第一話 饕餮の女巫

碧天(へきてん)が広がる暖かな太陽の下、黄土色に輝く地面の上に、一人佇む美少女がいた。


 陽にすかすと濃紫色が浮き出る柔らかな長い黒髪は、腰下まで届いている。雪のように白い肌を持ち、長いまつげに縁どられた眼は大きな宝石のようだ。瞳は深い瑠璃色で、まるで紅玉が輝いているような濡れた唇。


歳は十八で花盛りの瑞々しい輝きを放っている。


 簡素な藍色の漢服を纏い、遠い空を物憂げに見上げる様は、ため息が出るほど麗しい。


 解語之花(かいごのはな)と形容されるほど美しい雪蓉は、強風が吹けばたちまち倒れてしまいそうな、可憐な物言う花に見えた。


 そんな彼女は、集中するように深く息を吸い込むと、おもむろに大きな鍬を頭上に持ち上げた。


「でぇいっ!」


 華奢な体のどこからそんな野太い声が出たのかと呆気に取られるような、およそ乙女には相応しくない勇ましい掛け声と共に、鉄製の鍬を振り下ろし土に突き刺した。


 そこからはもう、我が目を疑うかのような光景が目の前で繰り広げられる。雪蓉は、すさまじい速さで鍬を振り下ろしては土を耕し、あっという間に耕耘(こううん)された畑が出来上がった。


 遠くから雪蓉の様子を見守っていた小さな女巫(みこ)仲間たちが、ボソボソと囁き合う。


「相変わらず凄いね」


「雪姐が大人しくさえしていれば、豪族に嫁げるくらいの美人なのに」


「無理だよ、この前も雪姐を見て一目惚れした村の若頭が口説きに来たけど、鍬で追い払ってたもん」


 年頃は七、八歳である小さな女巫たちは、妙齢である雪蓉の嫁ぎ先を心配して、大きなため息を吐いた。女巫とはいっても、一生女巫であり続けなければいけない縛りはない。年頃になれば結婚し、この土地を去るのが一般的だ。しかしながら、村一番の美人である雪蓉が最も結婚が難しいと彼女たちは憂いている。


子供に心配されているくらいだから、本人はさぞや気を揉んでいるだろうと思いきや、雪蓉は実にあっけらかんとしていた。


「私、結婚する気なんて毛頭ないわ!」というのが彼女の口癖で、一生独身を貫く覚悟を決めている。


 雪蓉は貧しい農村の一家に生まれた。疫病で母を亡くし、男手一つで幼い雪蓉を育てていくことは困難だった。このままでは父子共々餓死すると、雪蓉の身を案じた父は、山奥の四凶(しきょう)の地の一つ饕餮山(とうてつざん)と呼ばれる一世帯しかいない集落に雪蓉を残し、山を下りた。


 そこは別名〈子捨て山〉と呼ばれる、四凶の饕餮を鎮める仙(せん)の住む聖域だった。四凶とは、饕餮(とうてつ)、窮奇(きゅうき)、驩兜(とうこつ)、混沌(こんとん)と呼ばれる四つの霊獣のことである。


各々が山に住み、彼らを鎮める仙と女巫が存在する。饕餮山に捨てられた子供は、饕餮を鎮める仙の手伝いをする女巫となる。


饕餮という恐ろしい霊獣の側で生活することになるが、衣食住は確保され、とりあえず死ぬことはない。この土地が嫌ならいつだって出て行っていい。


ただ、親から捨てられた子供に行き先などない。


山頂に住んでいるとはいっても、食料や生活用品を買うために、麓の村に行くことがある。そこで出会った村人と恋仲となり、結婚して出て行くことが彼女たちの最大の目標だ。だから、子供とはいっても結婚の話題には敏感なのである。


「おまたせ! さあ、帰りましょう」


 大きな鍬を肩に担ぎながら、雪蓉は小さな女巫たちの元へ闊歩(かっぽ)した。現在、女巫は雪蓉を入れて五人。いずれも親から捨てられた子供たちだ。


 様々な家庭の理由はあれど、妓楼などに売られる子供も多くいる中で、饕餮の女巫になったことを不幸と感じる者はいない。同じような境遇の者同士が身を寄せ合い、助け合って家族のように生活している。最初は泣き暮らしていた子も笑顔になっていく、ここはそんな温かな場所だった。


 畑仕事を終え、背負い籠の中に収穫した野菜を山盛りに入れて、彼女たちは家へと戻った。


 一世帯しかいないとはいえ、彼女たちが住む土地はとても広く、建物も多かった。鶏小屋に、豚と馬小屋。仙の居宅に、女巫たちが眠る家屋。厠(かわや)や風呂場など、全てが独立した建物になっている。


 彼女たちは真っ直ぐに厨房専用の屋舎へと入ると、手際よく調理を始める。女巫の一番の務めは、饕餮に捧げる調理作りだ。


 饕餮とは、悪神と呼ばれる四凶の一つで、暴食の化身だ。ひとたび地に放たれれば、永遠に食べ続ける。人や動物、魚や虫、植物など手あたり次第に貪り続け、その欲望はとどまるところを知らない。


 そんな恐ろしい霊獣を鎮めるのが仙と呼ばれる者である。仙は、山中に入り修行を極め、神変(しんぺん)自在(じざい)の術を得た人のことをいう。仙は、食べ物に術をかけ、満腹を知らぬ饕餮の腹を満たすことができる。


 女巫が食べ物を調理し、それに仙が術をかける。そうやって饕餮を鎮め続けてきたのである。


「さあ、始めるわよ」


 雪蓉は、台所に並べられた大量の食材を見つめて、にやりと笑った。


 五歳の時に、この地に捨てられ女巫となり、早いもので十三年となる。最初は包丁を持つことさえ危うかった少女が、今では立派な調理師となった。


 畑仕事も、鶏や豚を屠殺(とさつ)するのも慣れたものだが、一番得意で大好きな仕事は調理だ。調理を極めて仙になる。これが彼女の夢であり目標だった。仙を継ぎ、身よりのない子供たちを育てたい。だから雪蓉は結婚する気など毛頭ないのだ。


 最後に仙が術をかけるとはいっても、調理の出来は術のかかりやすさに比例する。心のこもった美味しい料理を作れば、少ない量でも満足してくれるが、出来の悪いものだと術が効きにくい。仙にいわせれば、未熟な雪蓉たちは、大量に料理を作らなければならないとのことだ。


「出来たわ」


 雪蓉は額の汗を布で拭って言った。


「美味しそう」


「さすが雪姐」


 小さな女巫たちは、大量の料理を見ながら、ゴクリとつばを飲み込んだ。


大皿に山盛りに積まれた空芯菜(クウシンサイ)と春野菜の炒め物、大きな豚の皮付きの三枚肉を少し甘めの濃厚な汁で蒸した東坡肉(トンポーロー)に、蝲蛄(ザリガニ)の素揚げやいかの鶏豆花湯(チードゥファタン)など十人前以上はある。


「あなたたちも手伝ってくれたじゃない」


 褒められた雪蓉は、少し照れくさそうに言った。


「そうだけど……」


 雪蓉を除く女巫たちは、まだ小さいのでたいしたことはできない。早く雪蓉の役に立ちたいと思っているが、料理人としてはまだまだ未熟だ。


「さあ、皆、冷めないうちに料理に術をかけてもらいに行きましょう」


 そう言って雪蓉は大皿に積まれた東坡肉を持ち上げた。


「はい!」


 少女たちの可愛らしい声が厨房に響き渡った。


 仙の住む居宅の玄関の扉を開け、小さな女巫が声を上げる。


「仙婆~、出来たよ~」


 仙婆と呼ばれた偉大なる術師は、奥の間から腰を屈めてのろのろと出てきた。

 綿毛のような白い髪を後ろで一つに結い、顔も手も皺くちゃの老婆だ。


仙が作れば、たった一品でも饕餮が満足する料理になるらしいのだが、高齢なのを理由にしてめったに料理を作ることはない。いつも腰が痛いだの足が痛いだの言って、ほとんど居宅から出ないのだ。


しかしながら噂では、仙が馬よりも早い速度で山を駆け上がる姿を見ただとか、膝の屈伸百回は余裕だとかいわれているが、真偽は不明である。


「どれどれ……」


 一品ずつ仙が味見をしていく。雪蓉は緊張の一瞬だが、小さな女巫たちは気楽なものである。雪蓉の作る料理はとても美味しいと知っているからだ。


「うん……、まあいいだろう」


 褒められはしなかったが、合格らしいので、雪蓉はほっと安堵した。


八年前に、雪蓉の姉代わりだった女巫がお嫁に行ってからというもの、当時十歳だった雪蓉が年長者となり、調理を一手に引き受けることとなった。数年前から承認をもらえないことはなくなったが、最初の頃は駄目出しばかりで、泣きながら一日中料理をしていたものだ。


厳しい指導に耐えたかいあって、今では誰よりも美味しい料理を作ることができるまでに成長した。


 仙は大皿に盛られた大量の料理に、そっと手をかざす。すると、皺だらけの手の平から、淡い茜色の光が料理に降り注がれていく。


「いつ見ても綺麗……」


 ほうとため息を吐くように、小さな女巫たちはうっとりとその光を見つめる。


 幼き頃の雪蓉も、仙の術に見惚れたものだ。だが、今は羨望の眼差しだけを向けるのではなくなっている。自分もいつかこの術を会得するのだと大志を抱いた目で見つめているのだ。


 無事、仙から承認を得て、料理に術をかけてもらった雪蓉たちは、今度はそれらを抱え山奥へ入っていった。


 家屋から徒歩五分ほどの距離に、饕餮が住む洞窟がある。巨大な黒い洞窟の中へと進んでいくと、しめ縄で奥へ進む道が塞がれている。しめ縄には厳重な結界が張られており、饕餮は外に出られなくなっているのだ。


 真っ暗な洞窟の奥からは、不気味な低重音が聞こえてくる。饕餮のいびきの音だ。

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