第5話
私はサラリーマン。毎朝決まった時刻に出社し、何くれとなく事務仕事をこなし、定時に帰る。仕事にこれといった楽しみは無い。ネクタイ締めてスーツ着て、パンプス履いて化粧して、電車に揺られてデスクに付いて仕事しているサラリーマンは、皆そんなものであろう。
唯一、楽しみがあるとすれば昼休みである。昼の鐘が鳴り、私はるんるん気分で通勤鞄から弁当箱を取り出した。朝に準備されてはいるが、敢えて中身を見ないで昼までウキウキを取っておくのが、午前中をご機嫌に過ごす秘訣だ。
ぱか、と蓋を開けた私はにやりと笑った。
「沢田さん、今日もワイルドですね。」
隣の同僚が、コーヒー片手にコンビニのサンドイッチをかじりながら私の弁当を眺めた。何を隠そう、私の弁当は愛猫弁当である。我が家の飼いネコであるメニョが早朝に作ってくれるのだ。ネコというものは早起きな生き物なので、朝は苦にならないらしい。寝坊助な私には、羨ましい。
なお、何を隠そう、とは言ったが、ネコに弁当を作らせているというのはいささかこっぱずかしいので、実はひた隠しにしている。よって、ワイルド弁当の作者は私ということになっている。なかなか素敵な評価項目ではないか。私の株も上がろうというものだ。
今日は、ピーマンと小茄子とミニトマトの丸茹でと、殻をむいていない茹で卵と、サイズ不揃いなニンジンぶつ切りをごま油入りポン酢醤油に漬けた即席漬けである。彩り豊かではないか。ごはんには、おかか。たぶん、自分でも少しつまみ食いしたに違いない。メニョはおかかが大好物である。自分もつまみ食いしたいがために、たいてい弁当はおかかごはんになっている。別名ねこまんまだが、私自身はネコではない。
「沢田さんの弁当、いつも素材そのままですよね…。」
同僚の微妙な温度の言葉を流して、私はピーマンにかぶりついた。種が少々口に残るが、食物繊維のようなものだろう。よく噛んで食べれば身体に良いはずだ。続いて、小茄子。ヘタが残っていて多少硬いが、これも食物繊維。たぶん、ポリフェノールとかビタミンも含まれているだろう。何という健康的な弁当であろうか。コンビニサンドイッチで満足している同僚が気の毒になる。
さてさて、お次にゆで卵。これは鉄板である。誰がどう作ろうと美味しい料理だが、どうやって仕込むのか、メニョの茹で卵は塩味が良い塩梅に染みている。私の知らない作り方をネコが知っているのはいかがなものかとも思ったが、美味しいからその問題には目をつぶることにした。つぶったまま、随分長い時が過ぎた。
私は美味しい愛猫弁当を完食し、腹をさすった。余は満足である。
おっと、弁当箱を洗っておかないと。洗い物は私の担当である。何故ならば、一般的にネコは濡れるのが嫌いな生き物であり、我が家のメニョもまたご多聞に漏れずだからだ。そのため、メニョの作るごはんは十分に洗われていない食材が供されることになる。まあ、大抵何でも丸茹でにされているから、きれいになっているはずだ。問題はない。
さて、弁当箱を洗い終わった今、次なる問題は、今晩のメニュウだ。メニョは一体何を作ってくれるのだろうか。私は上の空で文書を読み、データを入力し、電話を取り、上司に報告し、取引先と歓談した。サラリーマンたるもの、その程度は上の空で片付ける才覚がなくては務まらない。
定時の鐘が鳴り、私はパソコンを閉じた。残業はしない。社の方針であり、私の方針でもある。だって、ネコが家で待っているのだもの。早く帰りたいではないか。ヒトとして当然の欲求だ。生理現象と言っても差し支えない。
社を出ると、雨模様であった。昼過ぎまで晴れていたのに。私は通勤鞄から折りたたみ傘を取り出した。メニョが朝に入れておいてくれたものだ。ネコは雨の気配に敏感である。メニョと暮らすようになってからというもの、我が家にコンビニ傘の在庫が増えることが無くなった。
ふん、ふん、と鼻歌を歌いつつ、私は我が家の戸を開けた。今日の晩御飯、何かな。
ところが、家の中は真っ暗であった。メニョは暗くても目が見えるが、私が帰るころには気を利かせて照明をつけておいてくれるのに。まさか、メニョに何かあったのか。
私は傘を放り投げて、靴を脱ぎ散らかして、濡れた靴下のままリビングに突入した。暗がりにネコの気配があるが、ネコ目でないとよく見えない。私は壁のスイッチを押して、照明をつける。フローリングに、もふもふとしたものが長く伸びていた。部屋が明るくなっても、顔を上げない。
「メニョ!どうした、どこか具合が悪いのか?」
私は駆け寄って、もふもふな腹を揉みさすった。メニョはそこでようやく顔を上げて、大の男のげんこつが入りそうな口を開けてあくびをかました。何度か、にゃむにゃむと口を動かす。寝っ転がったまま四肢を突っ張って伸びをすると、メニョはのそりと起き上がった。眠そうだ。
「にゃむ、にゃむ」
「何だ、眠いだけか…雨だもんなあ。」
メニョは雨の日は寝る。とてもよく寝る。髭が重いらしい。眠いだけで、片頭痛とかでなくて良かったと思う。
しっぽを立て、ぬるぬると私に身体を擦り付けるメニョをなでなでしてから、私は靴下を脱いだ。濡れていて気持ち悪い。それをすかさずメニョが咥え、しっかり顔をしかめ、洗濯機まで持って行く。そりゃ、濡れていれば臭さも倍増であろう。
「にゃー」
湿ったズボンを脱いで吊るし、Tシャツと短パンに着替えた私に、メニョがすりすりしてきた。素肌の膝裏にもふ毛が気持ちいい。
「はらへりーか。」
「にゃ」
「私もはらへりーだよ。今日は簡単に済まそうや。」
晩飯がメニョごはんでないのは寂しいが、相手がネコだから仕方がない。ヒトの都合で雨や晴を操れないのと同じだ。ヒトの分際でネコを思い通りにしようなんて、傲慢に過ぎる。
私はマグロのネコ缶を開け、カリカリを添えてメニョに供した。ついでに、冷凍庫からお好み焼きを、冷蔵庫からハイボール缶を出す。蒸し暑いこんな日は、角ハイで決まり。野菜は昼に食べたからよしとする。あっ、でも、今日は冷えたキュウリを食べるチャンスではないか。よしよし。私は野菜室からキュウリを取り出し、よく洗って、ぼりぼりとかじった。
「うぬー」
ネコ定食を食べ終わったメニョが文句を言う。冷たい野菜は腹を下すと信じているのだ。
「大丈夫だって。茹でると暑いしさ。」
「うあー」
「たまにはいいじゃん。そうだそうだ、冷やしトマトも食べようかな…」
トマトを洗う私の背に両前足を当てて、メニョが立ち上がった。横から覗いて、文句を垂れている。髭が腕に当たってこそばゆい。うむ、なんと可愛いことか。メニョがご飯を作る日も、そうでない日も、メニョがいると楽しい。
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