気が引く思いだった。
私が陽菜乃さんとともに学習できるのは、今から行う学科プレゼンテーションの授業だけだった。
陽菜乃さんは既にIDCを始めてひと月が経過していた。
今は、IEに向けての最後の仕上げに突入しているのだ。
◇◇◇◇
学科プレゼンテーションとは..
オープンウォーターコースからダイブマスターコースの範囲で、指定されたセクションを授業としてプレゼンをしていく試験。
もちろん、生徒は受講生である現役ダイブマスター達だ。
採点は減点方式で行われる。
◇◇◇◇
「大丈夫だ。逆に言えばどんなに下手くそなプレゼンをする奴でも必須項目をこぼさない限り合格しちまうんだから」と片岡さんは言っていた。
私は週に2つ学科セクションを与えられ、片岡さんの前でプレゼンテーションの練習を行った。
片岡さんの指摘は端的でわかりやすいものだった。
だが時折、ひとを見下したような発言が気に障ることもあった。
彼は人が失敗すると、それを無様に誇張してマネするクセがあるのだ。
これは彼に考えがあって行っているのではなく、彼のこれまでの人生において出来上がったクセのようなものなのだ。
だからこそ、厄介なのだ。
片岡さんには悪気がなく、不快をばらまいてしまうだけなのだ。
私はサウザーダイビングでIDCを受けながらも、当初の通りショップVisitの手伝いをしている。
その折に、詩織さんに片岡さんの話をすると『やっぱり変わってないわねぇ.. 』と呆れている様子だった。
片岡さんはその頭の回転の良さと相手を見下す発言で、新人を何人もやめさせてしまっていたようだった。
それも大半、本人には悪気がなかったのかもしれない。
そして、ただ恨まれただけだったのだ..
当時、同じショップに勤めていた悟志さんや詩織さんは、それらのフォローに手を焼いたようだった。
とにかくIDCは私の想像以上に学ぶことが多く、その上に、ショップVisitの手伝いもすることで、目まぐるしい毎日だ。
それでも柿沢自動車での本業はおろそかにはしたくはない。
IEまでの数カ月、私の恋人は『眠眠打破』になってしまった。
=====
『大丈夫、大丈夫。あんなの緊張することない。ここでやった内容と一緒だから』
と片岡さんは、いつものセリフを言う。
いよいよ明日から土・日2日間にかけて陽菜乃さんのIEが始まるのだ。
出陣式というわけでもないが、今夜はお鍋パーティーの開催だ。
「でも、やっぱり他のダイブマスターって凄いんでしょうか? よく現地サービスで『業務をしているスタッフがダイブマスター』ってパターンあるじゃないですか。あのプロ仕様のロク半姿を見るとレベルが高い様に感じてしまいます」
そんな言葉に片岡さんは薄ら笑いを浮かべながら
「まぁ、実力があるのは一部だけさ。ほとんどはどんぐりだ。陽菜乃もタロちゃんもインターンシップコースだろ。実務をやってるわけだ。だが、実は受講生のダイブマスターには実務経験ない奴も結構いるんだ。『ダイブマスター、インストラクターを短期間で! 』という広告あるだろ。そういうところ出身の奴は不合格にならないコツを学んできている奴が多い。どんな経緯だろうと、所詮IEなんてスタート地点さ。でも、2人は悪くはないよ」
今日はやたらと
ていうか、私のこと『タロちゃん』呼ばわりしているのか?
『桃太郎侍』だからに違いない。
軽く、不本意なんだが..
「それよかタロちゃんもIE、来月なんだから、そろそろスパートかけるからな。学科プレゼンは形になってきているから、これからは海洋実技だ。スキル的には、詩織さんが教えてくれたスキルで大丈夫だろ。あとは水の中で伝える技術を磨くんだ」
****
——土曜日
陽菜乃さんが土肥でIEを受ける当日、サウザーダイビングは富戸日帰りファンダイビングの予約が入っていた。
いつものように荷物の運搬、ウエイトの用意、受付などを済ませながら思った。
「(確かにこれら実務は知らず知らずに『私の自信』につながっているのかも)」
・・・・・・
・・
「では、今日はうちのタロちゃんから富戸のブリーフィングをしてもらいます。どうぞ、タロちゃん」
「こんにちは。ダイブマスターの柿沢桃です。私はこの富戸が大好きなんです。なぜかというと— 」
お客様前のブリーフィングもだんだん慣れてきた。
ただ必ずそのあとに『なぜタロちゃんなんですか? 』とゲストに聞かれることが多い。
『桃太郎侍』なんて私だって知らないのに説明するのが面倒くさい。
だからいつも「『タロちゃん』ていうのは、私が飼っている犬の名前から付けられたあだ名なんですよ。『太郎丸』っていうハスキー犬がいるんですよ」と理由を改ざんしている。
海に潜降すると水温は13度。
今日は特別、水が冷たい。
陽菜乃さん、海洋プレゼンテーション、上手くいっているかな..
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