アス
氷村はるか
第1章
第1話 月。
『第八ゲートの修理が完了しました。』
ドームからの放送は、耳元で唸る砂嵐にかき消されていく。
「おい。大丈夫か?」
「大丈夫です。」
宇宙服の手袋をはめた手で、もたつきながら太いワイヤーロープを操り、強風にあおられて飛ばされそうになる体を固定する。
太いワイヤーロープを通された外壁の半円リングは、長い時間を物語るには相応しいくらいに錆びている。
酸素がまったく無いという訳ではないが濃度はとてつもなく薄く、植物さえ育つことはない。
地平線を見たければいくらでも見ることが出来る。ただし、今現在のように舞い狂う砂粒と、とてつもなく大きな砂岩に視界を遮られなければ。
「あと三十秒で風が弱まる。その時にゲート付近の『
宇宙服の頭部。強化カーボンで作られた、紫外線遮断効果のあるマスク内側全体に、先ほどから通信で話しかけてきている先輩の顔が投影された。
「了解しました。」
「一人ずつだと危険だ。互いの体をロープで縛り付けよう。」
「でも、三十秒しかないんじゃ」
「もうすでにそちらへ向かい、私にはお前が確認出来ている。」
そう言われて面食らっていると、舞い狂う砂の左側から、ぬっ、と大きな手が伸びてきて腕を力強く掴まれた。
「早くロープを私の体に巻き付けて固定しろ。」
「了解しました。」
もたつきながら固定を開始していると、だんだんと視界が開けてきた。
互いの体が固定出来たのを確認する。
「固定完了。」
「今すぐここを離れる。」
言葉が終わる前に二人の体は動いていた。
必死に壁にしがみつきながら、慎重に一歩一歩足を進める。
目指す場所が視界に入った時、突然風が止まる。
辺りを包むのは不気味なほどの、
自身の息づかいの音しか耳に入ってこない。
「今だ、走れ! 」
先輩の掛け声に頷くことも忘れ、砂にとられる足を懸命に動かす。
目的地の『物見の塔』へ入り扉を閉め、二人して胸を撫でおろしたとき、とてつもない衝撃音と共に再び風が強まっていく。
「ギリギリだったな。」
「はい。」
物見の塔の中を、大袈裟に首を上下左右に動かしスキャニングを開始した。
どこかに酸素のバルブがあるはず。
正面には使われなくなっているコントロールパネルと、モニターと一体型の強靭な透明パネルが
「運がいいな。砂嵐が止んで行動に移すまでの十分な酸素がある。マスクを外して一息ついてもいいが、あまりオススメしないな。」
「そうですね。」
辺りを再度見まわして答えた。
この『物見の塔』と呼ばれている場所は、各企業が入っている巨大ドームの一角にある。
遠い昔、地球に住む人類が月に来た時に、気象観察など多用な目的のために設置したらしい。
どうやら軍隊といわれた、戦うことを仕事にしていた者が途用されていたそうだ。
地球に住んでいたころは国境という線を引いて、隣り合う『国』と呼ばれる領域が無闇に攻撃しあわないよう、牽制しあっていたと学んだ。
人種間でも、出身の国や肌の色、髪の色など些細な理由で優劣をつけるという、とてもおかしい行為もしていたそうな。
差別というものだ。
こえれは現在でも生き続いている必要のないものだ。
正面の透明パネルのさらに向こう側を見る。
まだ砂嵐の力は弱まる気配がない。
(確か、あれはここから近い処にあったはず。)
思い出そうと脳裏に描き出すのは、地球人類が初めてこの月に降り立った証。
だいたいが赤と白のストライプで、左上隅に青地で白の星が沢山描かれている大きな布で、穏やかな天気の日には気持ちよさそうに空を泳ぐ。
立てられたポールの元には、当時着られていた宇宙服の足跡が残っていて、初めの一歩の象徴として残されている。
今となってはそこまで重要なものではないと思うが、歴史として大切だと声が上がったらしく、強化プラスチックで四角く覆い地面にビスで固く留められ保存されているのだ。
現在周囲には地球人類が好んでいたと伝えられている、色とりどりの花々がケースに入れられ、展示され月の住人にも親しまれている。
考えに耽っている間に、砂嵐が弱まり多少でも視界がクリアになった。
「今頃何をしているのかな。」
自然と口から出た言葉に本人は気付いていない。
その様子を見ていた先輩は、哀し気な表情をしていた。
彼は一瞬目を閉じて、意を決した様に強く瞼をあける。
そこには先ほどの哀しみなどなかった。
「今のうちにドームへ入るぞ。」
肩を軽く叩くと、キッ、と睨み返してくる後輩だが、誰だったのかを知ると弱々しい表情になる。
「了解しました。早くここを出ましょう。」
二人は再び舞い狂う砂粒の中を、慎重に歩んでいった。
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