第十七話 饕餮襲来

朝日が昇る時分、誰よりも早く饗宮房に入り下準備を始めているのは、正一品の貴妃、雪蓉だ。


 劉赫との甘い一夜は、結局あの晩だけだった。周りから、ついに床を共にしたとあらぬ噂が立ったからだ。


(たしかに床は共にしたけれど、何もなかったのに大げさな……)


雪蓉は必死で否定したが、事実はどうあれ誤解されるようなことは避けらなければならないと学んだ。


料理長の鸞朱から料理人としての未熟さを指摘され、鸞朱との腕の違いをまざまざと見せつけられたあの出来事から、雪蓉は初心に戻って一から料理と向き合うことを決めた。


そのため誰よりも早く饗宮房入りし、下っ端が行う材料の下準備を終わらせてから、劉赫の食事を作っている。


 学べることは何でも学びたい。手伝えることがあるなら何でもやりたい。それが一流の料理人の道へ繋がっているはずだから。


 そして、あの鸞朱でさえも味付けを許されない宮廷料理とはどのようなものなのだろうと夢想するのであった。一度でいいから本物を見て食してみたい。


そして、自分も一流の料理を学びたいと思った。


 怒涛の早さで野菜類の下準備を終わらせ、真剣な面持ちで劉赫の朝餉を作っていた時、雪蓉はハッとして手を止めた。



 そして同時刻、劉赫の朝廷入りを待たずして、臥室に火急の知らせが届く。


 濃灰(のうかい)一色の絹の室内着に、肩には上着を羽織り、寝台に腰をかけている劉赫は、臣下が真っ青な形相で持ってきた書簡を鋭い眼差しで見つめる。


 寝台の脇に立っていた明豪が口を開いた。


「いかがいたしましょうか?」


「……そうだな」


 まだ考えあぐねている様子の劉赫は、曖昧に口を濁した。


 すると、廊下からバタバタと大きな足音を立ててこちらに走ってくる物音が聞こえた。


「いけません、まだ取り次ぎが終わっておりませぬ」


「そんなの待ってられないわよ! こっちは緊急の連絡があるのよ!」


 臣下と揉めているやりとりが筒抜けだ。


「こんな時に。どうします? 追い返しますか?」


 明豪が迷惑そうな顔で言った。


「いや、通せ。おそらく、これと同じ内容だ」


 劉赫は書簡を軽く上に掲げて言った。明豪は一瞬驚きの表情を浮かべてから、扉を開けに行った。


 扉が開くと、雪蓉は臣下の間をすり抜けて飛ぶように入ってきた。


 中に明豪がいたことに驚くも、すぐに目線は寝台へと移る。


「劉赫、大変! 饕餮が洞窟から抜け出したわ!」


 劉赫の読み通り、火急の知らせと全く同じことを知らせる雪蓉に、明豪は驚いた。劉赫は寝台からゆっくりと立ち上がる。


「ああ、そのようだな」


「え⁉ 知ってたの⁉」


「ついさっき、知らせが届いた」


 肩で息をしながら、拍子抜けしている雪蓉に、明豪は当然の質問を投げかける。


「なぜ分かったのだ?」


「感じたのよ。饕餮がこちらに向かっている気配を」


 雪蓉の言葉に、劉赫が反応する。


「饕餮がこちらに? それは知らせには載っていなかった情報だな。雪蓉は饕餮がどこにいるのか分かるのか?」


「なんとなくだけど……。今は森の中を進んでいるわ。饕餮はなぜかとても混乱している。けれど、彼には目的があるようで、真っ直ぐこちらに向かってきているわ」


「目的……。饕餮は意思を持たないはずだが」


「なぜかは私にも分からないわよ。ただ、強い衝動のようなものにかきたてられているのは感じるの」


 遠く離れた饕餮の動きを察知し、奴の感情まで感じ取っている雪蓉に、劉赫は戸惑いを覚えた。


 切羽詰まったこの状況では、雪蓉の感じた情報はとても役に立つ。


しかし、それは饕餮と雪蓉が繋がりを持っていることに他ならない。仙としての能力が芽生え始めている証拠だ。


(無理やり饕餮から離し、後宮に連れてきたのは正解だったようだ。このままでは確実に雪蓉は仙となっていただろう。仙になることが、どんなことかも知らずに)


 じっと雪蓉を見つめる劉赫に、雪蓉は怪訝な眼差しを向ける。


「どうしたの?」


「いや、何でもない。こちらに向かっているならば好都合だな。迎え撃つまでだ」


「でも……。饕餮は恐ろしく強いわ。目についたものを何でも喰らう霊獣よ。木だろうが、家だろうが関係ない。人間なんて一飲みよ」


「分かっている。むやみに禁軍を使えば多くの兵を失うことになるだろう。饕餮は俺が止める。四凶を倒せるのは俺だけだ」


 闘志に満ちた劉赫の横顔は、いつになく鋭く野性的な眼差しがゾクリとするほど美しかった。


 頼もしい、けれど……。


「どうやって倒す気?」


「俺の中には神龍がいる。神龍を解き放てば、饕餮に勝ち目はない。大丈夫だ、神龍はこの世で一番強い生き物だから」


 不安気な雪蓉を励ますように、劉赫は言った。自信が言葉からも体からも溢れ出ている。


「そうか、そうよね。あなたは、神龍を宿す皇帝なのですものね……」


 劉赫に任せれば大丈夫。雪蓉は自分に言い聞かせた。だが、嫌な予感が消えない。


 本当に劉赫だけに任せていいのだろうか。彼に全てを押し付けているような……。


「大丈夫だ、雪蓉。俺が皆を守る」


 優しく微笑む劉赫の瞳の奥に、陰りが見えた。頼もしい言葉の裏に、儚さを感じて、無性に胸が苦しくなった。


 心配だけど、劉赫にしかできない仕事だし、彼に任せるのが最善の策だと頭から不安を消す。


「うん……お願いね」


 雪蓉の言葉に、劉赫は力が湧いてきたようで嬉しそうに破顔した。


 だから、気が付かなかったのだ。


 彼が何を犠牲にして、戦おうとしているのか。


神龍を解き放つことが何を意味するのか。


 彼の笑顔の裏に隠された痛みを、雪蓉は知らなかった。


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