第20話
夜は好きだ。
彼女はかつてそう言ったのを透は布団から体を起こし月を眺めながら思い出していた。
月を眺め物思いにふけるなんて少し気取っている、自分でもそう思ったが月を見てこんなにもきれいだと思えたことはない、日々のほとんどを床で過ごしている身としてはこうして空を眺めるのも心の健康のためにも必要なことだろう。
(なぁ。ナキお前も今この空を見ているのか?)
目を閉じ己のうちに問いかけるように語りかけると、瞼の裏にまた違った風景が現れる。
かすかな緑色の照明に照らし出せれる濡れた岩肌、足元にはぬるりと絡みつく気持ちの悪い水が広がっている。
この水底に何か得体のしれない生物がいるようなこの薄気味悪さも今は懐かしく感じる。
すべてが懐かしい。
二年ほど前までほぼ毎日通った場所なのだ、透がそう思うのも仕方がない。
そして懐かしの景色の中心には彼女がいる。
『また来たのか』
ナキ声は呆れというよりどこか非難的なものだった、その深紅の瞳の奥には確かな怒りの炎がたぎっている。
けど、そんなナキの反応はもう予想がついていたのだろう透はヘラリと笑って見せる。
「そんな怒るなよ。お前とこうして話せるのは今じゃ夢世界だけなんだから」
夢世界、透はこの瞼の裏に広がる世界をそう呼んでいる。
夢世界の名の通りここはあくまで幻想であり現実の世界ではない。
眼前に広がるこの空間も肌で感じる水の冷たさもすべてが幻想、白昼夢のようなもの。
その証拠に片目を開くとそこにはいつも通りの自室が映る。
何とも奇妙な光景だ。
目の前の二台のモニターが別々の映像を映し出している。
「今日は月がきれいだからね。ナキも見てるのかと思って」
『そんなことでここにいたのか』
今度は呆れたような物言いのナキ。
それは決して透の幻想ではない。
この空間は確かに透の脳内にしか存在しない架空のものだがそこにいるナキは紛れもない本物。
あの日、ナキが星蔵の屋敷を出て言って以来彼女は透の体に干渉してきていない。
けれど、それで契約が切れるわけではない。
契約を結んでしまった時点で透の命が尽きるまで継続される。
もちろん体の浸食もゆっくりと進んでいる、脳内での会話なんて以前はナキの方から鑑賞してこなければできなかったことだ、それが今は透の方から行える。
つまりはそれだけ二人の共感性が高まってしまったということであり、その分透の命も縮まった証拠でもある。
「ほら、満月だ。お前も見てるんだろ?」
とはいえ、主導権はあくまでナキにあるので透はナキのように体を操ったりその目で見たものを自分も見ることなどはできないのでナキの情報はこうして本人から聞くしかない。
『ああ、夜は私が唯一何の足かせもなく外界へ出歩くことができる時間だからな。毎日、ベランダに出てみている』
「そこまでが、ナキの世界の全てか」
あの穴蔵から出たところで今度はあの館にとらわれ続けているナキ、結局場所が変わっただけで彼女はいまだに自由など手に入れられていない。
そんな生活などナキにふさわしくない、彼女はもっともっと自由であるべきだ、透は常々そう思っていた。
「ナキ、計画の実行の時だ。お前に自由をあげる。今日はそのことを話しに来たんだ」
『それは何度も断ったはずだ。無茶だし、そもそもお前がどうなるかわからない』
首を振り拒否をするナキに透もまた首を振る。
「どうなるかはわかっている。お前の言う通り無茶な計画だ、ほころびも出るだろう。俺の体は見ての通り壊れかけ、恐らく死ぬかな?」
透の言葉はまるで他人事のように軽い、そのようなことに興味などないというほどに。
『それならなおさらだ。お前が死んだら、私は一体何のために穴蔵を出た。意味がなくなる』
「少なくとも自由への一歩は切り出せただろ」
透のその言葉にナキは息をのむ。
「それにどうあがいたって、俺の命はもうもって一月ほどだ。体はどんどん悪化してるのに、こういった把握能力はどんどん上がっていく。まったく死が近づいてくるこの感覚、死刑囚にでもなった気分だよ。それなら俺は俺がしたいことをしたい」
『それが私をこの島から連れ出すこと?』
ナキの言葉に透は頷く。
「それが俺が最後にしたいことだ。最後の願いを叶えてくれなんて甘いことは言わない、お前には俺の体をこんな風にしたお前にはこの願いをかなえる責任がある」
あえて攻めるような口調をする透にナキは口ごもる。
その言葉を正論だと思ったのだろう。
けど疑問もあった。
『どうしてお前はそこまで私を外に出したがる?確かに私はこの世界を見て回りたいと思っている。けれど、それは私の望みだお前には関係のない事だろ?』
自分の望みのために人の体を操っていたヤツの言葉とは思えないが彼女も何らかの心境の変化があったのだろう。
前ほどの暴虐舞人も鳴りを潜めだしておりこれなら外の世界でもなんとかやっていけるかもしれないと透は判断する。
「関係ないことはないさ。その夢は俺も抱いていたものだから、知ってるだろお前なら」
そうナキなら透の事を何でも知っている。
彼らはまさに一心同体なのだから。
「俺はどうにもその夢を果たせそうにない、だからお前が見てくれ外の世界を。誰よりも俺に近いお前が。だから俺はお前を逃がす。たとえ子供たちを捨てることになってもだ。ナキ、俺の願い叶えてくれ。それが俺の救いなんだ」
透のその言葉にナキは静かに頷くと世界に溶けるように姿をくらませた。
透が瞼を開けるとそこにはやはり変わらない自室が姿を現す。
まるで夢からさめたような気分だ。
でも呆けてるわけにはいかない。
計画の実行である帰神祭は目の前まで迫っている、その時動けなかったら話にならない。
今はゆっくり休養を取るべきだ。
透はそう考え次は眠るために瞼を閉じるのだった。
帰神祭は当日は晴れやかなほどの快晴で迎えることができた。
祭りのためにヒル神社へと向かう老若男女たちは皆白い着物に身を包み清い体で神を迎え入れよう
としている。
そんな彼らの中心にいるのはもはや島すべての実権を握り天鳴島の頂点に君臨する男、黒絵那岐。
「みなよく来てくれた!今日というこの素晴らしい日をこのように晴れやかな日差しの下迎えることができたのは皆の日々の祈りがヒル様に届いたからに他ならないだろう!こうして御身のために集まってくれた皆の信仰をヒル様は決して裏切らない!今日はそんなヒル様を迎え入れるため皆盛大に盛り上げてくれ!」
帰神祭の始まりのあいさつを告げる那岐の背中を見つめる明理の瞳は少し虚ろだ、疲れがたまっているのだろうか?
いくら落ちたとはいえ数年前までは島の権力者であった星蔵の現当主、蔑ろにできないという理由でこの場に招かれているが島民の関心はほぼ那岐のみにあり、明理はただただ彼の後ろに控えるのみ。
従者のようなその仕打ちはかつてこの島の権力者として共に肩を並べていた明理にとってこの上ない辱めだった。
けれど、それも今日で終わる。
明理は無意識に黒絵家の方角を見る。
予定通りなら透はもう動いている頃、彼が今どうしているのか明理はそれが気になりついその方角を見てしまった。
どうか全てが無事に行われることを願って。
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