第2話 一 あの日の夢、あの日の空

 染井吉野が満開に咲き乱れ、枝と枝の間から透け落ちる木漏れ日が少しだけ眩しかった。

 春うららと表現が似合う穏やかな気候。頬をなぞる風が心地よい。辺り一面には歓喜の鐘が鳴り響き、部下達からかけられる様々な想いや声が耳に届いてくる。

 本日は岡部商事を晴れて(?)退社する記念すべき日。退社式である。

 毎日務めていた道はいつしか桜並木に、歓喜の余韻と思わしき桜の花弁が降り注いでいる。

 やはりワシは係長から動く事なく、毎日書類に判子を押すだけの仕事。初めは確かにそれだけの仕事に不満を抱いていたが、次第にどうでもよくなっていったワシは、与えられた仕事だけをそれなりにこなすだけ。

 課の中にあった机は徐々に端へと寄せられていき、遂には窓際に追いやられる形となったワシは、常に空気のような存在と化していた。それが故に、ワシの側には誰一人として寄りつく訳でもなく、涙を落としてくれる者もいない。しかし、それはそれでよいと思っていた。

 所謂適材適所というヤツで、そんなワシの最後にはこのような状況がお似合いだと我ながら思う。

 トランペットの旋律が耳に届いてきた。多分社員の誰かが良かれと思って吹いているのだろう。

「蛍の光か…。」

 何気なくそう呟いて視線を前に向けた所にこちらへと深々と頭を下げる女社員が一名。

「あ…。」

 その子の名は只木しずる。新入社員として入った時から手塩にかけて育てた唯一の社員の一人である。

 ワシを鬱陶しい目で眺めるだけの社員の中で、何故この子を育てようと思ったのかは訳があった。

 元来、この国の定年制は齢六十にして迎えるのだが、ここからは自己申告により、五年ほど先延ばしする事ができるのである。これは一見有り難い制度に思えるのであるが、よくよく考えてみると実はそうでもない。

 いつしか国から支給される年金は六十歳から六十五歳まで何故か先送りされ、素直に六十で退職してしまうと年金が支給されるまで五年という空白ができてしまう。確かに退職金というものは受け取るのであるが、これからも続く余生をしのぐにはこれだけでは心許ない。

 一世代昔なら六十代のくくりは老人と評されてもおかしくなかったのだが、いざ自分がそれに至ってしまうと噂で聞いていたのとは全く違う。

 飽食の時代の恩恵にて、この国の平均寿命は世界トップクラスへと登った。それが故に、六十になってしまった今でも身体は若い時と同じくらいとは言えずともすこぶる元気であり、まだまだ隠居するには早いという気に至るのである。

 大体の人がそう思うらしく、五年先延ばしを会社側へと要請するのであるが、そのまま全員が採用される訳ではないらしい。

 社内の噂で聞いたのだが、業績が余りにも芳しくなかった営業マンや、社内での素行が悪く、妙な噂が流れている社員はここでお役御免となるのだそうだ。

 話はこれで終わらない。むしろここからがこの制度の核心と言えよう。

 再雇用された社員にはこれまでと同様の業務内容が用意されていて、変わらないオフィス・ライフを過ごす事ができるのであるが、雇用形態は全くもって一変してしまうのだ。

 確かに早朝出勤や、残業などは無くなるのだが、それにしてもこれまで支給されていた給料の額が半減している事に再雇用の社員は皆困惑の色を隠せなかった。

 しかし、業務内容は変わらず用意され、その他、会社の後釜を育てる為の新人育成という仕事が更に加わるのである。

 団塊世代と呼ばれるワシ達の若い頃はもっと希望に満ち溢れ、仕事も遊びも懸命にこなし、毎日が楽しくてしょうがなかったと記憶するのだが、最近の若者はそうではないらしい。

 眼の光は暗く、皆が皆憂いを背負うように猫背でだらしない恰好で椅子に座っている。

 話を聞いているのかいないのか分からない若者を育成するのは大層骨が折れたのだが、まあ何とか使えそうに育ってくれてよかったと思っている。

 只木は珍しく教えがいがある若者の一人。皆の話を真剣に聞き入れ、仕事内容の吸収は群を抜くほどのものであった。

 多分、恩義ある先輩全てをこうして回って挨拶していたのか、ワシへとたどり着くまで相当な時間が掛かったに違いない。

 そう思うと胸の内は熱くなり、ワシは只木に対し声を這わした。

「只木っ!!これから頑張れよっ!!!」

「これまでお世話になりましたっ!!本当に、本当に有難う御座いましたっ!!!」

 顔を上げた只木の頬は大粒の涙が溢れ返っていた。

 この子の涙の色は分からないにしても、これは感涙に違いないから何の問題もない。

 軽く手を上げてそれに応え、ワシは踵を返し、会社へと背を向けた。

 後は振り返る事もなく、これまで四十三年通勤し続けた家路を急ぐだけである。

 ワシが帰る場所はもう自宅だけとなったのだという現実を胸に刻ませた。


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