第二十七話 別れ
ドタドタドタと、品位の欠片もない足音を鳴らすのは、雪蓉しかいない。劉赫は、気が重くなりながら、扉を見つめた。
「聞いたわよ! 劉赫!」
盛大に扉を開け放ち、許可なく臥室に入り込んできた雪蓉の頬は紅潮していた。
「何のことかさっぱり」
雪蓉から視線を外し、意味もなく斜め上を見つめる劉赫。どうやら、しらを切ることにしたらしい。
「とぼけないでよ! 味覚が治ったって……良かったわね」
うっすら涙を浮かべて、純粋に喜んでくれている雪蓉に、劉赫は罪悪感をおぼえ向き合った。
「俺の身を案じていてくれたのか?」
「当たり前じゃない! 何を食べても美味しく感じないなんて、そんな悲しいことってないでしょ?」
狂喜乱舞し駆けつけたのは、自分が帰れるからではなく、劉赫のことを考えての喜びだった。
雪蓉の意外な優しさに、胸が締め付けられる。
願わくば、今ここで抱きしめたい。そんなことをしたら、まず間違いなく殴り飛ばされるだろうが。
「……ありがとう」
素直に礼を述べる。味覚が治ったのは、雪蓉が苦慮して華延との接見の場を設けてくれたことが一因だろう。
鏡を見ても、自分の顔が神龍には見えなくなった。頻繁に夢に出てきた、兄たちが目の前で殺されていく様子も見ていない。
味覚がおかしかったのは、やはり精神的なものが影響していたのだろう。
「これで全てが一件落着ね。私も心置きなく仙婆のところに帰れるわ」
……やっぱりそうきたか。
劉赫の眉間に深い皺が寄る。
「どうしても、帰るのか?」
「むしろ、帰らない理由なんてある?」
逆に聞き返された。雪蓉の立場になって考えれば帰りたい気持ちは分かるのだが、はい、そうですかと言って簡単に引き下がれない。
「ある。多いにあるぞ。俺は今後もずっと、お前だけを好きでいる。他の女には目もくれない。だから、お前が後宮を出たら世継ぎは生まれない。舜殷国にとって一大事だ!」
「そうくる⁉」
熱烈な愛の告白かと思いきや、まさかの脅しだった。
前半の言葉で、うっかり胸がきゅんとしたが、後半部分で気がそがれた。
本人も自分が死ぬと思ったのか、最期の言葉として雪蓉に好きだと思いを告げたが、あれからそのことについて触れることもなく、いつも通りに接してきたので、あの告白はなかったことにする気なのだろうと雪蓉は思っていた。
しかし、劉赫は何かに吹っ切れたかのように、自分の気持ちを素直に表現してくる。
思えば、あの劉赫が素直にありがとうと言ったあたりから妙だったのだ。
味覚が治ったことといい、劉赫の心の中で何か変化があったのかもしれない。
「そもそも、私は世継ぎ問題に関与していないし。後宮にいたって、劉赫のご飯を作るだけで、妃の務めは果たす気なかったし!」
雪蓉は胸を張って言い切った。劉赫は、うぬぬと唸って唇を噛みしめる。
「……仙のところに行ってどうする? 仙術を使えば人間の心は失っていくし、仙の跡を継いで饕餮を鎮める孤独な守り主となるのか?」
「何百年も生きていたいと思わないし、それに孤独じゃないわ。子供たちがいる」
雪蓉は元々、自分と同じように両親と一緒に暮らしていけない子供たちの世話をして、彼女たちが立派に独り立ちをする様子を見守って生きていきたいと思っていたのだ。その気持ちは今でも変わらない。
雪蓉の妙に晴れ晴れとした表情を見て、決意は固いのだと劉赫は悟った。
饕餮を鎮める女巫だった雪蓉を無理やり貴妃にしたのは劉赫だ。
身分が低すぎると周りから反対されたが、それでも押し切った。
劉赫以外、誰も彼女が妃になることを望んでいないのだ。摘んではいけない花だったのかもしれない。それでも……。
「俺は、雪蓉に側にいてほしい」
今度は脅しではなく、純粋な愛の告白だった。
いつもはお前と呼ぶのに、こういう時だけ名前で呼びかけるのはずるいと雪蓉は思った。
劉赫の目はいつになく真剣で、雪蓉への気持ちが生半可なものではないのだと物語っている。
「無理よ……」
雪蓉は劉赫から目を逸らし、小さな声で言った。
本当は、後宮に残ることを何度も考えた。劉赫が高熱で寝込んでいた三日三晩の間、看病をしながらずっと考えていた。
好きだと告げられ、劉赫が死んでしまうと思った時、雪蓉にとって劉赫はとても大事な人なのだと気付いた。
友情や人としての情ではなく、男として劉赫を見ていたことにも。
劉赫の額に浮かぶ汗を何度も拭きながら、愛おしいと思った。
生きていてくれて良かったと心から安堵した。
もしも劉赫を失っていたら、前の自分には戻れないだろう。
心に大きな穴が空き、無邪気に笑うことはできなくなる。それくらい、劉赫の存在は雪蓉の中で大きなものだった。
いつの間に、好きになっていたのだろう。
劉赫が、まだ皇帝だと知らなかった頃。
別れも告げずにいなくなってしまった彼のことが、ずっと胸の中にいた。
唇を奪われ、腹が立っていたけれど、嫌ではなかったのだ。
もしかしたら、あの時から、もう心を奪われていたのかもしれない。
でも、女として劉赫の側にいることはできないと思った。
小さな女巫たちのことが気がかりだし、何より、自分はもう人ではない。
「それが、雪蓉の出した答えか?」
劉赫の問いに、雪蓉は頷く。
劉赫への思いは、生涯胸に秘めておく。それが、雪蓉の出した答えだ。
「……分かった、好きにするがいい」
劉赫は抱きしめて留めておきたい気持ちを押し殺し、雪蓉から目をそむけた。
……それが、雪蓉の望みなら。
臥室を出て行った雪蓉のすぐあとに、内侍監が入ってきた。
先ほどの劉赫と雪蓉の会話を聞いていたらしい内侍監は、窺うような顔で劉赫を見て、静かに口を開いた。
「本当に宜しいのですか、陛下」
劉赫は、ふんっと大きく鼻息を吐くと、ドカリと椅子に腰を下ろした。
「仕方がないだろう。アレは言い出したら聞かないからな」
「さようでございますか。陛下があっさりと身を引くとはいささか意外でございました」
「……身を引く? 俺が?」
劉赫は頬杖をつきながら、ピクリと眉を上げた。
「おや? 違うのですか?」
内侍監の問いには答えず、劉赫は不敵な笑みを浮かべ、独り言のように呟いた。
「俺から逃げられると思うなよ、雪蓉」
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