R65  これからの路

岡崎モユル

第1話 一 あの日の夢、あの日の空

 ワシの名は田中康夫。

 大阪市生野区で生まれ。在学中、東京に妙な憧れを抱いたワシは、成人を期に両親の猛反対を押し切って無理矢理上京。

 当時、高度成長期だった日本。オリンピックを成功させた後の東京は大阪とは一味違う盛り上がりで、見るもの全てが真新しかった。正直金はなかったがある夢だけを胸に抱かせて、日雇いのアルバイトを何社もかけもちしながら毎日を懸命に生きていた。

 ある日、仕事の取引先だった岡部商事の人事部の方に何故か目をかけて頂き、上京二年、二十二歳の春。岡部商事庶務第四課へと正就職を果たした。会社玄関の下から屋上の方へ視線を向けた時、見た紺碧の空は今もこの胸に刻まれている。

 ただ想像と違った事は、憧れのスーツ出社と思いきや作業着を渡され、デスクワークではなく、会社中の雑務を一人でこなさなければならないという事。それでもワシは与えられた立場を懸命に頑張りたく、毎日毎晩馬車馬のように働き続けていた。

 出社した朝、微妙な桜の薫り。まだ誰もいない四課の電気をつけ、カレンダーを見ると入社して早一年の月日が流れている事を知り、何という事だと驚いてしまった。

 東京に身内はおらず、一人ぼっちは初めからなのだが、一年経った今でも恋人は愚か、親しい友人さえもいないという現状がワシを冷静にさせた。

 大阪から上京してきた理由。抱いていた夢。今となれば自身でも若気の至りだと思わざるを得ず、なんて馬鹿馬鹿しい事だと笑われてしまうだろうが、素敵な女性と知り合い、結婚したいという一心で親に勘当されてでも大阪から出てきたのだった。

 でもこの現状…。いや、真面目に仕事をしていれば、きっと誰かは見ていてくれるはず。一年くらいじゃへこたれちゃいけないと自らを叱咤し、ワシは更に頑張り続けていた。

 あれは確かそう、その年の夏。社内食堂で一番安いうどんをすすっていたワシに、「ちょっとよろしいですか?」女性の声。

 それは背中から、つまり後ろの方から聞こえ、誰か分からないまま振り向くと、ワシはすすっていたうどんを鼻から出してしまうほど驚いた。

 そこには総務課の華と囁かれている女性の笑顔があったからだ。

 社員の間で呼ばれているワシの通り名はニコニコ雑務。何でも笑顔で雑務を引き受けるからそう呼ばれているのだとか…。

 そんな事なんてどうでもいい。

 その総務課の華さんがこのワシにどんな用があるのかと、鼻の穴からこんにちはしているうどんにも気づかないまま、「あ…。お声をかけてもろて、ホンマ、いや…。本当に、すいまへん。ほんで、あ。それで、ワシ、いや、僕に、何の用でおまっしゃろか?」

「何よ、その喋り方。それより貴方、鼻からうどん出てるわよ。あはははっ!!!」

 いきなりの大笑いにワシは焦って鼻から出ていた麺を引っこ抜き、目の前に視線を向けると、腹を抱えて笑っている総務課の華さんの姿。周りの方々の笑顔がこちらへと向けられていて、どうしていいか分からなかったワシは、とりあえず周りの方々へ愛想笑いを向けながら誤魔化し続けていると、「噂通りの面白い方ね。では、ごきげんよう…。」

 総務課の華さんは食堂の笑いを拭うようにその場から去っていった。

 残された雰囲気はまるで荒野に吹く風の如く。うどんの汁も冷たく感じるのは多分そのせいだろう。それに耐えきれず麺さえも鵜呑みにして食堂から飛び出した。

 惨劇とも言えるその出来事は、しばらくの間暇な者達のおもちゃとされ、社内命令で徴集された先で必ずピエロのような扱いを受けた。が、それはおいしい事だと大阪人特有の価値観に助けられ、何とかその場をしのいでいた。

 そんなある日の退社時。

 作業着のほこりを払いながら会社の玄関を出ようとしたその時、「田中さん…。」

 思わずワシは立ち止まり、かけられた声の方へと視線を向けると、

「あ、ビックリさせてしまいましたね。ごめんなさい…。」

 そう言って頭を上げ、恥ずかしそうに表情を浮かべていたのはかつての総務課の華さんだった。

「ど、どないしたんですかっ!!?」

「うふふ。大阪弁ってそんな感じなんですね。何か優しいね…。」

 そう呟き笑いながら風に弄ばれる髪を押さえる仕草。何もできずにその場へと立ち尽くしているワシに、「これ、読んでください。肯定以外、返事はいらないので…。じゃ、また明日。」

 スローモーな長い髪のうねりと、ぶつかった視線の瞬間。総務課の華さんは闇の中へと消えていく姿を眺めながら、ワシはその場で立ち尽くすしかできなかった。

 気になる手紙の内容。

 総務課の華さんの実名は橋本由紀子。生粋の東京生まれ、港区育ち。

 どうやら先日のワシの失態が妙に気に入ったらしく(なんでやねん…)、プライベートでワシと食事に行きたいとの事。手紙の最後に電話番号と丁寧につけられたリップサービス。血が沸騰しそうな想いに堪らなくなったワシは、力のまま受話器を引き上げた。

 そうして食事の約束をして、逢ったその日に由紀子さんの口から恐れ多くも交際を請われてしまい、直ちにそれを受け入れてワシらの関係は始まった。

 ちなみにその橋本由紀子という女性。その後ワシと結婚し、今もワシと人生を共にしている伴侶。(今も昔もワシは子供の前以外ではゆこと呼んでいる)

 ワシとゆことの交際は社内へと瞬く間に広がり、嫉妬と喝采の混沌とした雰囲気の中で時の人となったワシは正直戸惑いながらも嫌ではなく、これが暖かさなのか豊さなのかは分からないが、とにかくこれが幸せだという事だけを学んだのは確か。

 仕事に恋愛に忙しく過ごす日々。

 それからちょうど一年後、急ぎ過ぎだという周りの意見を全て無視してワシらはまさかの電撃婚約発表。

 好きに噂する社内のムードが不思議と嫌ではなく、むしろ心地よい。それを期に寿退社する事となったゆこを囲む人の群れを横目にワシはほくそ笑んで、台車を引き、その場を去った。

 その翌月、急な社内辞令でワシは庶務課から総務課へと移動する事となった。それは、ゆこと直接繋がっているワシがそのまま仕事を受け持つという謎の栄転。

 これまで顎で使っていた各部署の者達の態度が変わった事に、ゆこがこれまで会社にもたらしていた力を垣間見て、容姿や立ち回りの良さも才能の一つだと痛感した瞬間だった。

 新たな職場環境。新たな人間。夕食時、ゆこの助言を受けている内に与えられた仕事も慣れていき、何故か相変わらず依頼を貰う庶務課の仕事も全うしていると、二十五歳になった歳。気がつくとワシは係長に就任されていた。

 ゆこが退社して三年。それはもうゆこ効果ではなく、自分の実力であると信じたい。それからというもの、庶務課からの仕事は一切来なくなり、朝から晩まで書類に判を押すだけの仕事となったワシは一日が退屈で退屈で…、しかし文句を言っても仕方がない。

 会社では書類を手に取り、精一杯判をつき、家ではゆこの腰を取り、後ろから懸命につき…。や、失礼。

 そんな日々。かつての上司は次々と退職していき、部下だった者がいつの間にか出世していき、正直うだつの上がらないワシに嬉しい知らせが舞い込んだ。

 それはワシらが結婚して四年目の夏。ゆこが第一子を身ごもったのだ。その事を会社へと報告すると、皆々様は大層喜んでくれて、まさかの社長御自ら祝い状を賜った。

 それにゆこは思わず感動して、その場で妊娠体操を踊り狂っていた姿を脳裏に残し『これからも頑張ろう。』ワシはそう胸に誓った。と、いっても書類に判をつく仕事だけなのだが…。

 ちょうど十カ月後。ゆこ似の玉のような可愛い女の子が産まれた。

 男の子ならワシが、女の子ならゆこが名前をつけると二人の間で約束を交わしていて、ゆこがつけた名は桜子。桜の花が好きだからというのが理由らしく、もちろんワシもそれを喜んで受け止め、田中桜子という女の子の生誕を二人で心から喜んだ。

 四年間かけてやっとできた第一子だったのだが、人間の生体というものは不思議なもので半年も経たない内に第二子の妊娠が発覚。それにはさすがのワシらも困惑を隠せなかったのだったが、喜ばしい事には違いない。

 再び会社へと報告すると、喜んで見せてはくれたものの、皆が皆浮かべている表情から何を思っているかを悟ったワシは、頭を掻きながら微笑む事しかできなかった。

 桜子が二足歩行でどこまでも走り回るくらいまで成長し、桜子をあやしながら懸命に背を追いかける姿を穏やかな視線で見つめるゆこ。そんな夜に産気づき、救急車。

 第一子の時とは違い、心持穏やかに対応できたのはやはり経験故なのか。それに伴っているのか、朝を迎えぬ間に元気な男の子を出産した。

 ワシがつけようと思っている名前は秀人。ワシのようにならず者ではなく、賢い人間に育ってほしいという切なる想いが込められている。

 嬉しそうに新たな子を抱えるゆこの頭を撫でながら、ワシは桜子を優しく抱きしめ、この幸せを胸に噛みしめて目頭を熱くさせた。

 不動の係長のまま、ゆこと共に老いを過ごしていく中。子供二人は瞬く間に成長していき、数十余年。

 今やすっかり大人になった桜子は在学中イギリスへ留学。一人の白人男性と恋に落ちてそのまま結婚。手続きの為、一度帰国したきり未だ帰ってきていない。知らせでは三人の子を授かったのだとか。

 秀人は大学院卒後、大阪の大手電工会社へ就職を果たし、先進技術者として大いに活躍しているらしい。

 忙しさ故に未だ嫁は娶っておらず、ちょくちょく帰郷しては仕事の内容を嬉しそうに語る姿をワシは誇らしく聞いた。ゆこはこんな地味な生活であるにも関わらず文句一つ言わず笑顔で生活を支えてくれている。

 只々幸せな日々。気がつけばワシは定年を迎える六十五歳になっていた。

 そして明日は、二十代初めから今に至るまで務め上げた岡部商事の退社式。遂にワシがこの会社を去る時がやって来たのだ。

 これまで金の事は全てゆこに任せていて、ワシの了見にはなかったのだが、どうやら退職金は三千万。各年金を貰えるという事で生活は安泰と、眼を輝かせて語るゆこの姿を何となくの笑顔で促していた。

 子育ても終え、我が人生そのものと形容しても過言ではない会社も終焉を迎えたこの先、何があり、一体どうなってしまうのか。

 寝息を立て眠るゆこの横顔を眺めながら、先を案じて過ごす今宵。

 ワシは一睡もできず、朝の光が訪れた。

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