第22話

 私は公私のメリハリを大事にするサラリーマン。だから、毎日定時で帰る。社の方針であり、私の揺るぎない信念である。人生において残業代より重要なのは、ネコのもふもふと戯れる時間だ。だが、私の隣の同僚は、残業代が欲しいのかそれとも単に要領が悪いのか、ときどき居残る。居残らざるを得ない日、同僚は寂しそうに私を眺める。


 が、そんなことに構っている暇は無い。私は定時の鐘が鳴って2分後には立ち上がった。


「沢田さん、帰っちゃうんですか。」

「はい。お疲れ様です。」

「こないだの話、どうでしたか?」

「忘れました。じゃ、そゆことで。」


こないだの話というのが一体いつの何の話か、定かではないが、私は同僚の話のほとんどを右から左へ聞き流している。まあ、忘れたと言っておけば概ね真実だ。だが、同僚は突然机に突っ伏してしまった。時間外に、面倒くさい奴め。


「ひどい…こう見えて、繊細なんですよ。頑張って話したのに。」

「それは失礼しました。お詫びに、これ使ってください。じゃ。」


私は朝に駅でもらった交通安全キャンペーンのポケットティッシュを同僚の机に置いた。鼻紙はたんとある、泣くなり何なり、好きにすればよろしい。


 なおも何かを言い募ろうとする同僚を放って、私はつむじ風のように社を出た。定時帰りはいつものことなれど、今日は特に早く帰りたいのだ。今日は、我が家の飼いネコ、メニョと約束がある。ネコと同僚とどちらが大事か?愚問だ。ネコに決まっている。全世界のネコ飼いがそう言うだろう。


 自宅の最寄り駅から徒歩30分の道のりを、今宵、私は20分で踏破した。足先手先の凍り付く季節に、いい汗かいたわい。


「たらいま…。」


肩で息をしながら、私は玄関の戸を開けた。メニョがまんじゅうになって待っていた。メニョは身の丈が四尺あるので、丸くなると良い庭石のようなサイズ感。私はさっそく両手でもふもふ揉み散らかし、ふすふすと毛皮を吸った。うむ、充電完了。


 私は通勤鞄から財布だけ取り出して、コートのポケットに突っ込んだ。さあ、お出かけ。


「んにゃ」


メニョに指摘され、私は家の鍵を靴箱に置き忘れていることに気付いた。いけない、いけない。築64年のぼろ屋だが、戸締りくらいはしていかないと。


 私はメニョと連れ立って玄関の外に出た。きっちり鍵をかけて。


「おーい、何で塀の上を歩くんだよ。」

「にゃー」


せっかく一緒にお出かけなのに、メニョはブロック塀の上をすたすた四つ足で歩いている。これでは、顔見知りの野良ネコと歩いているようではないか。


「うにゃー」


メニョは他のお宅のお庭や木の枝、フェンスなどを多用して、アスレチックでダイナミックな道を行こうとする。何故ならば、それが目的地までの直線路に近いからだ。


「いやいや、その近道は私には使えないって。」


私は小走りになって、メニョの後を追う。さっきから、体力の消耗が激しい。あんぱんまーん、おなかが空いてて力が出ないよー。


 もう駄目だ、喉も渇いたし。と力尽きかけた時、私は何とか1軒のおでん屋の前にたどり着いた。本日の目的地だ。先日、店主からお誘いを受けていたので、のこのこ毛むくじゃらな面をさらしに来たわけだ。


 メニョは店の前でちょこんと座って待っていた。私は喘ぎながら、がらがらと戸を開けた。


「いらっしゃいませー、何名様ですか?」

「一人と一匹です。」


きょとん、とする若いお姉さん。そこへぬるりとメニョが入ってきた。


「にゃー」

「みー」


メニョが挨拶した先をよく見れば、店内の隅の椅子に、小さな三毛ネコがいるではないか。メニョに比べると豆粒のようだ。仔猫か。しかし、この冬の時期に仔猫?


 そこへ、初老の婦人が現れた。この店の主である。おでんをテイクアウトしに来たことがあるので、知っている。店主はにこにこしてメニョを眺めた。


「あら、来てくれたんですね。どうぞどうぞ、空いてますからお座敷で丸くなってください。はい、このタオルで足拭いてね。」


これはどう考えても、ネコ向けの発言だ。私は座敷で丸くはならないし、靴を脱げば足も拭かなくていい。もしかして、この店の客層はネコばかりなのか。しかし、ちらほらいる酔客はヒトに見える。うーむ。


 何でもいいや、おなか空いた。私は問題を棚上げして、座敷に上がった。おでんの良いところは、注文したらすぐ供されるところだ。私はとりあえずビールならぬ、とりあえずダイコンを口に放り込んだ。うまーい。


「ぬあああ」


メニョが恨めしそうにこちらを見る。おでんはネコには塩辛い。同伴で来店したが、実は同じものは食べられないのがヒトとネコというものだ。しょうがないから、私は突き出しのお浸しにかかっていたおかかを少し分けてやった。メニョの図体では何の腹の足しにもならないが、まあ、突き出しってそういうポジション。


「お待たせしましたー。」


 メニョが鼻を舐めたところで、店主が何か持ってきた。頼んだ記憶はないが、大きな魚の切り身が焼きあがっている。丁度良く冷めているのか、湯気は昇っていない。店主は魚を私ではなくメニョの前に置いた。何だ、メニョ用か、なるほどな。


「はい、どうぞ。塩はかけてないから、安心してね。」

「うにゃーい」


メニョは喜んでかじりついた。ちゃむ、ちゃむと夢中で食べて、ふと思い出したように顔を上げる。


「にゃ?」

「いや、私はおでんがあるから良いよ。遠慮せず、メニョが全部食べちゃいな。」


私がそう言うと、メニョはどことなく残念そうな顔をする。しかし、ネコがかじったものを食うというのも、人獣共通感染症とか何とか言う見地からはどうなんだ。いやそれより、飼いネコの食いかけを奪って食う飼い主と言うのは、ヒトとしてのプライドはどうなんだ。


 私が思い悩んでいると、救世主現る。さっきの豆ネコがすーっと寄ってきて、メニョの魚の欠片を食ってくれたのだ。二匹は何やら鼻をふこふこさせて会話していたが、そのうちメニョは自分の魚作業に戻った。


「あら、チャコ。お客さんのご飯とっちゃ、ダメでしょ。」


 店主が追加のおでん種を持ってきた。この豆ネコはチャコと言うらしい。


「すみませんね、おばあちゃんなんだけど、食い意地が張ってて。よく食べるから、おなかだるだるで、大きいでしょ。」


なんと、仔猫ではなかったのか。全然大きくないのだが。私はイカ足とともに驚きを飲み込んだ。メニョを見慣れ過ぎていて、というか、メニョしか飼ったことがないから、ネコの標準サイズが分からない。


 私はかぶりを振って、2本目のお銚子を空けた。うん、ネコと居酒屋って、酒が進むなあ。私は3本目のお銚子を頼もうと、店主に声を掛けた。すると、メニョがべしっと私にネコパンチを食らわせる。


「えー。折角来たんだから、良いじゃん。」

「うぬー」

「明日休みだし、あと一本。な?ほれ、こちょ、こちょ、こちょ。」

「ぬうう、ごろごろ」


酒量に厳しいメニョと攻防戦を繰り広げていると、店主が刺身を持って登場した。頼んだっけ?頼んでいない気がするが、もしかしたら頼んだかもしれない。メニョのもふ毛に記憶が奪われて、曖昧だ。


「はい、こっちはメニョちゃんの取り皿。二人で分けて食べてくださいね。」

「じゃ、お銚子もう一本お願いします。」

「うなああ」

「はいはい、じゃあ、入れるお酒を半分にしときましょうかね。」


こうして、店主の気配りで我々の着地点が決定した。素晴らしい機転。できれば、多めの半分にしておいてほしいところだ。


 私はお刺身をメニョと分かち合い、残り少ないお酒をすすった。最後に、おでんの汁かけライスを軽く啜って、ふう、満腹満足。腹をさすりながら横を見ると、メニョも何やら汁かけライスを食べている。


「塩気の無いだし汁を掛けたネコまんまですよ。」


店主が空いた皿を下げつつ説明してくれた。なるほど、そういうネコまんまもありか。刺身と言い、これと言い、メニョと食事を共有できて、何となく嬉しい。好い店だなあ。


 私はお勘定を済ませて、最後にチャコを撫でた。小さくて可愛いけれど、イマイチ撫で応えがない。こんな儚いサイズ、両腕で抱きしめたら潰れちゃいそうだ。やっぱり、メニョのサイズが最高。ネコは身の丈四尺に限る。うちのネコが一番かわいい。


「また来てくださいね。」


店主も最後にメニョを撫でた。でも多分、店主はチャコが一番かわいいと思っていることだろう。ネコとはそういう生き物だ。


「みー」

「にゃー」


 何やらネコ同士の挨拶を済ませ、メニョは私の横に並んで歩きだした。帰り路は一緒にいてくれるらしい。


「美味しかったなあ、メニョ。」

「にゃ」

「また来ような。」

「にゃー」

「今度は、3本飲んで良いだろ。」

「ぬー」


ちぇっ。雰囲気には流されなかったか。可愛いけど、やっぱりメニョは厳しい。

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