第21話

 私は勤勉で地味なサラリーマン。部下の管理なんて面倒だから出世したくないが、急にクビにされても困る。だから、仕事を無難にこなしつつ、目立たぬよう過ごすのが私の処世術なのだ。


 その日も私はきっちり机の上を片付け、定時の鐘の3分後には席を立った。と、その私に声をかけてきた者がいる。隣の同僚だ。


「沢田さん、今日、軽く一杯行きませんか。」

「断固、行きません。お疲れ様です。」


私は鞄を持って背を向けた。定時を過ぎたらプライベートモードだ。職場の人間に振舞うAP(愛想ポイント)はもう無い。その私のコートを、隣の同僚が掴んだ。


「今日は離しませんよ。聞いて欲しいことがあるんです。たまには相談に乗ってくださいよ。」

「話は聞くので、業務時間中に言ってください。じゃ、そゆことで。」

「お酒の力を借りないと言えないことって、あるじゃないですか。」

「お酒をそんなしょうもないことに使わないでいただきたい。お金も無いし、さよなら。」

「今日はおごりますから、ね?」


こうして私は、駅前の居酒屋チェーン店に拉致された。


 やかましい店内で、私は幾度も腕時計を確認した。我が家の身の丈四尺のネコ、メニョがご飯を作って待ってくれているはずだ。そっちが気になって、同僚の相談とやらは全然頭に入らない。あまりに上の空すぎて、相槌も打たない私だが、同僚はだらだら何か話し続けている。これなら、壁の染みや天井の模様に向かって話せば良いではないか。


 メニョごはんがあると思うと、腹に溜まるような飲み食いもできない。私はもずく酢と冷やしトマトと浅漬けをウーロン茶で流し込みつつ、今日のメニョ晩御飯のことばかり考えた。


「沢田さん、今日は飲まないんデすか。肝臓でも悪いんでスか?沢田さんが飲まなイなんて、心配でスヨ。」

「酔っぱらって他人に絡む奴は嫌いです。もう遅いので、帰ります。」


速いピッチでレモンハイを何杯も空け、すでによれよれしている同僚を振り払って、私は立ち上がった。おごってもらう理由も無いので、頭の中で勘定しておいた金額をテーブルに置いておく。


 私が外に出ると、時刻は午後8時だった。サラリーマンが飲んで帰る時刻にしては全然遅くはないのだが、私にとっては遅い。


 私は電車に乗り、降り、自宅最寄駅から徒歩30分の道のりを歩き始めた。途中に、いつも良い匂いをさせている焼き鳥屋さんと、おでん屋さんがある。ここにメニョと来られたらなあ、といつも思うのだが、言い出せずにテイクアウトだけしている。さすがに、飲食店にネコは無いよな。


 私は足早に通り過ぎて、自宅に帰った。


「ただいまー。遅くなってごめん。」

「おなーう」


メニョが玄関で出迎えてくれる。ちょっと文句っぽく鳴いている。私はメニョの頭を撫で繰り回し、もふもふの背中をすうすう吸った。そうしていると、メニョがゴロゴロ鳴りだす。ああ、これこれ。私の居場所はここですよ。


 メニョの日向の匂いに混じって、何だか出汁っぽい良い香りが漂ってきて、私は顔を上げた。


「良い匂い。今日のご飯、何?」

「にゃあん」


うむ、分からん。


 私はメニョと一緒に台所に向かった。コンロに置かれた土鍋から緩やかに湯気が昇っている。お鍋かしら。昨日も一昨日も鍋だったんだが、まあ、いいや。美味しいし。


 私はぱかっと蓋を開けた。


「おお、おでん!どうしたことだ!整然としている!」


ちくわ、がんもどきはまだしも、つるりと殻をむかれた卵、同じく皮をむかれた大根、竹串に刺さった牛筋、結び糸こんにゃく、手作りっぽいロールキャベツなんて芸当はメニョのネコ手のレパートリーには無い。肉球と爪からなるネコ手でそんな器用な真似ができるはずはないではないか。


 メニョは横からレシートを出してきた。


「あ、あそこのおでん屋で買ったのかー。なるへそ。」


メニョはネコらしく、そこいらを散歩するのが日課だ。おでん屋さんのことも当然知っている。ネコ手で土鍋を抱えて歩いて行ったとは思えないので、水も漏らさぬ高性能のタッパーウェアをリュックに入れて持って行ったのだろう。


 レシートの裏に何か書いてあることに気付いて、私はくるりとひっくり返してみた。


「ぜひネコちゃんといらしてください。うちの看板ネコと仲良しです。」


私は音読して、メニョに目を向けた。ひげがそよそよして、しっぽがはたはた。


「メニョ、友達いたのか。そりゃ、良いな。」

「にゃーん」


それにしても、あのおでん屋さんはネコ同伴可らしい。衛生的にどうなんだろう、と他人事ながら心配になる。


 まあ、ネコがご飯を作ったって、ヒトはおなかを壊さないことは自分で人体実験済みだ。大丈夫なんだろう。おでんはぐつぐつ加熱されてるし。それに、世の中にはネコカフェなんてものもある。気になる人は来ず、お好きな人は来るということで、棲み分けというものだろう。私だって、ネコじゃなくてクモカフェだったら、どんなに清潔であっても絶対に行かない。


 私は燗酒を仕掛けてからぬくい部屋着に着替え、食卓に着いた。おでんと、熱燗。それに、ネコ。くう、たまらん!生きていて良かった。


 あまりにお酒が美味しいので、私はふと、つい数時間前のことを思い返した。同僚は結局何の相談だったんだろう。私は思い出そうとして、何も思い出せず、だらりと伸びたメニョのしっぽを眺めた。うん、たぶん、しっぽの毛よりは価値の無い内容だったに違いない。大事な話なら、また言うだろう。放っておこう。


「メニョ、今度一緒におでん屋行こうよ。」

「ぬあ」


 ネコ缶を食べている最中なので、口からこぼれる。賛同しているようではある。


 メニョとおでん屋さんで一杯か。家呑みも良いけど、きっとすごく楽しいだろうな。オラ、すっげえワクワクしてきたゾ!私はぱくりとがんもにかぶりつき、にやにやした。

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