第93話

 争いは何も生まないわ。ラブ&ピース万歳。


 唐突に美しく空虚な主張をしてみたが、私はただいま係争中である。罪なき争いも存在する。お互いが理性でもって冷静な議論を尽くせるのであれば、その「争い」とも呼べる論争は有益である。民主主義の根幹とも言えよう。もっとも、我が祖国では政でも官でも民でもその根幹がすっかり腐り果てているようだが。


 おっと、争いのせいで、柄にもない愚痴が出てしまった。そんな与太話は居酒屋でだらだらすれば良いのであって、今は目前の問題に集中すべき時である。


 私は跪き、両手の平を揃えて前面に向け、厳かに波動を受け止めた。温かい。私の目の前にはストーブがあるのだ。もう春はそこまで来ているが、朝晩にはぐっと冷え込むことがある。水仕事の後など、こうして掌をあぶりたくもなる。


 だが、見よ、この残りTPを。TPとはすなわち、灯油ポイントである。ストーブの足元に示された油量は、ほぼ空に近い。そして、外に置いてある青い灯油ポリタンクも、中身は空気だけだ。


「これを使い切ったら、お代わりは買わないぞ。」


私は身を切るような思いで通告した。相手は、身の丈四尺の飼いネコ、メニョである。夕食を食べ、腹もくちくなったところで、ストーブの脇にて平たくなってとろとろまどろむのを最上としている。よって、私の通告には反対を表明する。


「ぬー」

「すぐ暖かくなるから、このタイミングで買ったら灯油が残っちゃうだろ。」

「ぬーう」

「残って古くなった灯油は次のシーズンには使えないし。あのクソ暑い夏を越した灯油なんて、劣化するに決まってる。」

「ふぬーん」


 こうして、先ほどから死にかけのストーブの前で論戦が繰り広げられているわけだ。ただし、私はメニョ語を聞き取れないので、反対されていることしか分からない。おかげで、論点を明確にし、主張を展開し、互いの意見を尊重しつつ善き着地点を見つけるという討論が成立しない。私が壁の染みに向かって独り言を呟いているのと同じようなものだ。


 ただ明確に違うのは、放っておくと、この毛むくじゃらは移動販売車から灯油を買ってしまいかねないという点である。そういうことはぬかりなくやり遂げてしまうのだ、このネコは。暖房のためなら手間を惜しまない。金も惜しまない。こんなに密集した高断熱の毛皮のコートを常時着用しているのに、何故こんなに暖房が好きなんだか。


「寒いなら、コタツを使いなさい。湯たんぽもあるでしょ。」

「ふあーむ」


 ストーブが好きらしい。それは知っている。1にお日様、2にストーブ、3、4同着で布団と湯たんぽ(もしくはヒトたんぽ)、コタツは5番目くらいだ。ネコ手ではスイッチを入れにくいせいか、程よい暖かさに調節するのが難しいせいか、分からない。が、コタツは今一つメニョにモテない。どんなに寒い日でも、メニョが自発的にコタツに火を入れて暖を取っている姿を見たことはない。


 とはいえ、やはり今この時期に灯油を買いたくはない。私はタブレットをぽにぽにと操作し、天気予報を調べた。きっと、この先どんどん暖かくなるはず。


「…なーふ」


メニョが横から画面を眺めて、ひげをそよがせた。どうも、寒気がこの先1週間は居座る見込みだ。その先は分からないが、ひとまず当面は冬の気温である。


「ぐうう。なんだ、その得意そうな顔は。」

「にゃ」

「やっぱり灯油を買うべきである。そういう表情だな?」

「にゃ」


ぷいん、としっぽが揺れて、私をしばく。


 さりとて、灯油が残るのは困る。ポリタンクいっぱい買ったら、きっと残る。少なくとも、寒気が見込まれるこの先1週間では使いきれない。その先も冬の寒さが続くかというと、おそらくそれはないだろう。我が根城は北国の果てではないのだ。


「ううむ。」


 両手をストーブにかざしたまま唸っていると、メニョがふいっと腰を上げた。してぽてと足音高く掃き出し窓に歩み寄り、後ろ足で立ち上がって勢いよくガラス戸を開ける。その途端、寒気がひゅううと流れ込んで、私は思わず首をすくませた。


「なんだ、寒さアピールか?」

「ぬー」


 違うのか。何だろう。メニョが何かを要求したそうにこちらを見るので、私は開いたガラス戸の脇に歩み寄った。寒い、寒い。


「なふ」


掃き出し窓のすぐ外には、灯油のポリタンクが置いてある。今は空っぽで重量が無いので、庭に転がっていた大きめの石を載せて、飛んで行かないようにしてある。メニョはそのポリタンクをカリカリと爪で引っ掻いた。


「え、何。灯油を買おうよという貴重なご意見は拝聴したけど。残るのが嫌なんだって。」

「まーう」


カリカリ。そんなに引っ掻いたら、穴が開いてまうがな。やめさせようかと思って、私はメニョの手元に手を伸ばそうとした。そして、ふと気づく。メニョはポリタンクの中ほどをコリコリしているではないか。


「ん?灯油を一杯でなくて、半分くらい買うってことか?」

「にゃー」

「なるほど。確かに、リットル買いもできるよな。でも、18Lの半分…9Lかあ。ちょっと多くないか?」


何しろ、我が家は夜にしか暖房を炊かない。陽のあるうちはメニョは日光浴、私は職場で暖を取れる。天気予報だって、明日明後日くらいはともかく、1週間後の気温はあてにならないし。


「5。5Lでどうだ。」

「ぬーう」

「え、9?多いよ。」


どうも、私の聞き取りはメニョの意図と違うらしい。メニョは不満そうにしっぽを振りながら戸を閉めると、ぽてぽて歩いて紙と鉛筆を咥えてきた。床に紙を置き、両前足で鉛筆を掴んで、ぐりぐりとメニョ文字を書き記す。メニョ文字はヨタヨタのヨレヨレだが、数字は比較的読みやすい。


「ええと、12?半分より多いじゃないか。少な目にして、足りなきゃ買い足せば良いじゃん。」

「ふあん」

「不安だってか?いやいや、残る方が心配だって。7。この線は譲れないぞ。」

「んんん」

「11?ちょっと刻んだな。でも、多過ぎだってば。」


 丁々発止。何だか分からないが、セリのようなオークションのような様相になってきた。討論とは言い難いが、これはこれで結論が導き出される。


 結局、ぴったり半分の9Lを買い足すということで、メニョと私の駆け引きは終了した。何だかくたびれたが、健全な結果が出たことに満足である。私は深く息をつき、部屋にぬくもりの残るうちに風呂に入って寝ることにした。


 そうして翌日、会社から帰った私は灯油のレシートを見て、メニョがちゃっかり12Lの灯油を購入していることを知ったのであった。無論、逃げるメニョをすぐさまとっ捕まえて、思い切りもふもふ揉みまくりの刑に処してやった。ああ、民主主義、此処に崩壊セリ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る