第十九話 神龍放出
「劉赫はこれまでに神龍を解き放ったことがあるの?」
雪蓉の問いに、明豪は静かに頷いた。
「二か月ほど前か……。悪神である霊獣の一つ、驩兜(かんとう)が結界を破り逃げ出したことがあった。
幸い驩兜は人里離れた山奥に逃げ込んだゆえ、劉赫様がお一人で戦われ、無事に驩兜を倒し結界に戻すことに成功なされた。
今思うと、あの事件も不可解だった。今回の仙術の犯人と繋がっているのかもしれないな」
「待って。二か月前? 私が劉赫を助けた時じゃない」
「そうだ。そんなことがなければ、皇帝一人で宮廷から離れるわけがないだろう」
「違う、問題はそこじゃない。無事に? あれのどこが無事なの?」
雪蓉が劉赫を川辺で見つけた時、劉赫は死にかけていた。雪蓉が助けなればどうなっていたのか。
「だが、劉赫様は問題なかったとおっしゃっていたぞ。確かに怪我はしていたが、すぐに治ったし……」
「馬鹿っ! 劉赫は死にかけてたのよ! 三日も高熱を出して目を覚まさなかったし、あれのどこが無事なのよ!」
馬鹿と言われた明豪は、面食らった。それだけではない、劉赫が死にかけていたというのも初耳だった。
神龍はこの世で一番強いもの。神龍さえ解き放てば、怖いものなどない。
皇帝に任せていれば安心だと誰もが思っていた。……明豪でさえも。
「どうしよう、仙婆。劉赫は人間なのよ。もしも、死んでしまったら……」
雪蓉は、体の芯から冷えていくのを感じた。
どうして、劉赫一人に任せてしまったのだろう。全てを劉赫に丸投げしているようなものだ。
(なんであいつ、あんな自信満々で……。痛みを忘れたわけじゃないでしょうに。たった一人で戦って、あんなところまで川に流されて、生きているのが奇跡のようなものだったのに)
「もう案じても仕方のないことじゃ。戦いは始まった。もう誰にも止められぬ」
雪蓉は、思い出していた。
『大丈夫だ、雪蓉。俺が皆を守る』
あの時、優しく微笑む劉赫の瞳の奥に、陰りが見えたことを。
(どうして気付いてあげられなかったんだろう。きっと、劉赫は怖かったはずだ。
絶対に無傷では済まないと分かっていながら、死ぬかもしれないと思いながら、皆を守るために一人で戦う決意をした。心配されないように、心の怯えを隠しながら。
あいつは……劉赫の生来の性格は、そんなに強い男じゃないのよ。怖がりで甘えん坊で、皇帝になるなんて本人も露ほども思っていなかったはずよ。
それなのに、全てを背負い込んで……)
雪蓉はいてもたってもいられなくなって、仙術に冒された衛兵たちを平低鍋で片っ端から殴りかかった。
明豪もそれに続く。雪蓉よりも強い明豪は、正確で速い所作で次々と衛兵たちを倒していく。衛兵たちは頭を殴られると赤い実を口から出して倒れた。
雪蓉も明豪も、無力な自分が悔しかったのだ。
祈ることしかできないわけではない。今は、目の前に倒すべき相手がいる。
劉赫の無事を願いながら、雪蓉は平低鍋を振り回し続けた。
◆
開け放たれた大廟堂の扉の外から、ゆっくりとこちらを窺うように右往左往しているのは、貪欲な霊獣、饕餮である。
胴体は毛むくじゃらの牛か羊のようで、筋肉隆々の肩は大きく張り上がっている。太く曲がっている角の先端は鋭く、虎のような牙が悍ましい。
体の大きさのわりに目は小さく、あまり見えていないようだ。何でも食べる饕餮には、目はあまり必要ないのだろう。
小さな丸い目で、大廟堂の中に一人佇む劉赫の存在を認識すると、饕餮の足取りは確かなものとなり、戸惑うことなく大廟堂の中に入り込んだ。
饕餮が完全に中に入ると、隠れていた門番が勢いよく音を立てて扉を閉めた。饕餮は、出口を塞がれたことに一瞬驚くも、すぐに劉赫の方に向き直った。
(なるほど、こいつの目的は俺だったのか)
饕餮と対面した劉赫は、腰に差した剣を抜くこともなく、ただ睨みながら立っている。
饕餮はやっと目的の獲物に会えた嬉しさで、顔が綻んでいるように見える。
そして、劉赫を食べようと口を開いた。すると唇が割かれたように大きくなり、パカリと開かれた口は、人間を頭から丸飲みできるほどの高さとなった。
恐ろしい姿に、劉赫はゾクリと寒気を覚えた。しかし、恐怖は戦闘心をかきたてる。劉赫はもう、臆病で甘えん坊な子供ではない。
目の前でただ恐怖に怯え泣きながら、兄たちの死を見ていた非力な自分ではない。
自らの力で守りたいものを守れるほど強くなった。あんな思いは二度としない。
「我が身に宿った神龍よ、解き放たれよ!」
劉赫が声を張り上げ、手を挙げた瞬間、劉赫の体から巨大な神龍が飛び出すように現れた。
突然現れた神龍に戸惑い、饕餮の口が塞がれる。
解き放たれた神龍は、とぐろを巻いて天井から劉赫と饕餮を見下ろしている。
眠っていたところを急に起こされたかのように、ぼんやりとしていて事態がまるで飲み込めないといった様子だった。
神龍は普段はとても大人しい。攻撃性もなく、どちらかといえば臆病で引っ込み思案な性格だ。
その神龍に戦ってもらうためには、宝玉を与えなければならない。
しかしながら、宝玉を五本の爪で持ったが最後、神龍は暴れ狂い、自我を失った神龍は主である皇帝にも牙を向ける。
劉赫の命さえ危険な状況になるが、威力は絶大で使わない選択肢はない。饕餮を倒せるのは紛れもなく神龍しかいないのだ。
「神龍! 受け取れ!」
人間の頭部ほどの大きさの宝玉は、この世に二つとない貴重な原石を摩擦し形を整えたものだ。
その宝玉を神龍に投げつけると、神龍は五本の爪でしっかりと受け取った。
すると、神龍の瞳の色がみるみるうちに茶黒から紅色に変化していく。神龍の髭が逆立ち、地底を這うような雄叫びが上がる。
こうなってはもう、誰も神龍を止めることはできない。正気を失った神龍は、饕餮よりも厄介な恐ろしい存在だ。
(毒をもって、毒を制す。あとは天に任せるのみだ)
正直いって、二か月前ほど前、四凶の一つ、驩兜を倒したことはほとんど覚えていなかった。
神龍を解き放ったあとは、驩兜から逃げているのか、神龍から逃げているのか、分からないありさまだった。
神龍は容赦なく劉赫を襲ってきたし、神龍が驩兜を倒したのを確認する前に気を失った。
目が覚めた時は、馬屋にいた。
どうなったのか自分の目で見てはいないが、無事にやり遂げたのだろうということは分かった。
あの場にいて、助かる者などいようはずがないのだから。
実際、宮廷に戻ると、全てが円満に終わったとの報告を受けた。
驩兜は倒され、驩兜を鎮める仙が再び結界へと戻した。
四凶は倒すことはできても、殺すことはできない。
神龍もそうだが、彼らに生死はない。永遠に居続ける存在なのだ。
だから、鎮めておく必要がある。四凶の場合、それを担う存在が仙で、神龍を収めるものが皇帝の体だ。
だが、円満に終わったとはいっても、山一つ潰れた。
饕餮の住む山からだいぶ離れていたにも関わらず、自分はあそこに辿り着いたとなると、川で流されたのか神龍に飛ばされたのか分からない。
とにかく生きていたということが奇跡だった。そして、奇跡が二度起きるとは限らない。
それでも……。
劉赫は目を閉じて、息を吐き出す。
それでも、守るべきものがあるのだ。自分はそのためにいるのだから。
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