第21話 ダリア・アリッサム(3)
サーキスはよろよろと力なく起き上がる。顔はザクロのように腫れ上がっていた。
そして彼は小さく深呼吸すると、意を決してイノシシのように姿勢を低くして突進した。敵の男は見たことのない動きに面食らい、簡単に懐を許した。男はタックルで膝に組みつかれる。
サーキスは両膝を束にして掴むと、一気に持ち上げて敵をテーブルのようにひっくり返した。サーキスはすかさず男の腹の上に腰を落とす。マウンテンポジションの体勢だ。
サーキスは鉄槌(拳の小指側面)を男の顔に叩き落とす。勝負を急ぎたい彼は左右の拳を何回も振り下ろした。
(力が入らねえ!)
下の男が腰を浮かしているせいで決定打にならない。やがて腰の下から完全なブリッジで突き上げられてサーキスは腹の上から転がり落とされた。
サーキスは転がりながらも、男の首と胸に自分の脚をからめ、敵の左腕をホールドすると、力強く関節と逆方向に捻り上げた。腕十字固めだ。
「腕をへし折るぞーっ! さっさと降参しろ!」
完璧に関節技が
サーキスはそのままボディブローを喰らい、腕が離れて地面に崩れ落ちる。
そこで異変が起こった。敵はその時になぜか自分から尻もちを付いた。左足を押さえて絶叫を上げる。
「うっわーっ! ぐわーっ! あ、あっあーっ!」
(…え? 何で? …まだ何もしてないけど…?)
サーキスは片目を潰した顔で立ち上がった。
ファナとリリカが駆け寄って来た。男はもがき苦しみ、一向に起きる気配はない。
「サーキスの勝ちだね! サーキス、ウイン!」
ファナが笑顔でサーキスを称える。
(フッ、レフリーがそう言ってるから俺の勝ちかな…。さて、この兄ちゃんに回復呪文でもかけてやるか)
「スタフ・ワンズオゥルド・ソトジョンディビ・オフィスレイターズ……。やっぱりやめた」
「…ダリア、な、何なんだこいつら…?」
いつの間にかダグラスを見下ろしていたダリアが言った。
「さっき行った病院の人達だよ。そのショートボブのお姉さんは誰か知らない」
「私はファナだよ! 二人の友達! このお兄さんは足が弱点なんだね! 足を蹴れば私でも勝てるんだね!」
ファナはおかんむりの様子で男の足へ蹴り真似をした。
「立ちな」
サーキスが男に腕を伸ばし、肩を貸した。
「俺はサーキス。あんたは?」
「俺はダグラスだ…」
「ダグラスさんめちゃくちゃ強いぜ! 拳闘士と戦うのは初めてだ!」
サーキスはダグラスを連れて元来た道を歩いて行く。
「おいおい、どこに連れて行くつもりだ?」
「病院だぜ! 俺はライス総合外科病院っていう所で僧侶兼、看護師をやってるんだ」
「…お前、僧侶なら俺に回復呪文をかけろよ!」
「やだね。そしたらダグラスさん逃げるもん」
「俺をどうするつもりだ?」
「先生に診せる。うちの先生ならあんたの足をきっと治してくれるはずだぜ」
「ハッ、馬鹿な! どこの医者でも無理だったものを…。ダリア、どうにかしろ!」
ダリアは呆れ顔で言った。
「観念しな。この人達はどうもお節介な人種だよ。ほら、見てごらん。ショートボブのお姉さんがあんたのこと睨んでるよ」
ファナは全力でダグラスを睨みつけていた。三人の中で一番怒っているようだった。
「リリカって言ったっけ? たった三百ゴールドでこんなに他人の人生に関わって。全く効率の悪い商売だね?」
「ははー…。うちは患者さん少なくて暇なものでして…。たはは…。はい、さっき手術があるって言ったのも嘘です」
「ふふふ。じゃあ、先に言っておくよ。こいつはダグラス、二十五歳。職業は拳闘士。見ればわかると思うけど、あたしの男だよ! 以前はコロシアムのチャンピオンで負け無しだった。でも、しばらく前に足を故障してねえ。以来、出れば負ける弱小ファイターに早変わりさ。あたしは引退しろって言ってるけど、なかなか言うこと聞かなくてね。フットワークを使わずに戦う方法でも探してたのかね」
(どうりで足を使わなかったわけだ! 俺のダウンを攻めたりすればあっという間に勝ってたはずだぜ!)
「ダリア、勝手に話すな! …ま、敗者は勝者に従わざるを得ないか…。サーキスって言ったな。お前、僧侶のくせに強いな! パンクラチオンか?」
「え? 俺の技ってそういう名前なの⁉ 俺はV流格闘術って呼んでた」
「はははー! 勝利のVか⁉ かっこ悪い名前だな!」
「そ、そうだね…」
(今思ったけど、Vって言うのは危険だ…。これからはパンクラチオンって言うようにしよう…)
「ただいまー」
皆が病院へ帰るとパディが怪我だらけのサーキスの顔を見て驚いた。
「ど、どうしたんだい⁉」
「ちょっと喧嘩しちゃった。患者さん連れて来たよ。ダグラスさん、二十五歳、職業は拳闘士。足が悪いって。踵が痛いらしい」
ダリアがパディに挨拶した。
「さっきはどうも」
サーキスがダグラスの足を見ながら訊いた。
「ダグラスさん、まだ足痛い?」
「あ、ああ。もう大丈夫だ」
「じゃあ、自分を回復しよっと。スタフ・ワンズオゥルド・ソトジョンディビ……」
サーキスの顔の腫れが取れたのを見てから、パディがダグラスをベッドへ促した。
「さあ、ダグラスさん。うつ伏せで寝てください。うちの僧侶が足の中を視ます」
靴を脱いでダグラスがベッドに乗るとサーキスは驚いた。
「うわっ、すごい腫れ! 右足と左足が全然違う!」
彼の踵は左足だけが腫れ上がっていた。
「…はは、実は靴を履いただけで痛いんだ…」
「サーキス、
「はいよ。アハウスリース・フィギャメイク・コトゲイシャス……」
サーキスが呪文を唱え終わるとパディが注文した。
「まず踵の腱を視てくれ。それがアキレス腱だ」
「あ、神話のだね! アキレスって人が切られて死んだところでしょ! へえ、これなんだ」
「こほんっ。骨とアキレス腱の間にクッションみたいなものがあると思うけど…」
「あるぜ! …ん? 腫れてるような…」
サーキスは右足と見比べてみた。
「全然違うぜ! 左足の、そのクッションってのがめちゃくちゃ腫れてる!」
「それは
(先生はこんな細かい部分をよく知ってるな。毎回関心するぜ)
「うん? 何か尖って…。右足と比べたら…。うん! 右足は何ともない! 左足の踵の骨が尖ってその
「よし、もういいよ。…ダグラスさん、少し起きてください」
ダグラスがベッドに腰を下ろすとパディが言った。
「あなたの足は、アキレス腱の
拳闘士という仕事のせいで滑液包を痛めたのでしょう。なに、手術すれば治りますよ。今すぐ手術できます。滑液包を少し切除して、尖った骨を削れば大丈夫です。以前と同じように痛みもなく走り回ることができますよ。手術は呪文で眠ってもらうので痛みもありません。すぐに終わって帰れますよ」
そう笑顔で言うパディにダグラスは空恐ろしくなった。踵を切る、骨を削るという言葉に体が震えた。スレーゼンの人間ならこの病院が何をやっているか想像できただろう。
しかしダグラスはよそ者、さらに目の前の医者は初対面だ。流されるままに病院に連れて来られ、何をされるかわからないものにイエスと簡単に言うことはできなかった。彼は返事に声が出なかった。
「何をびびってるの⁉」
言ったのはファナだった。部外者ではあったが、いまだにダグラスに執着していた。
「パディ先生は天才だよ! 手術に失敗した話なんか聞いたことないもん! 黙って任せておけばいいんだよ! だいたい、さっきの勝負もダグラスさんの方がサーキスより圧倒的に強かったよね?
それでも最後にサーキスが勝ったのは、サーキスのちょっとした勇気とか粘り強さだと思うよ。ダグラスさんはこのままでいいの? ここで勇気を出さないと一生、足が悪いままだよ。そんなんだから彼女に子供堕ろせとか言うんだよ。この先、試合に出ても連敗街道まっしぐらだよっ!」
ファナは言いたいことをこれで全て言ったらしい。
「リリカ、サーキス! 私、もう帰るね!」
彼女はダグラスに「いーっだ!」と捨てゼリフを残して去って行った。全員がファナを見送るとダグラスが笑った。
「はっはっはっはー! いいよ受けるよ、手術。もう後は野となれ山となれだ」
ダリアが微笑んだ。
「ダグラス、頑張んな!」
*
手術も無事終わり、玄関で皆が別れの挨拶をしていた。もう外は真っ暗だ。ダグラスはキツネにつままれたような顔で立っていた。
「不思議だ…。靴を履いても全く痛くない…。先生、ありがとう」
「別に大丈夫だと思いますが、一応、明日は安静に。明後日には走っていいと思いますよ」
ダグラスの隣にはスケッチブックを持ったダリアが立っている。その中身はサーキスが描いた胎児の絵、ダリアの子供だった。
二人は最初に出会った頃と比べてまるで別人のように穏やかな顔になっていた。
「サーキス! あんたは思ったけど、女の前で張り切るタイプだね! どっちがあんたの彼女?」
「あのその、ごにょごにょ…」
サーキスは口ごもり、リリカは素知らぬ顔をしていた。
「ハハー! その様子だとまだ片思いだね! せいぜい頑張んな!」
「あの、ダグラスさんにお願いがあるんですけど」
リリカが言った。
「またチャンピオンに返り咲いたらヒーローインタビューの時に、『スレーゼンのライス総合外科病院で足を治しましたー』って言ってくれません? 病院の宣伝になります!」
「それはいい! 僕からもよろしく頼みます!」
パディとリリカが手を取り合って喜んだ。
「それはどうかと思うぜ…」
「はいはい、サーキス、君の言いたいことはわかっている。どうせ遠方から患者を呼んだら否応なく期待されるって言いたいんだろう。しかしだ、僕が欲しいのは明日のパンじゃなくて今日のパンだ! そもそも君は頭が固い! 石頭!」
数週間後、病院にダリアとダグラスから結婚しましたというハガキが届いた。
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