第44話 お願い、先生を助けて(1)
その日もフォードと薬屋のゲイル・マルクがマントを羽織って病院にパディを訪ねて来た。二人はいささか深刻な
「フォードさん、ゲイルさんこんにちは。ごほっごほっ。ゲイルさん、先日は薬、ありがとうございました。ごほっ」
窓の外を見れば雪がちらついている。マントを脱いだフォードとゲイルはどちらも黒いロングコート姿。この時、リリカとサーキスは病院内の掃除に勤しんでおり、この場にはいなかった。
「やはり咳は止まらないんですね…。…今日は先生に質問があって参りました」
パディの方からゲイルに握手を求める。ゲイルのその手は気持ち弱々しかった。待合室の席に三人が座る。部屋の端には薪ストーブがあり、煙突は天井近くで九十度に曲がって窓ガラスの外へ煙が出て行く仕組みになっていた。フォードが話を切り出した。
「あのな、パディちゃん。ガルシャ王国の北東に隣接するブラハム王国、そこからさらに北にあるウッダート王国って所で謎の病気が流行ってるんだって。どこから発生してるかわからないけど、なんか人の体が黒くなったり、咳はもちろん、血を吐いたりしてるって。かかった人間はみんな死んでるんだって。たちが悪いことに結核みたいに人から人に感染するみたいなんだ。やっぱりそれはこっちまで来たりするのかな? 何の病気かわかる?」
パディの反応は早かった。
「ペストだ」
「何ですかそれは?」
「過去にローマ帝国で猛威を振るった黒死病の別名です。ペストは国が滅ぶほどの感染症です。放っておけばペストは必ずここまでやって来る。ごほ…。対処しなければ、ヨーロッパ全土を覆いつくす。何千万人と死にます。
パンデミックが起これば人の尊厳も失われる。他人が感染者に見えて人間同士の信頼も失われる。感染者以外も仕事を失い、食料すら手に入らなくなる。略奪や殺人、あまつさえその混乱に乗じて権力を手に入れようという輩も現れる」
フォードとゲイルは息を飲んだ。
「具体的な対策はどうすれば…」
「今すぐ国を封鎖するべきです。ここガルシャ王国はウッダート王国への入国は禁止、さらにブラハム王国への行き来も封鎖するといいでしょう。…ごほごほっ。感染元と
「し、知り合いじゃなくもない…」
「当たり前ですが、北への貿易もすぐさまやめさせてください。ごほ…」
パディは意地悪そうな笑い顔で続ける。
「まさか不動産屋さんが工芸品や薬、食料品などの輸出入を行ってるわけがありませんよね? もしやっているのなら今すぐやめた方がいい。ごほ…。フォードさんの預金通帳がマイナスになりますよ」
フォードは目を泳がせて言った。
「ま、まさか不動産屋の仕事じゃないだろそんなの…」
「それからペストの薬はすでにあります」
二人が大声をあげて驚いた。
「何だって⁉」
「もうすでに⁉」
「そ、それは………ごほっ。ごほっ! ゲホゲホッ! ゲホッゲホッ! ゲホッ!」
パディが立て続けに大きな咳をしたかと思えばその場の長椅子に倒れ込んだ。
「パディちゃん⁉」
フォードが倒れたパディを抱え起こし、肩を揺さぶった。長身ながら痩せたその体はそれをやることにも造作なかった。
「先生⁉ フォードさん、これは例の心臓病では⁉」
「パディちゃん!」
フォードが天井に向かって叫んだ。
「リリカちゃん! サーキス! すぐ来てくれ! パディちゃんが倒れた! 早く―っ!」
何事かとリリカとサーキスが二階から駆け足で降りて来た。
「先生!」
倒れたパディにサーキスは動揺していたが、リリカの方は気を確かに持っていた。
「フォードさん、パディ先生を床に下ろしてください!」
彼女は心の準備はできていたらしい。フォード達から事情を聞かずとも心臓の処置にサーキスに指示を出した。
「サーキス、先生に心臓マッサージを!」
サーキスは両手を重ねてパディの胸に体重をかけてマッサージを行う。胸が五センチほど沈むまで押し込む。続けて三十回。速く絶え間なく。そこへリリカがパディの鼻をつまんで口で息を吹き込む。その工程をしばらく続けるとパディが息を吹き返した。
「ガ、ガハッ…」
「先生!」
「パディちゃん!」
四人が安堵のため息をつく。
「た、倒れたか…。胸が、痛い…。ごほ…」
サーキスがパディを抱え上げると診察室のベッドの上で横になってもらった。四人がベッドの上からパディを眺めた。たった一人、事情を知らないサーキスが質問した。
「先生はどうしたの?」
「先生は心臓が悪いの。病名は
サーキスが呪文を唱えて心臓の外観を視る。そしてパディの心臓は大きくなっていた。本来、握りこぶしほどの大きさしかない心臓であったが、心不全を起こしたパディの心臓は五倍ほどの大きさに膨れ上がっていた。心臓は大きくなればなるほど、その機能は低下する。
「で、でっかくなってる…。ばあちゃんの時より大きいよ…」
心臓の内部を視てさらに驚いた。大動脈を通って流れるはずの血液が逆流しているのである。動脈へ送るはずの血液を、毎回一旦心臓が受け止めて大動脈へ放出している。そして心臓の動きはすこぶる悪い。今にも止まりそうな弱々しさだ。
「ぼ、僕の心臓…どう…なってる?」
どういう因果か心臓ばかりを見てきたサーキスが涙を流した。
「心臓が止まりそうだよ…。先生、死んじゃうよ…」
全員が言葉をなくした。しばらく沈黙が流れたが、リリカが口を開いた。
「お願い、サーキス。先生を助けて。先生の心臓に手術が必要なの…。あたしが手術をできればやりたいけど、致命的に不器用だもの…。心臓の手術は特別な器用さが必要よ。それに心臓ばかり視ているあんたならきっとできるわ」
リリカはかすれた声でブルブルと震えていた。瞳から大粒の涙がこぼれた。今にも爆発しそうな感情を必死に抑えているように見えた。
義理の祖母の心臓も定期的に観察しているサーキスは、リリカの言葉の意味をおおよそ理解した。心臓の大動脈弁の修理が必要だ。自分がパディの中を治療するしかない。僧侶であるサーキスが。
「もう少し先に言ってくれたら心の準備ができたのに…。先生が倒れてからなんて…」
「何度も言おうとしたの。でも言えなかった。あんたは今までここにいた僧侶達は全員がカスケード寺院のせいでいなくなったって思ってるみたいだけど、違うの。一部の僧侶が先生の心臓を視て驚きながら消えて行ったわ。そしてあたしは、そんなに先生の心臓は悪いんだ、みたいな感想を持つことしかできなかった。
今までのおじさん僧侶の中に一人だけ、あんたみたいに手先の器用な人がいたわ。特にあたし達は仲良くしてたし、ある日軽い気持ちで言ってみたの。先生の心臓をいつか手術してくれないかって。その人は笑っていたけど、次の日にはいなくなっていたわ。だからね、サーキスには言えなかった。あんたまで失うわけにはいかなかったから…」
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