第十二話 劉赫の過去
四阿の後ろから出てきた人物は、薄青の上襦(じょうじゅ)に黄白色の下裙(かくん)を着て、腕には紗の被帛(ひはく)をかけている。
結い上げた髪には金歩揺(きんほよう)と簪(かんざし)が挿してある。
目尻に刻まれた皺や、隠し切れない風格と品の良さ。一目見て、高貴なお方だと分かる。
「隠れなくても大丈夫よ。捕らえたり、摘まみだしたりなんてしないから。お茶を淹れたの。良かったら一緒にいかが?」
害がなさそうなので、雪蓉はおずおずと姿を見せた。
「お断りもなく入ってしまい申し訳ございません。潘 雪蓉と申します」
雪蓉は袖に手を入れ拱手の礼をとった。
「雪蓉……聞いたことがあるわ。あっ、劉赫が初めて自分の意思で後宮に入れた貴妃のお名前だわ。あら、そう、あなたが……」
劉赫と呼び捨てにしていることからして、この人が劉赫の母君ということに間違いなさそうだ。
嬉しそうな眼差しで雪蓉を眺める姿に、危惧していた意地悪で厳しい方ではなさそうで胸を撫で下ろす。
「わたくしは華延(かえん)。宜しくね、雪蓉ちゃん」
親しげに呼ばれて、胸の奥がくすぐったくなるような複雑な気持ちだった。四阿の中へ案内され、長椅子に腰をおろす。
卓には、白磁の茶壷から紅梅の甘い香りが漂っている。
「いい香り……」
思わずうっとりと呟くと、華延は嬉しそうに目を細めた。
「九曲紅梅(きゅうきょくこうばい)というお茶よ」
珍しい茶葉の香りに、料理人としての血が騒ぎ、香りを大きく吸い込む。このお茶に料理を合わせるなら何がいいだろうと考えた。
華延は、飲杯(インハイ)に茶を注ぎ、おもてなしすることが嬉しくてたまらないといった笑顔を見せている。
雪蓉は、あっと思い出し、懐から小さな布袋を取り出した。そして、包み紙を取り出すと卓に広げた。
「宜しければ、お茶のお供にこちらをお摘まみください。私が作った琥珀糖です」
「まあ、これをあなたが作ったの? とっても綺麗」
華延は感嘆の声を上げ、蒼玉色や紅玉色など色とりどりに輝く琥珀糖を見つめた。
一粒摘まみ上げ、パクンと口に入れた華延は、ゆっくり味わって目を細めた。
「とても美味しいわ」
華延が気に入ってくれたようなので、雪蓉は安心した。
琥珀糖は小さな女巫の子供たちの大好物なので、いつも大量に作り、小腹が空いた時や甘いものが食べたくなった時のために毎日持ち歩いていた。
いつもの癖で懐に入れていたのが、こんなところで役に立つとは。
華延とお茶を飲みながら、庭に咲く見頃となった梅の花を眺めていると、うっかりここに忍び込んできた理由を忘れそうになる。
雪蓉は意を決して、話を切り出した。
「取り次ぎもせず、忍び込んでしまい申し訳ありません。ですが、どうしても華延様にお聞きしたいことがあったのです」
「まあ、何かしら?」
華延は、無邪気な微笑みを浮かべている。その笑みを見ると、訊ねる内容が愉快なことではないだけに、申し訳なさを助長させた。
「失礼を承知でお伺い致します。劉赫様と華延様との間に何かあったのでしょうか?」
雪蓉の問いに、華延の笑みが消えた。
そして、雪蓉から目を逸らし、何かを思い出すように庭の梅の花を見やる。
「……あれは、忘れもしない十四年前。あの時も梅の花が咲いていたわ」
そうして華延の口から語られたのは、悲しく凄惨な事件の概要だった。
「わたくしの夫、煉鵬(れんほう)陛下が逝去され、皇位継承儀式が執り行われたのが十四年前。
彼には四人の皇子がいて、いずれもわたくしの息子。一番上の創紫は当時二十八歳。二番目と三番目は双子で、春摂と甲斐。二十二歳だった。
そして、劉赫は、当時十歳。創紫はいずれ皇帝となる第一皇子だったから、厳しく躾る必要があって、春摂と甲斐も重要な要職に就くでしょうから、創紫をしっかり支えられるように育てたわ。
劉赫は陛下が五十歳の時の子で、まさかできるとは思わなくて驚いたの。
小さな劉赫を、皆がとても可愛がったわ。
そしたら、勇敢な兄たちとは違って、怖がりで甘えん坊な子になっちゃって。
でも、その分とても可愛くて、兄たちがしっかりしているから、こういう子もいていいかなって伸び伸び育てたの」
劉赫が怖がりで甘えん坊だったなんて、とても意外な話だった。今ではその要素は皆無だ。
そして、劉赫を語る華延の表情は、とても優しく嬉しそうだった。しかし、その幸せそうな表情がだんだんと曇っていく。
「陛下が亡くなり、皇位継承儀式が行われた。皇位継承権を持つのは、神龍に選ばれし者。
でも、神龍が選ぶといってもそれは形式だけで、第一皇子の創紫が継ぐと誰もが思っていたの。
神龍はとても大人しく、従順な生き物。あんなことが起きるなんて、誰も想像していなかった」
「あんなこと?」
思わず聞いてしまった。一庶民である雪蓉は、皇位継承儀式で、皇子たちが不慮の事故死を遂げたとしか聞いていない。
「何者かが神龍に宝玉を与えたの。
聖なる宝玉を五本の爪に収めた神龍は、我を失い暴れ狂う。宝玉は神龍の偉大な力を使いたい時にしか、決して与えてはいけない諸刃の剣のようなもの。
それを、あろうことか、皇位継承儀式の時に使われた。……結果、我を失った神龍は息子三人を食い殺した。
依り代を失ったことに気が付いた神龍は、最後に残った劉赫の体に宿るしかなかったのね。
神龍は代々、皇帝の体を住み家とするの。そうして、幼い劉赫は皇帝となった」
神龍が皇子たちを食い殺したなんて事実は初耳だったし、神龍が皇帝の体に宿ることも知らなかった。
神龍の加護を持つ皇帝と崇められてきたけれど、本当に神龍がいるということでさえ半信半疑だったのだ。
「では、劉赫は目の前で兄たちを……」
思わず、様とつけずに、いつものように劉赫と呼んでしまっていた。そのことに華延は気付いていたが、にっこりと微笑むだけで気にしていないようだった。
「そう。劉赫は兄たちが大好きだった。
兄たちはいつも、臆病で気弱な劉赫を守ってくれていたの。
どんなに怖かったことでしょうね。
兄たちと違って、剣を持つことですら怖がるのに、目の前で、見たこともない化け物が大好きな兄たちを食い殺すのを、あの子はどんな気持ちで見ていたのかしら……」
華延の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
雪蓉はてっきり、華延と劉赫は仲が悪いのだと思っていた。しかし華延は、劉赫を憎く思うどころか、いつも心配し愛しているのだと感じた。
(どうして劉赫はあんなことを……)
こんなに愛されていながら、劉赫はなぜ母親に憎まれていると思うのか。
「劉赫は自分の顔が嫌いなようです。それに、華延様が自分の顔を恐ろしく憎いと思っていると言っていました」
華延はその言葉を聞いて、驚くそぶりはなく、悲痛な表情を浮かべた。
「わたくしが悪いの、全て。あの事件から、劉赫の顔が神龍に見えるの。
劉赫を見ると、息子たちを食い殺した神龍を目の前にしているみたいで、どうしても近寄ることができないの。
劉赫の中に、神龍がいるというのも影響しているらしくて。だからわたくしね、あの子の今の顔が分からないの。
きっと精悍で美しい若者に成長したんでしょうね。創紫や、春摂や、甲斐のように」
ああ、だからか……。雪蓉は胸の中で呟いた。
大好きな兄たちを殺した神龍が自分の中にいる。そして、きっと劉赫自身も、自分の顔が神龍に見えるのかもしれない。だから、鏡を見られないのだ。
劉赫がかわいそうに思えてきた。彼は、想像以上に過酷な運命と戦っている。劉赫も、華延も、互いを思いやるからこそ、辛いのだろう。
全ての真相を聞き終えた雪蓉は、重い足取りで岐路についた。
劉赫の過去を知り、傷を癒すことができれば味覚が治るかもしれないと安易に考えていた自分を殴りたい。
簡単に知るべきではなかった。彼の抱えているものは、生半可な気持ちで対処できるようなものではない。
劉赫に美味しいものを食べてもらいたいと、自然に湧き上がった。十四年前から食べる楽しみさえ奪われた劉赫に、ほんのひと時でも幸せな時間を……。
雪蓉の料理を心の底から美味しそうに食べる劉赫の姿を思い出して、胸がぎゅっと締め付けられた。
ボーっとしながら歩いていたため、ふと気が付くと見慣れない道にいた。まずい、迷った、と思った時には時すでに遅く、日が傾き暗闇が迫って来る。
劉赫の夕餉を作らなければいけないのに、と焦る気持ちも相まって、ますます奥へと進んでしまう。
突き進んで行くと、築地塀に囲まれた邸宅が表れた。太麗宮のように広大で、やんごとなき身分の妃が住んでいると思われる。
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