アディショナルタイムはあと1秒
きひら◇もとむ
アディショナルタイムはあと1秒
スラックスのポケットに手を突っ込み百円玉を取り出すと、自販機で缶コーヒーを買って喫煙ブースへ向かった。
午後2時に始まった商談が終わったのは7時過ぎ。休日出勤だからいいようなものの、通常勤務で5時間も商談してたら結果を問わずに上司に罵声を浴びるところだ。
1ミリグラムのタバコに火を点ける。
ゆっくり息を吸い込み、そしてゆっくり吐き出す。疲れ切った身体に紫煙が心地いい。
ふと外に目をやると、ネオンが輝く街の灯りは冷たい3月の雨に滲んでいた。
立て続けに二本吸い、空になったコーヒー缶を持ってブースを出た時だった。
「三上さん」
振り向くとそこには後輩の女の子がセカンドバッグを小脇に抱えて立っていた。
「お、ゆきちゃんお疲れ」
「はい、お疲れ様です。珍しいですね、三上さんが本社に来るなんて」
ぽわぽわした笑顔で彼女が言う。
「うん、お客さんの都合でこっちで商談だったんだ。ゆきちゃんはもう帰るの? 俺、車だから家まで送ろっか」
「え、本当ですか。雨降ってきちゃったから困ってたんです。じゃあ、お願いしていいですか」
彼女は入社ニ年目で本社勤務。僕の部署に配属された子と同期で仲が良いことから、数人のグループでちょいちょい遊ぶ間柄だ。
実は昔の彼女にちょっと似ている。そのせいか、少しばかり気になる子だ。そう、ほんの少しだけね。
でも彼女には学生時代からの彼氏がいるらしく、僕にとってはただの先輩後輩の関係でそれ以上でも以下でもなかった。
☆
駐車場で車に近づくと彼女が声を上げた。
「あれっ、三上さん、車替えました?」
「うん、今朝納車されたばかり。5年ローンだけどね」
「えー、いいんですか、私なんかが乗っちゃって? 最初に助手席に座るのは彼女さんとかじゃないと……」
「うーん、まぁそうなんだけど、彼女いないし」
「あっ、そうだったんですか。では僭越ながら今日はこの私が三上さんの彼女さん役ということで」
そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべながら助手席に乗り込んだ。
僕はこみ上げてくる甘酸っぱい、そしてホロ苦い感情を味わいながらエンジンを掛ける。
地下駐車場から出ると、瞬くうちにフロントガラスに雨が降り注いだ。
「三上さん、これ、素敵な車ですね。絶対お高いやつですよね。気合い入ってますね、7年ローンなんて。払い終わる頃にはおじさんじゃないですか」
確かに彼女の言う通り、僕にとっては背伸びした車だ。でも7年じゃなくて5年ローンですけどね。
「ちょっと失礼しますね」と言いながら、あちこち触っては「わっ、スゴい」を連発する彼女が可笑しかった。
内装チェックはどれ位続いただろうか。シートに浅く腰掛けながらひと通り見終わった彼女は、フーっと大きく息を吐いて深く座り直した。
――やっと落ち着いたかな……
僕がそう思った次の瞬間、
「み、三上さん! このシート、革じゃないですか! それに電動だし。うわぁ、すごーい」
「え? 今更?」
「はい、今になって気がつきました」
申し訳無さそうに話す彼女。舌は出さずともテヘペロって顔をして僕を見た。
――ヤバい、やっぱり元カノに似てる……。
そんな二人を乗せた車は、雨の甲州街道を西へと走っていった。
信号が赤に変わり停車するとエンジンも停止し車内に沈黙が訪れる。
『グゥーーー』
不意に助手席から聞き覚えのある音が。
「ゆきちゃん、どっかで飯食ってこっか?」
「すいませんっ。今日は忙しくてお昼食べれなかったんです。あぁ、恥ずかしいです」
両手でお腹を抑えながら、真っ赤な顔で俯く彼女。
――か、かわいいっ!
こんな姿を見せられてしまうと、僕の中の女の子ランキングで元カノを抜いて圏外から一気に一位を獲得する勢いだ。
僕は交差点の先でウインカーを出してファミレスの駐車場へとハンドルを切った。
コスパの高いイタリアンなファミレスは若者たちで賑わっていた。窓際の席へと案内された僕らはそれぞれオーダーを済ますと大きく息を吐いた。
「「はぁーーっ」」
見事なくらいにシンクロするため息に、一瞬の沈黙の後、目を見合わせて笑った。
「「あははははっ!」」
「なんだよ、コレっ」
「ピッタリすぎて笑っちゃいますね」
そして、
「「はぁーーあっ」」
息を整えようと出したため息までもがピタリと重なった。
「ちょっと三上さん、やめてくださいよぉ」
ツボった彼女は肩を上下に揺らしながら苦しそうに笑っている。よく見ると瞳が潤んでいる。
「ゆきちゃん、泣いてるし」
「だって面白かったんだもん。タイミング合いすぎですよ、もー」
やっとのことで平静を取り戻した彼女は、頬を膨らませながらニコニコ顔で言った。
それから軽めのディナーを取りながらあれこれと話をした。とはいっても僕はもっぱら聞き役で、頬杖しながら彼女の声に耳を傾けていた。仕事のこと、友達のこと、趣味のこと。表情豊かに次から次へと話す彼女。ぽわぽわした笑顔とおっとりとした口調がとても心地良かった。
大学ではアカペラサークルに所属してコンテストで入賞したこともあるらしい。
「へぇ、スゴいね。じゃあ今度カラオケ行こうよ。ゆきちゃんの歌を聴きたいな」
「いいですね。約束ですよ!」
彼女はとても嬉しそうに言った。本当に歌が好きなのだろう。
でも次に僕が発した言葉に彼女の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかった。
「今でもその時の仲間とは会ったりしてるの?」
☆
食事の後、トイレへと席を外した僕が戻ってくると、彼女は何故か寂しそうな表情を浮かべて窓の外を眺めていた。泣くほど大笑いしていた彼女が嘘のようだ。そして初めて見る切ない表情に、僕は戸惑いながら席についた。
そして彼女の視線の先へと目を向けた。雨の中、相合い傘で楽しそうに歩くカップルがいた。
彼女は視線を戻さぬまま、不意に語り始めた。
「私、あのときのグループの人と付き合ってたんです。でも先月、彼が二股かけてたことがわかって。私が問い詰めたら『でも一番好きなのはゆきだから』って。なんだかどうでもよくなっちゃって……」
そう言うと、僕へと視線を向けて言葉を続けた。
「だから声を出してあんなに笑ったの久しぶりだったんです。三上さん、どうもありがとうございました」
ペコリと頭を下げる彼女。突然のことに僕は気の利いたセリフのひとつも掛けてあげることが出来なかった。
自分の不甲斐なさを悔やんだ。
それから彼女の家までの間は会話もまばらで、時間を共有することもできずにいた。彼女は窓の外を眺めている。僕は運転しながらずーっと考えごとをしていた。
彼女の住むマンションに着いた。ハザードランプを点けて路肩に車を停めた。
「三上さん、今日はありがとうございました。それなのにあんな話をしてごめんなさい。でも、とっても楽しかったです。でも、……ごめんなさい」
申し訳なさそうに言う彼女。
「それじゃ、ありがとうございました」
そう言ってシートベルトを外そうと手を掛けた瞬間に、僕は口を開いた。
「ゆきちゃん!」
「はい?」
「今日は俺の彼女役だって言ってたよね?」
「は、はい……」
「ならあと1時間半、今日が終わるまでそのままでいてくれないかな?」
「えっ? あ、はい」
突然の僕からの提案を、戸惑いながらも彼女は受け入れてくれた。
「ありがとう。じゃあドライブ行くぞ、ゆき!」
「ちょっと三上さん、いきなり呼び捨てですか!」
「いや、あの、そのほうがそれっぽいかなと……」
「もー、調子いいんだからー」
彼女にぽわぽわ笑顔が戻った。
――やった! ゆきちゃんはこの笑顔じゃないとな。
僕は心の中でそう思いながら右手に力を込めて小さくガッツポーズをした。
そしてゆっくりアクセルを踏み込む。
あとは時間との闘いだ。環八を経由し、ハイペースで東名高速をしばらく走ると時間にも余裕が出てきた。これなら間に合いそうだ。
どこに連れて行かれるのかもわからず少し不安げな彼女。緊張を和らげるべく先日買ったばかりのアルバムを流し、曲に合わせて口ずさむ。僕の歌を聴いた彼女が口を開いた。
「三上さんて、何ていうか独創的な歌い方ですね」
「そう? まだ聴き込んでないからちゃんと歌えてないだけだよ」
「なるほど、わかりました。じゃあそういうことにしといてあげますね。うふふ」
「おいっ、最後のうふふって何だよ!これでも中学の音楽の歌のテストで男子最高点取ってるんだからな」
「はいはい、そうですね」
「あ!今の完全に上から目線。ムググッ!」
「そんなことないですよぉ。あ、この曲知ってます。『なんでもないよ、』ですよね。大好きです! ちょっと三上さん静かにしててもらえます?」
スピーカーから流れてきたのはマカロニえんぴつの『なんでもないよ、』という曲。愛する人への思いを歌ったシンプルなラブソングだ。
メロディに合わせてハミングする彼女。その優しい声に癒された。できることならずっと聴いていたいと思った。
やがて車は目的地へ到着した。
「間に合ったぁ!さぁ、着いたよ」
時刻は23時45分。あと15分で今日が終わる。
促されるまま車から降りる彼女。すると目の前には砂浜とどこまでも続く海が広がっていた。
「うわぁ、綺麗ですね。私、夜の海って初めてかも……」
美しい景色に見惚れる彼女はそう言ったきり無言になった。目を閉じて打ち寄せる波音に耳を澄ましているようだ。そんな彼女の横顔はとても穏やかで美しかった。
「三上さん、ありがとうございます。こんな素敵な場所に連れてきてもらって」
彼女は穏やかな表情のまま僕を見た。それは初めて僕に向けられたものだった。
「そっか。良かった」
僕まで穏やかな気持ちになって答えた。
「でもね、ゆきちゃん」
「ん? 何ですか?」
「これだけじゃないんだ。ほら、あそこ」
僕はそう言って水平線に目を向けた。つられて彼女も目を向けると、水平線に月が輝いている。
「三上さん、アレって」
「そう、月の出。綺麗でしょ」
「はい、とっても」
しばらくの間、僕達は堤防に腰掛けて月を眺めていた。
経験したことがないほどの穏やかな時間がゆっくりと流れた。
腕時計に目をやると、新しい日付が刻まれていた。
「おっと、12時過ぎちゃった。ゆきちゃん、付き合ってくれてありがと。彼女役は終わりでいいよ」
「えっ?」
僕の言葉に彼女は残念そうな表情を浮かべた。そして数秒の沈黙の後、顔を上げて言った。
「あ、あの、まだ1秒だけアディショナルタイムが残ってます!」
「え? アディショナルタイム?」
その言葉の意味がわからず、ふと僕が彼女に顔を向けた次の瞬間、ぽわぽわした柔らかな感触に唇を奪われた。
「?!」
突然の甘い衝撃に驚いて後ろへ倒れ込んでしまった。
『ゴン!』
後頭部を強打。
「いってー!」
「大丈夫ですかっ?」
――なんてこった……。
まさかの甘い展開は一瞬で消えてしまった。
でも彼女の柔らかな唇の感触はしっかり残っている。ヤバい、思い出したらまた倒れてしまいそうだ。
「あ、三上さん、ここ、タンコブできてますよ。申し訳ないですけど、ちょっとウケます」
僕の後頭部に手を当てながらケタケタ笑う。こんな彼女が見られるんならタンコブのひとつやふたつなんて痛くも痒くもないと思った。
帰りの車中、助手席で疲れて眠る穏やかな寝顔は僕を幸せにしてくれるのに十分だった。
「ゆきちゃん、好きだよ」
運転しながら小さく呟いた。自分でも無意識に出た言葉だった。
「え?何ですか?」
助手席から声がした。
見ると彼女がぽわぽわ笑顔で僕を見ている。
「えぇっ!起きてたの?」
「今、起きました。で、さっき何て言ったんですか?」
彼女はこちらに身を乗り出して、少しいたずらっぽく笑った。絶対に知ってて聞いてる。
そんな彼女に僕は答えた。
「なんでもないよ。
なんでもないよっ!」
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