うちのネコに膝の上は狭すぎる

菊姫 新政

第1話

 それはある暑い夏の夜のことでした。


 私は額をぬぐい、脇汗を隠し、加齢臭を気にしながら、熱を帯びたままのアスファルトの上を歩いて家に帰りました。すると、何ということでしょうか。グラグラと煮え立った湯の中で、トマトとキュウリと豆腐がアツアツの丸茹でにされていました。


「折角、冷やしておいたのに…」


 私はがっくりと膝を折った。帰る道すがら、私の頭の中では冷たいトマ・キュウサラダと冷奴が躍っていたというのに。


 ごま油でアミエビを香りが出るまで炒めておいて、刻んだザーサイ、ネギ、ショウガ、醤油、それに酢を少々と混ぜ合わせる。黒酢とか、めんどくさいことは言わない。その辺にある酢で良い。うちは、ミツカンの純米酢だ。これで、夏の間の作り置き中華だれの出来上がりである。こいつを、冷えたトマ・キュウとか豆腐にかけるだけで、晩酌のあてになる。


 ここまで考えて、私はがばっと立ち上がって鍋の中を再確認した。


 ふう…良かった。ハイボールの缶は、燗にされていない。


 安堵の息をついた私の膝裏を、ぬるりとした感触が撫でた。


「にゃ」


我が家(と言っても、住人は私一人だが)の飼い猫、メニョリータがしっぽを立てて緑の瞳で私を見つめていた。腹と四肢は白くて、背中としっぽは黒っぽい縞、顔は八割れ模様の、世界中でよく見かけるやつだ。私が自分で血統書も作った。祖父母・父母・兄弟姉妹不明、以上。由緒正しい雑種である。


「うむ、ただいま帰った。」


 私は手を伸ばして、メニョリータ…長いからメニョとしか呼ばないので、以下、メニョとするが、メニョを撫でまわした。もふもふ、もふもふ。うーん、とても気持ちが良い。


 しかし。


「何でもかんでも茹でれば良いというのは、間違いだと言っているではないか。」

「うぬー」


太くて長いしっぽが不満げに振られ、私の膝裏にクリーンヒットした。膝カックン。私はよろめき倒れた。


 そんな私を尻目に、メニョはすっくと立ちあがった。いや、もともと4足で立って歩いてはいたのだが、それが、後ろ足の2本で立ったわけだ。メニョは地獄の釜のように我が家の台所を温め続けている鍋の火を消し、シンクに置いたざるに中身を空ける。ほっかほかに茹で上がったトマトとキュウリ、それに、パックごと温められた充填豆腐がざるの中でもうもうと湯気を上げている。


「お前、ネコ手だろう。熱くしてどうするんだ。冷たいままでいいのに。」

「うぬーう」


メニョはいつも何かを喋る。何を言っているか定かではない。が、多分、「冷たいものは腹を壊す」と言っている。メニョは時々腹が弱く、冬場など、ネコ缶をあっためてやらないと下痢気味になることがある。


 だが、私の腹は丈夫である。真夏にキュウリを茹でるなんて、要らんお世話だ。


 メニョは立ち上る湯気を前に腕を組んで見守っている。ネコ手だから、熱い物は触らない。


 私は諦め、とりあえずTシャツと短パンに着替えることにした。ぽいぽい、とワイシャツやら靴下を脱いで放り出す。と、台所で仁王立ちしていたはずのメニョがカショカショ爪音を立てながら現れた。ネコだから言うまでもないことだが、歩くときは基本的に四本足である。私が脱ぎ散らかした衣類をパクっと咥えて、洗濯機まで運んでいく。靴下を咥えると、その瞬間、いつも顔をしかめるのが気になる。


 まあ、良い。夏場に靴下が臭うのは自分でも分かっている。あんな鼻先にぶら下げれば、さぞ臭いだろう。っていうか、別に、持って行ってくれなんて頼んでないんだからね。自分で片付けるし。


 私は裸足でペタペタ歩いて、冷蔵庫の前に立った。キンキンに冷えたハイボールを一缶取り出し、ぷしゅっとな。ごくっとな。うーん。これですよ、これ。


「ぷはー…痛っ」

「うぬー」


満足の息を満足に吐くことも許されぬ。半分爪を出したメニョの前足が、私の背を押すのである。多分、飲み食いは食卓でせよ、と言っている。


 私は飲みさしのハイボールを握りしめたまま、食卓に着いた。さて、それでは心置きなくもう一口、と思う目の前に、毛むくじゃらの両前足がにゅうと突き出される。肉球で挟まれ、ぬるくなっているそれは、ガラスのコップである。ネコ手だから、グラスを冷凍庫で冷やすとか、気の利いた芸当はできないのだ。


「ぬう」


缶から直接飲むな、と言っている。


「はい、はい。もう、ネコのくせに細かいなあ。」


 そう言えば、メニョは皿に出さないとネコ缶を食わない。一方私は、鍋から直接ラーメンを食って平気な性質だ。全く、メニョの細かさは誰に似たやら。私はぬるいグラスにハイボールを注ぎ入れ、今度こそグイっと一口気持ちよくあおった。


「ぷはー!」


私は笑顔でグラスを置いた。夏は、やっぱりトリスでしょ!


 その向こうに、ネコ手がどん、どん、と皿を並べる。温かいトマトと、温かいキュウリと、温かい充填豆腐が勢揃いだ。


 充填豆腐は、蓋に切り込みだけ入れて、あとはパックごと皿に載せられている。

 キュウリは、平均すると一口大に切られているが、その分散は大きい。

 トマトは、切ろうとした形跡はあるが、圧に負けてトマト缶のような程よい潰れ具合に仕上がっている。


 何だろう、この食卓は。そう思いながら、私は自分で冷蔵庫から中華だれのストックを取り出した。ついでに、プロセスチーズも出しておく。温かな食材にたれをかけ、私の優雅な晩酌が始まる。


 キュウリが柔らかく温かく、中華の炒め物みたいだ。ぐにゅぐにゅトマトはチーズのソースになる。豆腐は…暑い。具材の熱量のおかげで、中華たれの香りが際立つ。まあ、これはこれで、乙な食卓である。


「メニョ子、いつもご飯作ってくれてありがとな。」


汗をふきふき、私はメニョをねぎらった。


「にゃ」

「メニョ子は飯食ったか。」

「うぬー」

「そうか。今日は何が良い?」

「うい」

「そうか。マグロか。」

「ぬー」

「え、違うの?じゃ、サーモンにするか。」

「まう」


私は立ち上がり、サーモンのネコ缶を開けてメニョ用の皿に出した。メニョは身体が大きいから、カリカリもたっぷり足しておく。ちゃむちゃむ、カリカリと飯を食べる様は、どう見てもネコである。通常の数倍の大きさであるという点を除けば。


 メニョは、2本足で立つと身の丈4尺、小学校3、4年生くらいの背丈になる。ぎりぎり台所で炊事ができる高さだ。何でそんなサイズなのかは知らない。気が付くとそうなっていた。ネコを飼うのは初めてだったから、そういうものだと思っていた。しかし、NHKのネコ歩き番組のネコってヒトがはいつくばって撮影するサイズだよな、と思い当たり、メニョが世間一般より大きめであることは理解した。


 まあ、良いんじゃないか。おっきいことは、いいことだ。


「な、メニョ。」

「ちゃむ、ちゃむ。」


食ってるときに顔を上げると、口から飯がこぼれる。ネコというものは、口を閉じて飯を食うことができない生き物である。それは、大きくても、同じ。後で床を拭いておこう。

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