掌 恵理子ふたたび

北浦十五

第1話 掌を翳す少女



「そうね、今の貴女の偏差値なら大丈夫でしょう」



進路指導の教師の言葉に恵理子はホッとした表情になった。


「でも、油断したらダメよ。貴女は1校しか受験しないんだから」


「あっ、はい。頑張ります」


恵理子は少し慌てたように言った。

そんな恵理子を見ていた教師はふうっ、とため息をついた。

そして身を乗り出して来た。


「今からでも考え直してみない? 貴女ならもっと上の私立でも合格できると思うけど?」


そんな教師の言葉に恵理子は少し苦笑した。

この言葉はもう何回も言われている。この学校から有名大学合格者を出したい、と言う学校側の思惑も判るけど。

ただ、恵理子はそんな事よりもこの先生が自分の事を真剣に考えてくれている事も判っていた。それだけに心苦しいのだ。


「申し訳ありません。先生が私の為を思って言って下さっている事は理解しています」


「貴女も頑固よねぇ」


目の前の教師は再び大きなため息をついた。


「わたしはねぇ、有名大学のブランドとかはどうでも良いの。ただ、大きな大学は沢山の学生が集って来るし講義をする教授達も多彩な人がいる。わたしは貴女の可能性を広げてあげたいの。貴女の中に眠っている可能性はとても大きいと思うから」


恵理子はこの教師の言葉を、とても有り難いと思って聴いていた。

この人は私の事を親身になって考えてくれている。

ちょっと雄一さんに似てるな、と思った。


「先生は私の事を真摯に考えて下さっています。だからこそ、です」


「だからこそ?」


教師はキョトンとした顔になった。

すかさず恵理子は言った。


「私は先生みたいな先生になりたいんです。生徒の事を自分の事のように考えてくれる先生に」


こう言われた教師は黙り込んでしまった。

それから口元に笑みを浮かべた。


「貴女はわたしを過大評価してる。わたしなんて大した教師じゃ無いわよ」


「いいえ」


恵理子は少し熱っぽく語った。


「先生は素晴らしい先生です。この間も生徒の為に親御さんや教頭先生や校長先生ともやり合ったじゃないですか」


「あー、アレは若気の至りと言うか」


目の前のまだ若い教師はポリポリと頭を掻いた。

この場の雰囲気がガラッと変わった。

教師と生徒では無く、ガールズトークのような感じになった。


「でも進路指導なんて大役を任されたじゃないですか」


「こんなの校長達の嫌がらせよ。そのうち根を上げるとでも思ってるんでしょ。冗談じゃ無いわよ。ちゃんとやり遂げてアイツらの鼻を明かしてやる」


そう言って服のポケットから煙草とライターと携帯灰皿を取り出した。


「先生!学校内は禁煙ですよ?」


サスガに恵理子は少し大きな声を出した。


「バレなきゃ良いのよ。ちょっと待っててね」


そう言って女性教師は席を立って換気扇の下に向かった。

この学校の換気扇には防臭フィルターが付いているので匂いのほぼ全てを吸収してくれる。

彼女は換気扇の出力を最大にしてから煙草に火をつけた。



ふうっ。



煙草を味わうように吸い込むと白い煙を換気扇に向かって吹き出す。

煙の全ては換気扇に吸い込まれていく。

3回くらいその動作を繰り返してから煙草を、持っていたピンク色の携帯灰皿の中に灰が落ちないように入れてグシャグシャと指でつまんで火を消す。


恵理子は勿論、煙草を吸った事はないが煙草を吸う女性教師の仕草に優雅な大人の女性を感じた。


女性教師は煙草らをしまったポケットから小型のプラスチック容器を取り出した。

そしてその容器の上部を押して室内にスプレーを何回もした。どうやら消臭スプレーのようだ。自分の着ている服にも念入りにしてる。

最後にもっと小型のスプレーを取り出して自分の口の中にスプレーした。それから自分の手を口元に持っていき、はぁっと自分の口臭を確認してから「よし」と呟き自分の席に戻ってきた。


「完全犯罪成立ですね」


悪戯っぽく笑う恵理子に女性教師はすまなそうな顔をした。


「ゴメンね。でも貴女とはガチの話をしたかったから」


「ガチの話?」


不思議そうな顔をする恵理子に女性教師は言った。


「そう、ガチの話。貴女の本音を聞かせて欲しい。教師になりたい本当の理由」


「・・・本当の理由」


恵理子は下を向いてしまった。


「貴女との面談は3回目よね? 最初に貴女から教師になりたい、と聞いた時は嬉しかった。貴女なら良い教師になってくれると思ったから。だけど貴女が公立の教育大学しか受験しない、と聞いた時にはちょっと違和感を持った」


女性教師は言葉を続ける


「普通の大学でも教育学部はある。2回目の面談の時には確信した。貴女は学力もあるし精神力も強い。何より知的好奇心はとてもある。そんな貴女が公立の教育大学しか受験しないのは教師になる事と同時に何かやりたいことがあるんじゃないか? って。貴女は何か目的を持っているじゃないか? ってね」


女性教師は柔らかく微笑んだ。


「この部屋は防音になってるからここでの会話は誰にも漏れない。勿論、わたしは貴女の話した事は絶対に口外しない。無理強いはしないけど、わたしは貴女の目的を知りたくなっちゃったの。1人で抱え込んでるより誰かに話した方が、その目的が達成される可能性が高くなる事もあるのよ」


「・・・可能性が高くなる? 」


下を向いていた恵理子は顔を上げて女性教師の顔を見た。


「そう。言霊って言葉は知ってる?」


恵理子は首を横に振った。


「何か願い事や目的がある時は誰かにその事を話すの。言葉には力がある。貴女が自分の口で自分の言葉で話す事によって、その目的はより明確になるの」


恵理子はしばらく考え込んでいた。

確かに私には目的がある。でも、それが叶うかどうかは自分でも半信半疑だ。無理なんじゃないか?と思ってしまう事もある。

それなら誰かに話してしまえば、自分自身に覚悟が持てるのではないか? 必ず目的を達成する覚悟が。


「・・・私はある人を探しているんです」


ぽつりぽつりと恵理子は話し始めた。

女性教師は黙って聞いている。


「先生は私の精神力が強い、と言って下さいましたが私は弱い人間なんです。中学生の時はその弱さから不登校にもなりました」


女性教師は恵理子を見守るように話を聞いている。


「そんな時に、その人と出会いました。その人は私の事は何も聞かずにココアを飲ませてくれました。そのココアはとても甘くて懐かしい味がしました。私はその人と何回か会ううちに私の中に優しさと現実に立ち向かう勇気をくれました。だけど」


恵理子は言葉に詰まってしまった。

雄一と離れ離れになってしまった事は今でも恵理子の中では深い傷になっている。

でも、誰かに聞いて欲しいと思っている事も判っていた。両親にも話せない事を。


「だけど? 」


恵理子は女性教師の瞳を見た。

その瞳は雄一とよく似ているように思えた。

この人は信頼できる。

恵理子は本能的に悟った。


「・・・その人とは離れ離れになってしまったんです。生死も判らない」


恵理子の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

これまで封印して来た想いが一気に溢れだした。

恵理子は大声で泣き叫んだ。


「雄一さん!雄一さん!どうしていなくなってしまったの!会いたいよぉ。もう1度会いたいよぉぉ」


泣きじゃくる恵理子を見て女性教師はそっと席を立って恵理子の横に来た。

そして恵理子の背中にそっと掌を乗せた。

何も言わずに恵理子の背中を優しく撫で続けた。


まだ25歳の女性教師は恵理子の姉のように恵理子の背中を、その掌で撫で続けた。








つづく




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