第140話

 いまだ起きて階下に来ず、惰眠を貪る幼馴染と人狼娘の牡蠣かきスープなど鍋に残して、愛用の聖書持参で出勤する司祭の娘に続き、一緒に玄関の外へ出る。


 その途端、冷たい冬の風が片頬をかすめ、反対側へ通り過ぎていった。


「うぅ~、寒いですね」

「それが自然だから、致し方ない」


 かすかな粉雪を降らせる曇天どんてんの下、身体ごと近づいてきたフィアの蜂蜜色髪をなだめるように撫ぜかし、石畳の街路に送り出す。


 とぼとぼ歩く背中を少しの間だけ見めて居間に戻り、日々の彼是あれこれを考えながら四半刻ほど過ごした上で、“いい加減に起きろ” と上階の寝坊助どもに大声を届かせてから、同一敷地内にある印刷局管轄かんかつの製紙工場までおもむくと……


 始業前の頃合いではあるものの、再着任となる元庭師が正門付近にいて、小さな花壇の世話に勤しんでいた。


「製紙事業に巻き込んだ経緯もあって俺の言えた義理じゃないが、未練がましいぞ」

「えぇ、坊ちゃんに指摘される筋合いは微塵もありません」


「やはり藪蛇だったな、もう作業場や倉庫の鍵開けは済んだのか?」

「それはジラルドがやってくれました。あいつも鍵束を預かっているので」


 さらりと答えた工場長が視線をらして土いじりに没頭するかたわら、普段の意志疎通コミュニケーションを円滑にする一環で色々と話し掛けていれば、ちらほらと宿舎住まいの働き手らが姿を見せ始める。


「「おはようございます、若君わかぎみ!」」

「「本年もよろしくお願い致します!!」」


 所謂いわゆる 、自領からの “出稼ぎ組” が通り過ぎる間際まぎわ、グラシア紙幣の導入にかかる財務調整官として局長を兼ねた俺や、直属の上司たる元庭師に頭を下げていく。


 その挨拶に応じていたら、唐突に感慨深げな吐息が漏れ聞こえた。


「農家出身の私が中央行政府の管理職とか、人生は何があるか、分かりませんね」

「結果的に主従の縁は切れたが、今後とも頼らせてもらう」


「いやいや、印刷局長なんですから、いつものごとく命令してください」

「まぁ、それでも意識を切り替えないと、公的組織の私物化に繋がる」


 言わずもがな、製紙工場の従業員に占めるウェルゼリア領民の比率は高いため、領主家との妙な上下関係が形成されないように傾注けいちゅうすべきだろう。


 早くも王都で雇用された新参と古参の間にいて、目に見えないへだたりが感じられるとは小耳に挟んでおり、何かしらの手を打つ必要があった。


「あまり趣味じゃなくても、親睦会はやった方が無難ぶなんな気もするな」

「ははっ、タダ酒は歓迎ですよ、綺麗処の二人も呼びましょう」


「確実にリィナとフィアの分は経費で落とせない、却下だ」


 気軽に言ってくれる元庭師の提案を蹴り、宰相閣下が付けてくれた年間予算から適当な名目で費用を捻出ねんしゅつできないか、行政府が納めている金銀貨幣に対して新紙幣の発行総額は妥当だとうかなど、諸々もろもろの事柄を確認するために工場内の事務所へ向かう。


 昨年の最終月をって本格稼働している印刷局には、まだまだ手探りで解決しなければならない課題が積まれており、今年もいそがしい毎日が続きそうだ。

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